第四章 ヤツ

第1話


「リリィ、ヤツだ」



 柄にもなくロアが真剣な顔をしている。

 毎朝のルーティンに向かう最中、石段を前にして足を止める。



「ヤツって、ヤツのこと?」

「そうだよ。塩辛くてつーんとした臭み。浜辺に来ているよ」



 ロアは鼻が効くから、到着前に警告するなら本当なのだろう。

 とうとうヤツが現れたのか。船のロープや積荷が何回も漂着するため、いつかこの日が来るのではないかと思っていた。


 ヤツとはぬるぬるした水棲生物で体の大きさは推定八メートル、赤くて丸く、肌はぶよぶよしている。濁った目玉が二つ、触手が八つあるのが特徴だ。

 八本足は船を沈め、その残骸を触手で拾い集める習性がある。浜辺に現れたのは流れ着いた船の一部分を手に入れるためだ。横取りを許せば浜辺は八本足の縄張りになり、もの拾いに支障が出るし、島の生態系が変わってしまう。


 なによりも水棲生物に支配された暮らしは全身が生臭くなりそうで嫌だ。島の平和のために見かけたら海へ追い返すしかない。


 階段を降り、気配を探す。


 凍てつく浜辺は大きな鏡となり、明け方の夜空をぼんやり映し出している。砂浜には貝殻や小石一つない。大きな触手で砂浜をなぞり、根こそぎ海へさらったのだろう。


 ロアとおしゃべりをしながら波打ち際を歩く。

 このまま散歩を続けていれば、いずれ姿を現すはずだ。

 私達は何度も八本足と交戦し、打ち負かしてきた。こちらが全勝のまま引き下がるとは思えない。



「リリィ、出たよ」



 読みは当たり、海面が丘みたいに盛り上がる。底から海を持ち上げるような重たい水音。飛沫の中に吸盤が見えた。

 水中に潜みこちらの油断を誘う、ヤツの常套手段だ。



「一旦退くよ。ロア、早く」



 全速力で波打ち際から離れる。このまま交戦しても、触手に捕まり海に引きずり込まれるだけだ。手間はかかるが安全に撃退したい。

 巨体の頭が水面を割り、押し出された海水が浜辺を呑む。まるで濁流だ。

 崖沿いの大岩に登りやり過ごすが、ロアが回避に失敗し派手に濡れた。



「うはあ、べったべた」

「早く乾かさないと」

「分かってるよ」



 ロアは体を小刻みに震わせて体毛から水を飛ばす。寒中水泳を楽しむ狼なのでこれくらいは平気だが、波が繰り返されると心配だ。体温が奪われて凍死のリスクが上がる。

 八本足は再び海中に潜った。


 様子がおかしい。なにか企んでいる。


 今までは浜辺の近くで触手を振り回して攻撃するのが定番で、隙をついて小突くだけで撃退できたのに、行動パターンが違う。

 岩場から動かずにいると、丸い頭が海面を勢いよく突き上げた。海水が何度も浜辺へ押し寄せ、波が落ち着くと再び海面を持ち上げる。この動作をひたすら繰り返す。



「そうか、水中から攻める作戦なんだ」



 波打ち際までの距離は十五メートルほどあり、こちらは打つ手がなく、八本足は安全な位置から一方的に攻撃できる。岩場の上なら波は届かないが、日の出と共に海が荒れたら逃げ場はない。

 知能は高くないのに遠距離から追い詰める方法を思いつくとは、長年の宿敵だけある。

 考えろ。どこかに突破口があるはずだ。



「リリィのショベルでも投げてみる?」

「届かないし、ショベルがなくなるのは困る」

「じゃあ僕が突撃しようか。えいやーって」

「なにも考えずに突っ込むのは危ないよ」



 黒毛狼の瞳が潤む。



「ならどうするの? 僕、エサになりたくないよ」

「私だって嫌だよ」



 八本足に食べられるのは避けたいけれど方法は思いつかない。遠距離攻撃ができる道具はないし、ロアは接近戦に向いている。大波を越えて反撃するには空を飛ぶしかないが、私達は魔法使いじゃない。

 こうなれば残された選択肢は一つ。



「ロア、ひとまず逃げるよ」

「戦わないの? 黒毛狼なのに逃げるなんて恥ずかしいよ」

「これは立派な作戦だよ。うちに帰ればたくさん本がある。情報を集めて八本足を追い払う道具を作ればいいの。なんの考えもなく戦ってケガをするほうが問題だよ」

「でもさあ、売られたケンカはちゃんと買わないと相手に悪いよ? 売られたのに買わないなんて、出されたご飯を無視してお腹を空かせるようなものだよ」

「どんな例えなの、それ」



 黒毛狼は森のトップに君臨しているため、敵に背中を向けるのが嫌なのだろう。

 狼のプライドより命を守るのが優先だ。ロアのわがままを受け入れる余裕はない。



「とにかく今は戦ってはダメ。正々堂々と全力で逃げよう」

「ううん、仕方ないなあ。リリィがそこまで言うなら、そうするよ」



 自宅で情報を集めて、八本足を追い払う道具を作ればいい。作戦もなく抵抗をするのはケガのもとだ。命を落とせば島暮らしを楽しめなくなる。

 大量の海水が岩肌を叩き、すーっと引く。

 次の波がない。



「よし、今のうちに石段へ行こう。崖の上に逃げればヤツも手を出せないよ」

「大丈夫かな。なんだか嫌な予感がするよ」



 岩を降りて走り出せば、ロアは不安そうな顔でついてくる。

 浜辺に現れた大きな影と不規則に踊る八つの足。そのうちの一つが、朝方の闇にまぎれて消えた。



「リリィ!」



 轟音が鼓膜を叩く。

 気づけば砂浜に横たわっていた。体のあらゆるところが地味に痛み、首筋がぬるっとして生臭い。狼のよだれだ。


 なにが起こったの?


 ロアが頭上でまくしたてる。

 触手がものすごいスピードで飛んできた。とっさに防寒着の襟を咥え、思い切り引っ張ったそうだ。


 見れば、先ほどまで身を寄せていた岩が破壊され、大小の石ころに変わっている。

 巨大な触手が突っ込んだ破壊力はすさまじく、一歩間違えれば私達が粉々だ。

 潮騒に紛れ湿ったものを引きずる音がする。淡い銀光が照らし出す、伸びきった一本のゴムのようなもの、触手がゆっくりと波打ち際へ帰っていく。


 痛みをこらえながら身を起こす。

 一撃でも当たれば命はない。動いていなければ殺される。


 八本足は触手で狙うのが早いと思ったのか、波を起こすのを止めた。

 一方的な的当てゲームの始まりだ。

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