第2話
おばあさまの自室に備え付けられた調理場には石段があり、降りると地底湖に出る。
湖の畔でランタンを掲げれば、体長一メートルほどの兎が水面に横たわるのが見えた。
アシナガ兎は耳と前足が短く、後ろ足が長い。後脚の力は強く、数メートルの高さを軽々と跳ぶ。主な獲物は鳥で飛行中の喉元に食らいつき死ぬまで離さない。
試しに大きめの石を投げてやるが反応はなく、気絶や死んだふりではなさそうだ。
「引き上げようか。ロアはそこで待っていて」
「うん。警戒は任せて」
ロアは胸を張ると、壁の模様が人間の顔みたいだとはしゃぎだす。
一秒で見張り番を放棄するなんて、呆れを通り越して尊敬する。
ポジティブに考えよう。きっと危険がないからのんびりしているんだ。
上着と厚手のパンツを脱ぎ、インナーのショートパンツの丈を確認する。この長さならたぶん濡れない。
靴を岸辺に置き、遠浅の湖へ入る。地熱の影響で温かく薄着でもへっちゃらだ。
湖には傷の治りを早める効能がある。
傷ついた獣はどこかにある抜け道から傷を癒しに来る。怪我が治れば良し、ダメならこうして浮かぶ。
兎の背中には大きな傷があり血の筋が水面を汚している。これが致命傷になったのか。
アシナガ兎の首にロープをかける。
まだ温かい。ついさきほどまで生きていたんだ。
ぎょっとして手を引っ込める。
動揺のあまり瞳が泳ぐが、湯気が立ち上る静かな水面しか映らない。それが逆に不気味で、暗がりに何かが潜む気がしてならない。
いつもと同じ景色なのに違って見える。怖い。早くここを離れよう。
死後間もない亡骸が、居住スペースの近くに浮かぶのは珍しい。
森に住む者達はおばあさまを恐れているため、住まいのある湖畔には近づかない。こうして見つかるということは、おばあさまを怖がらない個体がいるんだ。
おばあさまは沢山の生き物を手にかけ、森に相当恨まれている。仲間を殺された無念を晴らそうと考える動物は多い。弟子である私も恨みの対象になるから、襲われる可能性がある。
ここはもう安全ではないのかもしれない。
ロープを引きながら、おばあさまとの暮らしを思い出す。
おばあさまは島の生態系の解明のため、生き物を生け捕りにし、調査を名目にした拷問を行った。
仮死状態にして腹を裂き、未知の薬草を与え経過を観察する。
獣を手懐け、同属の群れを襲わせる。
ほかにも色々、おぞましくて口には出せないようなことをしていた。
私は実験の記録を取るように命じられ、目を覆いたくなるような行いの末路を見届けた。
言うことを聞かなければ殺される。そういう意味では私も実験体と同じだった。いらなくなればあの獣のように処分される。そんな不安を常に抱えて暮らしていた。
「リリィ、おかえり!」
近くの岩にロープを結び、アシナガ兎が流されないようにする。
「美味しそうだね」
「捌くのは後で。このまま血を抜くからね」
「なら、その間に泳いで遊ぼうっと」
ロアは返事を待たずに湖へ飛び込んだ。体毛を軽くすいてやれば、水面に泥のようなもやが広がる。
うう、汚い。
黒毛狼は体を洗うのが好きじゃない。体臭が消えて、縄張りのマーキングに支障が出るからだ。
「リリィは湯浴みをしないの?」
湯浴みは良いことずくめだ。指先まで温まり全身の汚れが落ち、ついでに衣服の洗濯もできるが入りたくない。
「しないよ。アシナガ兎を見たよね。亡くなって間もなかった」
「うん、そうだね。それがどうしたの?」
間延びした回答から危機感のなさが伝わってくる。死後間もない兎がいる意味を、深く考えていないのだろう。
「おばあさまを怖がらない生き物が増えているんだよ。ひどい実験で命を落とした動物達が、おばあさまの私室や、弟子の私を狙っているのかもしれない。湯浴み中に攻撃されてもおかしくないんだよ」
地底湖は襲撃者に地の利がある。
湯の温かさで気が緩んでいるところを襲われたら、ひとたまりもない。ロアはいるが陸ではないから反応は遅れ、致命傷を負うリスクしかない。
湖に入らないのが身を守る方法なんだ。
ロアは耳を立てながら、首まで浸かりリラックスしている。
「リリィは心配性だなあ。おばあさまの影響はもうないよ。リリィが使うこの家が狙われることはない。リリィを襲うなんてもっとないよ。そんなことをしたら森中が敵にまわる。生きていけないよ」
「……そうかな」
雪の森最強と謳われた老婆を怖がる者はおらず、私だけがその恐ろしさに縛られ続けている。そう指摘された気がして少し傷つく。それから傷ついたことを意外に思う。
たくさんひどい目にあったのに、否定されるのが嫌なんだ。
「とにかく入らないから」
「良かった! リリィは美味しそうな匂いがするから、洗ったらもったいないよ」
聞き捨てならない。それってつまり。
「臭いってこと?」
「うん! 薄焼きパンを一カ月放置したお皿の匂いに近いかな。あの香りはそそられるんだよね」
「やっぱり入る」
「ええーっ。止めようよー」
服を着たまま肩まで沈む。温水の中で肌着一枚になり、念入りに洗う。
服は手入れをしているし体も拭いている。
臭いと言われるなんてショックだ。
試しに腕に鼻を近づける。
うーん、ロアの言う「美味しそうな匂い」ってなんだろう。狼の嗅覚は鋭いから、人間の鼻では分からない香りがするのかもしれない。
肌の次は髪。頭の先まで湯に浸かり、水面から顔を出す。海坊主になったみたいだ。
濡れた視界がわずかに明るい。
水底がほのかに光っている。
光源は水草だ。水草は卵生で、産卵が近づくと発光する。
光は湖面全体に広がっていく。萌黄色の絨毯が完成する頃、岩壁の隙間から魚が姿を現した。体長は十センチほどで明るい桃色の体を持つ。
水草の合間を優雅に泳ぐ姿は、蜜を探す蝶に似ている。
産卵が始まった。卵は水草の根本から絶え間なく排出される。
卵は指先で摘まめる大きさだ。表面は透明な膜が張り、中は白濁としている。触れると簡単に弾けてどろりとした中身が出る。繁殖には向かないが栄養価は高い。
卵は魚達のエサとなり、あっという間に食べ尽くされる。高カロリーの卵を与えられた魚はぶくぶくに肥え、脂の乗ったごちそうになる。
水草は茎と葉を絡ませ魚を捕獲。根を張って体液を吸う。養分を吸われ続けた魚は干からびて硬くなり、やがて湖の岩場の一部になる。
魚は水草に食べられるために太り、水草は魚を食べるために卵を撒く。
湖では、この生態系が維持されている。
魚は水草に捕まっても抵抗はしない。それどころか捕まりやすいように進化している。
悪目立ちする体に鱗はなく、水草が体液を吸いやすいフォルムを保つ。しっかり食べてもらえるように水草に体を擦りつけて泳ぎ、脂の乗り具合を伝えている。
いびつなサイクルは湖が温かい限り続く。
湖にいれば寒さに怯えずにすむし、天敵がいない。食べ物は豊富で死ぬまで安全が保障される。
自ら進んでエサとなり、次の世代の幸せのために水草を活かす。
ぬくもりは毒と紙一重だ。
卵を食べる魚を見ていると体は温まっているはずなのに寒気がする。そろそろ湯浴みを切り上げよう。
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