第2話

「リリィ、走って!」

「本気で走ってるよ。でも……」



 石段を目指すが、行く先を触手に阻まれてしまう。目の前に触手が伸びたら後退するしかなく、攻撃が速すぎて避けるのに精一杯だ。

 ロアのスピードなら階段までたどり着けるはずなのに動きが鈍い。こちらを気にして何度も振り返り、俊敏な黒毛狼の本領を発揮できていない。

 奥歯を噛む。足手まといなのは私だ。もっと速く走れたら攻撃から逃げられるのに。

 ロアだけ先に退避してもらおうか。ううん、それはダメ。ロアは優しいから、置き去りにしないだろう。



「どうするの? いつかやられちゃうよ」

「分かってる。考えているから、ちょっと耐えて」



 ロアと一緒に逃げ切るためには八本足を分析する必要がある。動きが読めれば隙ができ、その間に行動できる。

 そもそも、なぜ好戦的なんだろう。普段はこれほどしつこく攻撃してこない。

 前回までは石段の辺りで八本足の出現を確認してから追い払っていたが、今回は波打ち際を歩き、最初に撤退している。


 もしかして、それがダメだった?


 今までは対等なライバルだったが、私達が逃げたため、八本足は勝てると確信して猛攻を続けているのかもしれない。

 こちらが有利だと思い込んでいたから、なにも考えずに波打ち際を歩いてしまった。私のミスだ。今まで通り石段で待機していれば、こんな事態にはならなかった。


 鼻の奥がツンと痛み、こぼれそうな涙をぐっとこらえる。


 ネガティブになれば事態は悪化するだけだし、追い込まれるのはらしくない。苦境は何度もあったが、知恵を絞り対応してきたじゃないか。冷静になり諦めず考え、攻撃を観察すれば、窮地から抜け出すヒントがあるはずだ。


 何度目かの攻撃を避けて気づく。


 触手の破壊力はすさまじいが、連発は難しい。一回につき一足を動かし、触手を戻す間は手を出してこない。

 単発でしか攻撃できないのなら、この方法でピンチを乗り越えられるはずだ。



「触手をかわした後に、反撃はできる?」



 息を切らしながら放った言葉に、狼の耳がピクリと反応を示す。



「できるよ」



 背後に響く破砕音と、砂浜に散らばるつぶて。雪と氷が混ざる土煙の中に、撤収を始める一本が現れる。

 触手を狙いロアが跳んだ。

 一足飛びで距離を詰め、前足を振り下ろす。金の爪が触手の表面を裂いた。

 痛かったのだろう、八本足は体を上下に揺らしてもだえた。



「ぬるぬるしていて、爪が思うように通らないよ」

「十分だよ」



 引っ掻かれたのが気に入らないのか触手が数回飛んで来たが、あからさまにロアを標的にしている。



「逃げながら玻璃の川へ向かって欲しいの」

「うん。僕、頑張る!」



 張り切った直後に転倒し、すれすれを触手が通過する。

 攻撃が外れてほっと胸をなでおろす。

 なにかあっては困る。命は一つしかなく、失えば戻らないから。

 ロアは寝起きの千鳥足のようなステップで河口に到着した。



「攻撃に合わせて川の対岸に飛んで。そうすれば、なんとかなるから」

「任せて」

「危険な目に遭わせてごめんなさい」

「大丈夫だよ。リリィの考えはいつもたくましいもん」



 触手が高速で飛び、狙いを定めて一直線に走る。



「ロア、行っきまーす!」



 間の抜けたかけ声と共に、ぐっと体を縮め、足をバネのように一気に伸ばす。

 黒毛狼の跳躍は鋭く速い。その姿は流れ星のように、砂浜から放出された月光をまとい、きらびやかなアーチを描く。

 八本足はすばしっこいロアを捉えられず、川へ突っ込んだ。冬の寒さを濃縮した冷たさに動きが鈍る。


 狙い通りだ。


 八本足の巨体は川幅より大きく水底へ引き込まれはしないが、少しの間動けないはず。

 チャンスだ。この状態なら逃げ切れる。


 対岸に飛んだ相棒に声をかけようとして、ぎくりとした。

 むき出しの犬歯、吊り上がるまなじり、逆立つ体毛、その威嚇は地獄の番犬を思わせる凄みがある。

 形勢逆転により心に余裕ができ抑えていた感情が噴出したのか、受けた仕打ちが怒りへと変わったようだ。



「よくもリリィをいじめたな! 許さないぞ!」



 川に突っ込んだ触手を足掛かりにロアは駆ける。

 その速さは疾風のごとく。巨体との距離をあっという間に詰め、正面から体当たりをくり出した。

 黒毛狼の体は矢のようにめり込み、バランスを崩した巨体は仰向けのまま倒れていく。

 追撃の手は緩まない。ロアは裂けてしまいそうなほど大きく口を開け、凶悪な歯牙を見せつけながら飛びかかると、ぶよぶよの目玉に嚙みついた。

 八本足は痛みから逃れるために海をひっくり返す勢いで暴れた。ロアは振り落とされ、背中から砂浜に叩きつけられる。


 狼は動かない。


 全身から血の気が引いた。指先は小刻みに震え、足元がふらつく。

 私は考える前に走り出した。



「ロア!」

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