第5話
重力にならい体が傾き、あっという間に肘まで浸かった。
おぞけが走り、喉の筋肉がぎゅっと締まる。混乱のあまり呼吸の仕方を忘れ、息苦しさが増す。
腕の感覚が鈍いにも関わらず太い針で刺されるような痛みが襲い、凶暴な冷たさが脳を鋭く刺激する。
見た目は清らかなのに、伝わる水温は邪悪だ。これは川ではなく魔物の口。手を突っ込んだら骨の髄までしゃぶりつくされる。
もう、逃げられない。
痛む腕がどろりとしたものに触れた。この感触は、こぼしたジャムをすくいあげたときの、指の間からゆるりと垂れるやりきれなさに似ている。
生死の境目でなにを思い出しているんだろう。
ここにジャムはなく、浮いているのは細かなゴミや雪の塊、あとは
深いブルーをかき混ぜて、大きな影が見えた。それは川の横幅はありそうな怪魚だった。
怪魚は垂直に跳ねた。
手のひらが突き上げられ、私は大きく体勢を崩して尻もちをつく。 顔を上げれば
いつか読んだ本に、人間は驚くものを見たとき無反応になると書かれていた。
あれ、本当だったんだ。ウソだと思ってた。
ろくな対応ができないまま、魚は水中へ消えた。
川そのものかと思うくらいの迫力があった。
助けた魚の恩返しとか?
都合のいい解釈だけれど、とにかく助かった。
「わーお、すっごく大きかったね。
「うん、すごい……。すごいね。こんなことあるんだ!」
「助かったことより、初体験に興奮している。さすがリリィ、変態だ」
「だって、川の水に触れたんだよ。記録しなくちゃ!」
「うんうん。良かったねー」
危機は去ったのに心臓がうるさい。まさか水面や魚に触る日がくるなんて思わなかった。命と引き換えになる川の調査は進歩状況が良くないから、この体験は貴重だ。しっかり覚えておかなくちゃ。
「ねぇねぇ、ケガはない? 大丈夫?」
「ケガはないけど、ちょっとまずいかも」
「そんな、どうしよう。舐めれば治る? 僕、張り切ってべちゃべちゃにするよ!」
「それは止めて」
帰宅後、沸かした湯を桶に入れて腕を温める。体温を上げ、全身に痺れが広がるのを防ぐ。
湯につけているのに感覚がなく、皮膚の表面に透明な膜が張られているみたいだ。
濡れた後遺症で神経が麻痺している。
腕はここにあるのに、まだ川にいる感じがする。
水の中へ行きたい、食べられたいのだ。
特効薬はなく、水の毒が抜けるまで待つしかない。熱湯にくぐらせた布切れを巻き、症状が悪くなる前に食事を作る。
狼の歯形がついたホソクチバシの干し肉を適当な大きさに割き、香草茶の茶葉と白い粉、仕上げに塩をひとつまみ加えれば出来上がりだ。
食卓に出せば、狼はテーブルをひっくり返す勢いでやって来た。
「うわあ、ごちそうだ!」
「味付けにはこれを使ったよ」
小瓶の白い粉を見せれば、ロアは大喜びの後、首をかしげた。
「肉を出して粉まで使うなんてリリィらしくないよ。変なものでも食べた?」
「食べてないよ。変なものを口にして、しょっちゅうお腹を壊すのはロアでしょうが」
白い粉は、食べ物の旨味を最大限に引き出す貴重品だ。体調を崩したときは内服薬になり、ケガの治癒を早め、定期的に口にすれば寒さに強い体作りに役立つ。
万能ゆえに一年に一回しか採集のチャンスがなく、量も使用頻度も多くないから、疑いたくなるのは分かる。
「今日の肉は特別。ロアにお願いがあるの。ご飯を食べたら、私を縛る手伝いをして欲しいんだ」
「うんうん、縛るんだね。まかせておいて……って、ええ?」
食い散らかしながら目を丸くする。
「そんな趣味があるなんて、僕知らなかったよ。ドキドキしちゃう」
「殴っていいかな?」
腕は川に呼ばれている。扉を勝手に開けて外出するかもしれないし、ロアの心臓を狙い攻撃する可能性もある。あらかじめ縛っておけば、左腕が暴れても大事にならないはずだ。
食後、腕と胴体をロープでぐるぐる巻きにしてもらう。その出来栄えにロアは大罪人みたいだと腹を抱えた。
犯罪者扱いはひどい。囚われのお姫様とか、身代わりを買って出た深窓の令嬢とか、他の言い方があるのに。
たまにはスカートを履いて可愛らしさをアピールしたいが、服がないし寒すぎて現実的じゃないのは悔しい。
乙女心は傷ついたが縛って正解だった。
しかしこれって解けるのかな。難しければ嚙み切ってもらわなくちゃ。
「わーお、左手が勝手に動いてる。すごいね、面白いね。元気いっぱいの魚みたい。僕、これに襲われてみたかったなあ」
「ロアの喉元を鷲掴みにするかもしれないよ」
「そしたらリリィの腕を噛み砕いちゃうな。それはいけないね!」
鋭い八重歯を覗かせ、からっと笑う。悪意ゼロの冗談だと信じたい。
「ぶるぶるリリィとバイブレーションリリィ、呼ばれるならどっちがいい?」
「どっちも嫌」
奇妙なあだ名をつけようとするロアをかわし、引き出しを開ける。貴重な体験を残さなきゃ。
=====
第5話に最後までお付き合いくださり、ありがとうございます!
次のお話で第2章は区切りとなります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます