第3話

 ケガは許さない。死ぬなんてもってのほか、こんなところで力尽きるのは認めない。

 お願いだから無事でいて。

 駆け寄り何度も声をかけると、狼は弱々しく唸りながら体を起こす。



「ロア、大丈夫?」

「リリィ……」

「痛むのはどこ? 息はできる? 苦しいなら無理に喋らないで。すぐに家に帰って治療しよう」

「へっちゃらだよ。横になって休憩していただけだから、耳元で騒がないで」



 ロアはケロリとしていた。

 叩きつけられたように見えたが受け身を取っていたらしく、ケガはないそうだ。

 安心して脱力する。ケガがなくて本当に良かった。



「勝手に反撃しないでよ。なにかあったらどうするの。もう、心臓が止まるかと思った」

「心配しすぎだよ。振り落とされてびっくりしたけど、なんとかなったでしょ」



 痛手を負った八本足はいなくなり、浜辺は静けさを取り戻す。撃退に成功したようだ。



「ねえリリィ、ヤツは倒せたの?」

「いいえ。死骸が上がらないから、沖へ逃げたんだと思う」

「ちえっ。仕留め損ねちゃった」



 ロアは不満気に海を眺める。もしも泳ぎが得意なら、止めを刺しに行きそうだ。



「かまわないよ。帰ろう」

「また襲ってくるかもしれないのに?」

「……倒すのは気が引けるもの」



 穏やかな島暮らしを望むなら、敵は少ない方がいい。襲ってきたら倒す。それがリスクを減らし生き残るコツであり、ロアの意見は間違っていないと思う。

 敵を仕留めておかなければ後が大変だ。八本足は再生能力が高く、傷が癒えれば負けた恨みと悔しさからまた襲撃に来る。

 それでも私はヤツが生き延びてほっとしている。



「うーん。あえて襲われたいなんて、やっぱりリリィはドМだねぇ」

「やっぱりってどういうこと?」



 水平線がほんのり茜色に染まり、タイムリミットが迫る。ロアの雑な発言を撤回させたいが、ひとまずうちに帰ろう。



「ねぇねぇ、あれはどうするの?」



 ロアが鼻先で示した川を見れば、触手の一部が水面に浮いている。麻痺した部分を本体から切り離し、退散したらしい。トカゲのしっぽ切りみたいだ。

 触手は氷塊にひっかかり、いずれ川の流れをせき止めるかもしれない。



「陸に引き上げよう。川に誘導したのは私だし、後片付けをしないと迷惑になる」

「とか言いながら、触手の記録を取りたいんでしょ」

「まあそれもあるけど。とにかく手伝って」



 ロープで縛り触手を引き上げる。

 表皮は鮮やかな赤、断面は美しい白。骨はなく、主に筋肉でできているようだ。吸盤は全部で十六個、その大きさは人間の顔がすっぽりおさまるくらいあるが、触手の先に近づくにつれ、小さくなる。 


 メジャーを当て、手早く触手の大きさを測る。断面の横幅は四十六センチ、縦幅は三十八センチ、全長は三メートル三センチ。触手の先端部分でこの長さなら、胴体付近は倍以上の大きさがありそうだ。



「リリィはすぐにメジャーを出すよね。測るのが趣味なの?」

「メジャーを出して、戻したときの感触が好きなんだよね」

「僕は食べることがだーい好き。鶏肉とか、大きな獣の肉とか、よく分からない肉とか」

「はいはい。触手を運ぶの手伝ってね」



 持ち帰ったものの、触手は大きく室内に収まらない。出入り口の近くに置き、雪をかぶせておく。

 すぐにでも記録をつけたいが、ひとまず暖を取りおなじみの香草茶で体を温め休憩する。

 足裏は熱を持ち、腕は筋肉痛で曲げるのが億劫、後頭部のたんこぶは腫れて全身に鉛を垂らしているようなだるさもある。

 すぐに眠れそうでいて、横になると寝付けない、そんな疲れだ。


 目を閉じれば悪夢のような猛攻がよみがえる。ふやけたクラゲのような目に、怒りと恨みが混ざった真っ黒な感情が見え隠れする。

 本当に怖かった。

 お調子者のロアも思うところがあるのか、静かに香草茶を舐めている。

 変だ。文句を言わないのは我が家の狼じゃない。



「本当に平気? 内臓はおかしくない? ケガは隠さないでね」

「大丈夫だって。リリィは優しいなぁ」



 背筋を伸ばして座り、喜びをアピールするが、すぐに尾の振りが弱くなる。やはり元気がない。



「なにかあったら言って。からかったりしないから」



 黒毛狼は小さく唸り、少しの間を置き口を開いた。



「ヤツがあんなに手ごわいなんて知らなかった。リリィを守りきれずに、死んじゃったらどうしよう。リリィがいなくなったら、僕、生きていけないよ」



 思わず瞬きをする。

 八本足との戦いでロアが死ぬと焦ったが、彼も同じように考えていたんだ。嬉しい気持ちと、大切な家族を失う恐怖がないまぜになる。島での生活は死と隣り合わせで、毎日顔を合わせる相手が翌日はいないかもしれない。

 だからこそ一緒にいる今が尊い。



「そうなんだね。私も似たようなこと考えてた」

「リリィ、不安そうな顔をしないで。ヤツがまた現れたら、僕がボッコボコにして、生きて返さないから」

「うん……」



 決死の覚悟でロアは八本足に攻撃をした。ヤツを倒せば襲われる心配はなく、安全に浜辺で作業ができるし島の生態系も壊れない。良いことづくめだ。

 ならば触手を川に誘導したとき、ロアに倒せと言えば良かったのか。

 正解か分からず私は迷う。



「ロアはやっぱり、ヤツを倒したい?」

「そりゃあもちろん。どうして迷うの?」 

「これを読めば分かるよ」



 積まれた本の山から一冊を取り出す。各国の航海の記録をまとめたものだ。



「ヤツについての記述があるの。ロアに見せるのは初めてだね」



 保存状態は悪く、長期間海水に浸った影響で紙はしわしわ、ページが張り付き文字が滲んでいる箇所もある。



「うーん、読めないなぁ」

「南の国の文字だよ。辞書を四冊使って、最近ようやく解読できたの」



 本の合間から折り畳まれた用紙を出し広げると、解読した内容を読み上げる。

 北と南の海の境に棲む、赤い宝石と呼ばれる生物の話。

 赤い宝石は波が穏やかな日にしか現れず、その姿を目撃すると航海が成功する言い伝えがある。

 船乗り達は赤い宝石を見ると喜び手を振った。赤い宝石は船が好きで、ときには並走し、足を揺らして応えた。

 ロアはぷくっと頬を膨らませる。



「本当に航海の記録なの? 作り話でしょ」

「そう言われるとなんとも。本当なのか確かめようがないからね。ちなみに、赤い宝石はヤツのことだね」

「ヤツと人間が仲良しだなんておかしいよ。船を沈める怪物なのに」



 疑問を解消するために続きを読む。

 ある客船の記録。

 客船は故障により舵を失い漂流。食料はなくなり、数百人の乗客が死を待っていると、赤い宝石が波間から現れた。

 空腹に耐えかねた誰かが言った。



 ーー赤い宝石を食べよう。

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