ここは外国ではなく……


「リシア、地図を」

「はい、兄さん」



 部屋にあつらえられたテーブルと四脚のチェア。そこの一脚に座るよう進言したのはユーリだった。

 ふかふかの座面は普段の精神状態なら気分よく座れるのだろうが、今の梓にとってはこの上なく心地悪い。



「こちらがクライツ王国の地図。こちらが近隣諸国も記した地図になります」



 ユーリとリシアがチェアに座らず立ったまま、というのも居心地の悪さに拍車をかける。

 姿勢正しく起立の体勢を保ち続けている様は、さながら梓の従者みたいだった。



「どうですか? きっと聖女様のお国の地図とは異なっているかと思います」



 テーブルに置かれた地図は二枚。セピア色で年季が入った地図だ。

 梓がよく目にしてきた日本地図とも世界地図とも違う地図を目にして、ますます頭が混乱していくのを自覚した。

 


「そうですね……。私が、住んでる国……のとは違います」



 動きの悪い頭でユーリから聞かれた内容を反芻はんすうし、やっとの思いで返事を口にする。

 蚊の鳴くような、途切れがちの声だ。梓の側に立つリシアがその声を聞いて顔をしかめた。

 


「ちなみに国名をお聞きしてもぉ?」



 きっとリシアには梓が事実に衝撃を受けていることが伝わっているのだろう。だから彼女は共感したように悲しそうな顔をする。


 かたやユーリの方は淡々としていた。いつの間にか戻っていた語尾を伸ばす話し方。

 あえてなのか、わざとなのか、聞く気力はない。

 


「日本、と言います」

「日本ですかぁ。聞いたことがない名前ですぇ」

「そう、ですか……」



 クライツ王国の地図と言われた紙には日本とは違う形の島国が描かれている。右上に書いてある文字や山、森、湖。それに領地の名前を書いていると思わしき文字は見たことのない言語だった。

 地図を眺めていると、座ってすぐにユーリに言われた言葉が脳内で蘇る。



 “単刀直入に言います。ここは貴方様が住んでいた場所とは違うのです”



 漫画やアニメで聞くような台詞をまさか当事者となって実際に言われる側になるなんて。

 梓は膝に置いていた手のひらをギュッ、と強く握る。夢か現実かを調べる古典的な方法は痛みを伴っていて、痛覚が夢ではないのだと突きつけてきた。

 


「私の一族は神官として、かぁなぁり前から国に仕えてましてぇ。仕事柄、歴史書などもよく読みますしぃ、地方に調査に行くこともあるんですがぁ……。いやぁ〜、日本という国は見聞きしたことがないですねぇ」



 “残念ながらねぇ”と添えるユーリの台詞がすべて他人事に聞こえてくる。

 まるで台本でも読んでるのかと思ってしまうほどに、単調で悠長な言い方だった。

 


「で、でも日本ていう国から来たのは事実なんです! ということは帰ることだってできますよね?!」

「さぁ? ちょっと断言するのは難しいですねぇ」



 現実を否定したくて必死な梓に対し、ユーリはとても冷静だった。

 彼の落ち着き具合を見ていると腹立たしくなるくらいに。


 腹の底がムカついて暴言が飛び出しそうになるのを耐える。唇を強く噛んだために、血の味が口の中に広がった。



「……聖女様」



 リシアが心配そうな声で梓を呼ぶ。



「聖女じゃないです。私には、葦原あしはら 梓っていう名前があります!」



 だが彼女の言う“聖女”は梓のことではない。名前では決してない。

 しおらしく「申し訳ありません」と答えるリシアの態度にも、腹の底のムカつきが増大するのがわかった。


 一度天井を仰ぎ見て、強く目を瞑る。だが、気持ちはしずまらない。



「帰りたいですかぁ? 生まれた育った国にぃ」

「当たり前じゃないですか! 帰りたいに決まってます!!」



 閉じていた目を開ける。景色は変わらない。必死に自室に戻れ、と念じていたのに、希望はむなしくも散る。


 豪華な天井が視界に入り、首を元の位置に戻せば異国の人間と一目でわかる男女が目に映る。ただ、それだけ。でも、たったそれだけのことが、梓に現実を突きつける。



(窓の向こうを見なければよかった)



 ユーリが訪ねてくる前に部屋の外を窓から見たのも、ユーリの発言に信ぴょう性を持たせる一因だ。あの時、梓は無意識に“外国みたい”と思った。

 本当に、その通りだったのだと愕然がくぜんとする。



(ううん。まだ、まだだよ。本当にこれが事実かどうかわからない)



 でも可能性を、希望を完全に捨てきれるほど梓は素直ではなかった。まだ塔に登っていない。あそこに登るまでは信じない。


 そう思うものの、気持ちは大分限界だった。目の奥が熱くなり、梓は両手で顔を覆う。

 沈黙が重たい。やや間を開けて、ユーリが「聖女様」と声をかける。


 指を少し広げて隙間から覗けば、彼は眼鏡を外套がいとうの裾で拭いていた。



「じゃあ、帰れるように頑張りましょうねぇ」



 レンズに優しく息を吹きかけるユーリの姿に呆気にとられてしまう。

 だって、そんな。今日の天気は晴れでーす、とでも言うかのような適当な言い方なのだ。


 軽く口にする話題では決してない。だがユーリは呆けている梓の気持ちなど他所に、まじまじとレンズの汚れの有無を確認すると、ゆったりとした手つきで眼鏡を鼻筋に掛け直す。

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