はじまり-2


「失礼します」



 途方に暮れて、どのくらい時間が経っただろうか。

 天井と同じく、花柄の絨毯を眺めていればノックの音が三回、同時に女性らしき高めの声が聞こえてきた。

 梓は頭だけを動かし、ドアの方へと向ける。

 ゆっくりとドアが開く。開いた先には可愛らしい女の子が立っており、その子は軽く頭を下げるとしとやかに部屋へと足を踏み入れた。



「!! お目覚めになられたのですね!」

 


 少女と呼ぶに相応しい、あどけなさの残る女の子だ。

 緩くウェーブのかかった長い髪の毛と、足首あたりまで丈がある外套がいとうを揺らしながら駆け寄ってくると、彼女は梓の顔色を伺うように覗きこむ。



「具合はいかがですか? 痛いところとか苦しいところとか……」

「あ、えっと、とりあえず大丈夫です。時々頭痛はあったけれども今はそれも引いてて」

「頭痛ですね。他にはどんな症状がありますか?」

「しいて言うなら……すこし、怠いです」

「わかりました。のちほど医師に診察をしに来るよう言っておきますね」



 まんまるの紫色の瞳が至近距離で梓を見てくる。その瞳はとてつもなくまっすぐだ。

 同性といえども鼻先が触れ合いそうな近さで顔を突き合わせたことはない。梓は気恥ずかしさから視線を逸らした。

 対して梓のそんな様子を気にすることもなく、彼女は梓を見つめたまま。

 梓が口にしたこと以外の不調がないのか、自分の目でも確認したかったのだろう。

 少女は「でもお顔の色はそこまで悪くはなさそうですね、安心しました」と言って柔らかく笑うと、ベッド脇のテーブルに置かれていたデカンタを手に取り、丁寧な所作でグラスに液体を注いだ。



「どうぞ」

「……ありがとうございます」



 液体は無臭かつ無色透明。グラスを揺らせば、左右に波打つ。

 水……なのだろうか。よくわからない。謎の液体すぎて怪しくて飲まないでいれば、少女は不思議そうに小首をかしげた。

 とりあえず、笑っておく。梓が持ちうる数少ない処世術だ。

 


「あの、」



 しかしいつまでも笑ってごまかすわけにもいかないので、話を振ってみた。

 梓の挙動を伺っていた少女は話しかけられたことで、姿勢を綺麗に正した。

 


「はい。どうされましたか?」



 少女のたずさえる笑みは部屋の雰囲気をやわらげる。ふわふわの色素の薄い髪の毛に似た笑顔だ。

 梓の愛想笑いとは違って、真心がこもったような笑顔は梓の警戒心をほぐす。

 この子になら聞いてもみてもいいかも。そう思った梓は一、二度、視線を彷徨さまよわすと疑問を口にした。

 


「なぜ私はここにいるんでしょうか?」

「ああ、急に場所が変わってびっくりされましたよね。あの後、倒れられたのでこちらにお運びいたしました」



 少女は「その際にお召し物が汚れてしまったので、着替えさせていただきました」とも続ける。

 もちろん梓にそんな記憶はない。

 今度は梓が小首を傾げた。

 


「あの後ってなんですか?」

「? もしかして、覚えていらっしゃらないのですか?」

「実はあんまり……。朝、学校に行く途中だったところまでは覚えているんですが、その先が思い出せなくて」

「なんということ……!」



 瞳がこぼれ落ちそうなくらい目を開く少女。

 見た目に反して落ち着いていた声音は瞬く間に乱れ、動作も文字通り右往左往と慌ただしくなる。



「どうしましょう。とりあえず、とりあえず兄さんに知らせなくては……。あの、少しの間お待ちいただけますか? 私の口からはあまり詳しくご説明が出来ないので、代わりの者を連れて参ります」

「わ、わかりました」



 正直なところ、あまりこの場に留まりたくないのが本音なのだが。

 かといって出歩きたいとお願いするのは得策ではない、そう判断した梓は素直に頷く。

 ここは見知らぬ場所。しかも自分は記憶の欠如がある。家に帰りたくても、現在地を突き止めなければどうしようもない。



(それにこの子も悪い子には見えないし……)



 ほんの数分話しただけだが、彼女が誠実な人間に見えたから。嘘をついているようには見えなかったから。



(あとで帰り路を聞けばいいだけだもんね。帰るのが少し遅れるくらい、きっと大丈夫)



 と、自分に心の中で言い聞かせた。

 梓はグラスの中を覗く。水らしき液体に映る自分は、とてつもなく不安そうな顔をしていた。

 


「こちらの飲み物はお好きにお飲みくださいね。では、一度失礼します! すぐに、すぐに戻りますので! 聖女様、また後程のちほど!」



 少女は入ってきた時と同様に丈の長い外套がいとうを揺らしながら、足早に部屋から出ていった。

 突如、部屋に静けさが戻ってくる。怖いくらいの静けさだ。

 部屋に一人っきりになると、心臓がけたたましく動いていたことに気が付く。身体の外に飛び出してしまうそうなほど大きな鼓動で胸が痛い。

 梓は空いている手で胸元を押さえると、悩みつつもグラスを口元へ持っていった。



「普通の、水だ」



 恐る恐る口にした液体は無味。嚥下えんげをすると後からカルキに近い味がやってきた。自宅でよく飲んでいた水とあまり変わりがない。ただの水だ。

 梓はもう一口、二口、とグラスを口に運び水を飲む。

 久しぶりの水分摂取だと喉が訴えていた。いったい自分はどれだけ寝ていたのだろう。

 本当、なぜこんなところに。どんな理由で。なんの目的があって。

 それに――。



「聖女って、私のこと?」



 現実世界では決して聞くことのない単語は本当に自分に向けられたものなのか。

 せいじょ、セイジョ、聖女? 

 脳内で四文字がぐるぐると回る。

 

 聞き返したくも、意味を問いたくも、もう部屋には誰もいない。

 梓はまたもグラスの中の水を覗き込む。先ほどより、もっと不安げな顔をしていた。

 水面をしばらく眺めた後、左右に揺らせば映っていた自分がかき消える。

 梓はグラスに再び口をつけ、一気に飲んだ。

 喉を通る水は家の水と違ってぬるかった。

 

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2024年12月1日 08:00
2024年12月1日 08:00
2024年12月2日 16:00

呪われた王子とのかりそめ婚〜いつかあなたと本当の結婚がしたい〜 あずま もも @azumahigashi_5

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