第5話
「まずは霧の谷がどこにあるのか調べなくちゃ。ここにはさまざまな資料があるから、一緒に探そう」
本の塔から世界の地理にまつわる文献を引っ張り出す。積み方は雑だが、どの本になにが書いてあるのかはだいたい覚えている。霧の伝承が記載された資料を揃えると、つぎはぎだらけの世界地図を広げ、霧の谷と呼ばれる場所に丸をつける。
その数、実に八十五か所。世界の半分は霧に覆われているのかとツッコミが入りそうだ。
「数が多いのは気になるよね。拾った資料を参考に印をつけているけれど、創作が含まれているからこうなっちゃうの。島の外へ確かめに行けないから、可能性があるものは全部チェックしてみたよ。聞いてもいいかな。どのあたりから来たのか分かる?」
地域を絞り、資料から土地の特徴を調べ、行く方法を考える。時間はかかるけれど、しらみつぶしに探したっていい。
ここで会ったのはなにかの縁だから。
問いかけに対して極彩色の羽は地図の上をせわしなく飛び、やがて動きを止めた。着地したのは地図の端っこ、最果て島だ。
終着点から世界を見据える後ろ姿は、気丈にふるまいながらも、不安げで寂しそうに見える。
じっと地図を眺めた後、小さな体は綿毛のように浮き、眼前で止まった。
可愛らしい声が私の鼓膜を揺らす。
ーーどこから来たのかは分からないが、少しでも早く霧の谷へ帰りたい。じっとしてはいられない、すぐにでも出発したい。
旅に出る、その意志の強さを知っている。国に人身売買の商人が現れたとき、私はためらわなかった。
旅立ちは希望そのものだから、七十七を止める言葉を私は持たない。
虫はしっぽの先を、こちらの鼻先にちょんとつけた。
「……ついてきて欲しいの?」
島の外に出る。私が? それは許されるの?
七十七には伝えられずにいるが、そもそも島からの脱出は難しい。島周辺の海流は複雑で、しょっちゅう荒れるから渡るのは困難だ。風は島の内側に吹き込むため、空からの脱出も厳しい。
終着点はあらゆるものを受け入れるが、決して出さない。気ままに出入りできるのなら、最果て島と呼ばれないはずだ。
それでも奇跡的に島から脱出できたら、霧の谷まで一緒に冒険するのだろうか。
数々の都市と山脈を越えて未知の風景や人間と出会う、濃密な旅になる。
想像するだけでうっとりするが、私は最果てで一生を終えるつもりでいる。あの国と関わるのは望まないし、白妙の蕾が気がかりだ。なにより、ここには大切な仲間がいる。
答えられず黙ると、しっぽの先が鼻先から離れた。強い勧誘ではないらしい。
「一緒に行くのは難しいけど、他にできることはある?」
問いかけに答える声は小さいがしっかりしていた。
一匹で霧の谷を目指す心細さを打ち消すために、鼓舞しているようにも聞こえる。
意思が揺るがないうちに送り出して欲しいんだ。
小さな体の輪郭がぼやけた。それは一瞬の出来事で、すぐにもとの姿へ戻る。
ふと開けっ放しの鞄を見ると石鹸が大きく欠けていた。これからの旅に備えて、エネルギーを蓄えたらしい。
石鹸は食料だったのか。美しい羽を持つ虫は食べ物も上品だ。
七十七は扉が開くのを待っている。
覚悟を決めてドアノブに手をかければ、さらさらと白い欠片が入り込み、外は暗く白くけぶる。
引き止めたい気持ちを抑え、努めて明るく送り出す。
「気をつけて。風邪をひかないように」
キィキィと柔らかく鳴き、蝶の羽がぱっと外へ飛び出す。
ごう、と風が音を立て、思わず目をつむる。開いたときには見慣れた景色が広がっていた。
純粋な瞳と鮮やかな羽を持つ不思議な生き物。どことなく、ロアのお伽噺に出てきた星に似ていた。
扉を閉める。室内に入り込んだ雪片が溶けて水になり、石畳に馴染む。ここにいるのはいつも通り、私とロアだけだ。
「むにゃむにゃ。ううーん……なんだか寒いよ」
「空気の入れ替えをしたんだよ。こら、床で鼻水を拭かない」
愛用の毛布を与えてやれば、ロアは再び寝息を立て始める。
あの子は、この旅が過酷で無謀なものだと理解しているようだった。仲間のもとに帰るために危険な旅路を選択した以上、旅立ちは背中を押してあげたい。
だからこそ、ここから抜け出すことはできないなんて言えなかった。
前例はないが希望はある。必死に探せば脱出方法が見つかるかもしれない。
残された鞄から、ぬいぐるみ、食べ残しの石鹸を出し、ベッドサイドの机に並べる。
小さな旅人の最後のお願い。万が一仲間が訪ねて来たときのために、鞄の中身は大切に保管して欲しいと震える声で託された。
机を飾るのは祈りに似ている。
根拠のない希望を実現するために、先の見えない旅路の無事を願う。未来は不透明だから、気持ちは負けまいと神頼みをしたくなる。
ああそうか、だから棺にものを入れるのか。無事に楽園へ辿り着くように、あの世でも幸せであるように、想いを乗せて送り出しているんだ。
「よし」
記録用のノートを出し、今日のページを破る。
これは願掛けだ。
極彩色の虫はふるさとで仲間と再会して幸せに暮らす。それが正式な記録になると信じている。
破った用紙を薪ストーブの中へくべる。
炎はどこまでも明るく、優しく揺れた。
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