第4話

 ホソクチバシの動作は鈍くなり、頭から水中へ突っ込むと細かな気泡を吐きながらゆっくり沈む。


 この機会を逃すまいと浅葱あさぎの魚が現れた。亡霊が揺らぎ立つかのように数を増やし、群れを成す。

 一匹が体毛をつつくと、それを合図に何十もの口が毛をむしり取り、柔らかい肉と内臓を狙う。群れは円を描きながら、ホソクチバシと共に水底へ消えた。


 玻璃はりの川は魔性だ。生き物を水中へ引き込み、命を奪う。


 命が大切なら水底を見つめてはいけない。ウルトラマリンに魅せられ、川へ引き寄せられてしまう。

 至高の青を手に入れるために水に触れたら最後、あまりの冷たさに感覚が麻痺し、体の自由が奪われる。恍惚こうこつのまま溺れ死ぬだろう。


 玻璃はりの川は生きている。


 水底へ獲物をさらうのは食べるためだ。

 生きていればお腹が空く。人間がご飯を食べるように、川は浅葱あさぎの魚を操り、獲物を解体して食べる。


 主食は鮮度の高い心臓だが優先順位があり、好物は鳥、次は小型の獣、大型の生き物には関心が薄い。心臓以外に興味はなく無機物は必ず水面に浮かぶので、墓地まで棺を運べる。


 川なのに食事を摂り、好き嫌いがあると知ったときには驚いた。どこかに食欲をコントロールし、魚を生産する器官があるのだと思う。


 一度だけ好奇心のまま水を持ち帰ろうとしたが、桶に汲んだところ、中身が飛び跳ねて川に戻ってしまった。水が動くなんてびっくりだ。帰省本能みたいなものだろうか。


 理不尽で、怖くて、謎に包まれていてもっと知りたくなる。玻璃はりの川は恐ろしくも見る者を惹きつけて止まない。


 川に限らずこの島は神秘に満ちており、生態系は独特で謎は多い。

 狼はおしゃべりだし、薄氷うすらいの木には意思があり一本ずつ性格が違う。 


 島暮らしはびっくり箱みたいだ。目が覚めるような発見もあれば、中身に絶望して窮地に立たされるときもある。



「……?」



 なんだろう、暗がりの中になにかある。

 ランタンをかかげれば、そこには浅葱のゼリーが飛び散っていた。

 ロアは舌なめずりをひとつ。



「食べものかなあ」

「違う。触ってはダメ。あれは浅葱あさぎの魚だよ」



 浅葱あさぎの魚は流動体だ。骨格や内臓はなく水中でしか形を保てず、陸の上ではバラバラとなり潰れてしまうが、それでも生きている。

 触ったら川に呼ばれ、口にすれば内臓を侵されてしまう。


 危険だ。



「でもさ、森に落ちているなんておかしいよ。ぴょーんってジャンプしたとか?」

「勇気のある鳥や獣が、捕まえたのかもしれないね」



 無鉄砲なのか無知なのか、魚に手を出す者がまれにいる。もれなく水底行きだ。



「魚を川に戻そう。ロア、手伝って」

「ええっ、放っておけばいいじゃん。そのうち戻るよ」

「そうなんだけど、気になるんだよね」

「もう、リリィのお人好し!」



 ロアは優しい。文句を言いながら見守ってくれる相棒のためにも、早く済ませよう。

 散らばるぶよぶよをショベルですくい放れば、大きな波紋が水流にかき消されていく。



「……雑だなあ」

「そう思うなら他の方法を教えて」

「ないけどさ。ちゃんと魚に戻れたのか気になっただけ」



 言われて心配になる。

 ゼリーをくっつけず、水の中に戻してしまった。大丈夫かな。


 そうっと水面を覗き込む。


 弾けるしぶきは砕いた宝石をちりばめたような輝きを放つ。豊かな水筋の奥に見えるのは、川の真髄だ。


 ウルトラマリン以外にもいくつか色が見えた。混ざりあう瑠璃紺るりこんと群青、気まぐれに白藍しらあいが揺らぎ、暗くも明るくもある不可思議な空間が広がっている。


 あの深みに至れば、未知の解明に一歩近づくのかもしれない。

 深層に呼ばれているような気がして身を乗り出す。



「リリィ、ダメだってば!」



 いけない、引き込まれる。

 意識が呑まれて呼びかけに応えられなくなる前に離れよう。


 慌てて後方に下がろうとすれば足が滑り前につんのめる。受け身を取るために左手を伸ばすが、その先に地面はない。


 川に落ちる。


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