第5話
「いけない!」
慌ててイワカジリを両手で覆うが、指の隙間から顔を出し懇願する。
「そんなことをして薄氷の木を喜ばせても、解決しないんだよ!」
命を奪った側に残るのは手をかけたときの鮮烈な記憶だ。皮膚を裂き、内臓を押し進める感触と、体液が漏れ命が失われていく実感が両手に残る。
命を奪っても争いは解決せず互いの溝は埋まらない。相手がいなくなった現実が続くだけだ。
イワカジリの姿勢に対して木の反応は薄い。思案している素振りがある。
ぞっとした。まさか、殺す方法を考えているのか。
目の前の木が、小さな命を奪う喜びを感じるタイプなら非常にまずい。イワカジリが弱る姿を観察した後、私も同じ目に遭うかもしれない。空洞に閉じ込められて力尽きる様子を見たいと言われたらおしまいだ。
雪の下で逃げ場がなく、ロアの助けも望めない。
どうすれば良い? みんなが助かる方法はないの?
悩んでいると、地面がぼこぼこと盛り上がり、目の前に根が現れた。
何かを伝えようとしている。
身の危険を感じた心臓がうるさい。深呼吸で心を鎮めると、目を閉じて根に耳をあてる。
最初に聞こえたのは、私の考えを見抜いたかのような言葉だった。
ーー深部の木々は生き物が弱る姿を好むが、直接危害は加えない。その点は勘違いをしないでもらいたい。
手元から抜けだしそうな銀色に、口早に説明する。
「亡くなる様子を見るのは好きだけど、命は奪わないそうだよ。だから他の方法を考えよう」
伝えながら、説得になっていないなと思う。
イワカジリがこの場に留まり死ぬのを待つと言い出したら、その時点で仲裁は失敗だ。きれいごとだとしても犠牲は出さずに関係を修復したい。
「あなたが亡くなったら友だちや家族が悲しむ。仲間はあなたが無事に戻るのを信じて帰りを待っているはずだよ。群れはこれ以上の犠牲を望んでいない。平和的に解決するために私が呼ばれたんだから、ここで死んではダメ。まずはちゃんと話を聞こう」
せわしなく動いていた六本の足が止まった。つぶらな瞳をこちらに向けて、前足を擦る。
言葉が通じて良かった。これで少しは落ち着いた会話ができる。
根が話を続ける。
事の発端はいたずら心だった。
ケガの痛みに腹が立ち巣を壊したが、ちょっと驚かせる程度でいた。群れが総動員で頭を下げに来たときにやりすぎに気づき、ほとぼりが冷めるまで大人しくしようと決めた。
ケガの治療に専念している間に自然に解決するのを期待したが、仲裁役まで呼ばれどんどん大事になっていく。
早く謝らなければ事態の収拾がつかなくなると内心焦っていたらしい。
水音がささやく。
ーー怖がらせてごめんなさい。
鼓膜を揺らすのは穏やかな水の流れ。気泡が弾けて消えるかのように、濁った感情が洗われていく。
耳を離すとイワカジリは根に飛び乗った。根は振り払うことなくアリを這わせる。
しばらくの間、静かな時間が流れた。
互いに気持ちを交換して罪悪感を吐き出し、それぞれの思いが通じたのだろう。根はこれ以上巣穴を攻撃しないし、アリは岩塩の採掘に細心の注意を払うことが決まった。
トラブルが解決する兆しが見えた。あと一押しだ。
「提案なんだけど、仲直りの印として虹の絵を描くのはどうかな」
虹は互いの個性を認める意味がある。複数の色から成り立つ様が、森の多様性を表す。
双方はすぐに頷いたが、手元に絵の具はない。
だから石を使う。
最果ての石は「色持ち」だ。
見た目はごく普通だが、細かく砕き外気に当てると色が出る。どの色が出るかは分からず、砕いてからのお楽しみだ。
根に頼み、地中からいくつか石を探し出してもらう。石はイワカジリにお願いし、粉々にする。
砂の色がゆっくり変化していく。
この砂は橙。夕日の残り火をちらちらと燃やす、夜と昼の狭間。
次の砂は黒。まぶたの裏を思わせる優しい闇。
今度は緑。湿った地面に息づく苔の色。
島は雪深く、基本的に白い。だから色持ちの石や個性豊かな岩塩に驚き、感動する。
ロアがいたら興奮しすぎだと釘を刺されそうだけれど、良質な土には良い石が眠る。ロアには悪いが、わくわくが止まらない。
イワカジリ達も何色が出るのか気になるらしく、前のめりで見守っている。
ある程度色が揃ったら、砂から絵具を作る。
ランタンで氷を溶かして水と砂を合わせ練る。粉っぽさがなくなり、ねっちりとしたらできあがりだ。
作業袋を筆代わりにして絵具を取る。相談をしながら少しずつ半円の線を描き、新しい色を運ぶ。
「できた。虹だよ」
青、緑、青磁、橙、紅赤、青紫、金茶、黒。
色のレパートリーが渋い。なかなか明るい色が出なかったけれど、素敵な絵になった。
根が石を掘り出し、イワカジリが石を砕き、私が絵を描いた。三種族が力を合わせて完成させた世界にひとつだけの特別な虹だ。
この虹は、夏と秋の間をイメージしている。
太陽は快活に輝き、緑は日差しをたっぷりと受ける。太陽が傾けば夏を名残惜しむかのように空は赤く燃え、日が沈むとひんやりとした風が頬をくすぐるのだ。
島にいると季節感はないが、絵には秋の気配が感じられる。世界のあらゆるものが流れ着く場所だから、その土地の空気が石に宿るのかもしれない。
夏の熱気が涼しい風で冷やされるように争いも鎮まる。
イワカジリは根の上で絵の感想を話し合っている。
なんとか仲直りできたみたいだ。リーダーに良い結果を報告しよう。
どこかに地上への出口はないのかな。聞いてみようと口を開きかけたとき、ランタンの火力がわずかに落ちた。
不具合で火が消えたら困る。チェックしようとしたとき、私は唐突に吐いた。
唇の端から垂れる、ねばついた液体。胃液とパンが混ざっている。
朝食べた触手のソテーはなく、消化済みで安心した。吐いたら栄養にならないからもったいない。
ではなくて。
気持ち悪さは治まらず頭痛もある。だんだん考えがまとまらなくなってきた。
イワカジリが慌てた様子で走り出し、滑り落ちた通路に消えた。
穴掘りの疲れが出たのかもしれない。座っているのが辛くなり横たわるが、いくら休んでも体調は回復しない。悪化しているような気がする。
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