其の二 追憶

「ブーン――」


 高い汽笛の音が、約束通りに鳴り響いた。


 すると、深雪号は急速に膨れ上がり、白い巨人に変身した。その巨人は怒り狂って、鉄の体を駆使して黄金の夢の境界にぶつかった。そうした瞬間、心の中の世界はガラスのようにヒビ割れて、そして再び漆黒の虚無へと戻ってしまった。


 急に心臓が鋭い痛みに襲われ、意識は現実の世界へと戻ってきて、頭の中がフル回転。そしたら、僕は目を開けた。


 バリバリと賑やかなおしゃべりが耳に入ってくる。そして、目の前には真っ赤なシルエットが突如現れた。よく見ると、船室の真ん中に立っているのは船のスタッフだ。


 旅行客たちは厚着して、その熱心なスタッフさんに頭を下げた。彼らはまるで王国の大騎士のような装いをしてるけど、その大きなコートは亡霊から身を守るためじゃなく、北の厳しい寒さに対抗するためだ。ある意味、亡霊も寒さも、どちらも恐ろしい存在になり得るんだ。


 電灯の明かりの下で、四角い銀の切符がキラキラと輝いている。旅行客たちは小さな四角い切符をスタッフさんに渡し、その後、スタッフさんはハサミでチケットの一角をチョキンと切り取っていった。


 チケット?あ、それ、なんか買ってないみたいだな。まあ、チケット一枚って銀貨一枚もぶっこんでいる感じだし、このお金でちょっとした旅館の泊まりと美味しいランチが楽しめるってわけだよね。


 それじゃ、さて、スタッフのお姉さん、僕にどう対処するの?可哀想な、チケットすら買えない旅人を前にして。


 彼女が近づいてくるのを静かに見守っている。何もしなくても、何も言わなくてもいい。ただ壁に寄りかかり、普通に呼吸するだけ。リラックスして、ガチガチに緊張する必要はないってこと。


 まあ、チケットを買っていないだけでしょう?そんな大したことじゃないと思うよ。


 彼女の視線が顔に当たると、僕はぱっと目を瞬き、初対面の挨拶みたいにふるまった。僕が何かをほのめかしているかのように、彼女は無視して、僕のそばをスーッと過ぎ去り、階段をバリバリと上って、上層の船室に消えていった。


 うん、予想通りの展開だったけど、ちょっとした瞬間、やっぱりドキッとした。こんなこと、何度も経験してきたけど、光栄ってわけじゃないね。


 でも、やっと安心できる。無料サービスを満喫する、正真正銘の乗客として、飛行船の出発を待つ覚悟が整った。


 今、マントについた水滴はもう乾いていた。もし手を伸ばして、マントにくっついたちょっとした羽毛を払いのけられたらいいのに。でも、そんな勇気はない。息をするのさえ気を引き締めないといけない。


 ちなみに、このマントのおかげで、僕の旅はほんとに順調に進んでいたんだ。これがなかったら、スタッフのお姉さんや、たくさんの人たちの目をすんなりとすり抜けることなんてできなかった。


 このマント、すごいことに、忘川の小さな店で手に入れた。それからずっと着続けている。亡霊連邦を半分歩き抜けてきた相棒みたいなもんだ。もうすっかり、僕との結びつきが強くて、もはやこのマントは離れられない存在だってことがわかったさ。


 それから、あの元気な少女と、彼女が営む不思議で美しい小さな店のこと、今でも忘れないんだ。


 「はいはい、親愛なるお客様よ!本当にセンスがいいっすよ!これ、『霧の紗』だってば、うちの自慢の逸品なのよ!この紗は霧雨城の自然が生み出した、最高級の紗影木から作った黒い紗なのよ。これを身に着ければ、お客様の体、呼吸、魔力の気配、そして霧の紗そのものまで、全部が隠れちゃうんですよ!まあ、確かに動かないようにしないといけないけど、でも、お客様、これが絶対気に入るって信じてますよ!今買ってくれたら九つの血晶石で、手に入れられますから、どうでしょうかよ!」


 なんか商売好きで、しゃべりもおおらかな狐の少女。どこでこんな変わったものを手に入れてくるのか、さっぱりわからないけどね。


 まあ、なんつーか、「邪霊」って種族、ほんとに他の亡霊たちとはちょっとずつ違うんだ。見た目も賢さも、人間にちょっとだけ寄ってるって感じだから、どうせならワイルドなことも好きなのかもね。


 とにかく、彼女のすすめで、この黒いマントを買っちゃった。そのとき、えらく高いお金をはたいた気がして、なんか上手くやられた気がするんだ。まるで、九つもの血晶石、九つ!それでも、おまけに割引きしてもらったっていうのに!もし割引きしてもらえなかったら、ひょっとして、自分の唯一の曜晶石まで彼女に渡さなきゃいけなかった、そうでしょう?


 当時、あの店を出た瞬間、正直ちょっと後悔しちゃった。この黒いマント、見た目はイマイチ、薄っぺらすぎて、白紙みたいに弱々しいんだ。マジで、せっかくならしっかりとした鎧でも買っておけばよかったって思ったくらいだ。


 でも、まさかあのときから離れられなくなるなんて予想外だった。霧の紗って、もう本当に僕の相棒になってくれた。


 これからの旅、よろしく頼むよ。ああ、もちろん、寒さには耐えられないことはわかっている。たぶん、もうすぐ凍死しそうな予感もするけど、まあ、そのときは何とかしょうってことで。




 六時十分、深雪号が離陸した。それはのろのろと上昇し、そして北に向かって飛び去った。


 飛行船は半空に達すると、風がどんどん強くなった。上層デッキの窓から空気がどっかりと流れ込み、一気に階段を駆け下り、乗客たちに向かって向きを変えた。彼らの厚着は風をしのげたけど、僕のマントは楽勝で貫通されて、氷のような寒さが肌を突き刺すようだった。


 ちょっと...寒すぎるな。


 今気付いたんだ。王国の冬がまだ終わってないことに。風甲月、一年の中で最初の月で、春が来る前の最後の月でもある。


 体を丸めるようにしてみたけど、歯がガクガク震えてしまって、止めるのは無理だ。我慢じゃなくて、この寒さに慣れるしかないことだ。今の気温で辛いってなら、最北端に行く時なんてもっとヤバいことになるでしょう。


 そうだ、北のちっぽけな町に行くんじゃない。もっと北に行くんだ。北へ、北へ、ずっと北へ。陸地が見えなくなり、世界は荒涼とした大海になるまで。


 そして、時間がまた別の形でやってくるまで――


 王国の果て、極寒の北境、風花湾。ここはまるで別世界で、人間の足跡はまずない。僕の日記にも、この場所についての記録はほんの数行しかない。


 地元の人々はなんだか信じられない話をしている。風花湾では季節によって時間の流れが変わるって。彼らは、冬の最初の雪が時間をどこかに閉じ込め、だからこそこの寒さと長さになるって信じている。夏が暖かさを運んでくるが、同時に時間の足取りも速めて、たった数週間で海はまた凍りつく。その後、長く厳しい冬が続くんだって。


 でも、これ、どうでもいいことなんだ。


 よく考えてみると、風花湾の時間、気候、文化、理論的に説明できないことが多い。自然学、科学、魔法、呪術...なんでもかんでも合点がいかない。答えを出すとしたら、たぶん「神々の造作」しかない。


 そうだ、何もかもの不合理の根源、それは風花湾の西にある内海から来ている。


 「時間海」。


 神聖な賛歌なんていらないし、壮大な叙事詩もいらない。聞こえのいい伝説なんて必要ない。それはただ、そこにある。永遠にそこにある。


 その海の存在は、時間の存在の証拠だ。古代の力が、その海全体に影響を与えている。この世界のすべての生き物が手がかりをつかむのは難しくて、見ることができるのは神様だけ。歴史の中で、永遠に不滅の存在、偉大な時間神の故郷。


 あっ、ここまで思わず衝動が湧いてきた。この不思議な場所をめちゃくちゃ賞賛する詩を書いて、自分の全部の知恵を振り絞りたくなるくらいだ。


 でも、待てよ、これを思い出すと、前にも同じような気持ちになったことがあった。いや、似たようなことだけじゃなく、まったく同じだった。


 それはいつ?その時、どこにいたんだっけ?半年ぐらい前、白鈴郡?


 ――亡霊連邦一周の旅に出かけたとき、僕はもう時間海に行く気満々だった。だから、白鈴郡に着いたら、神様の故郷をちょっと覗いてみるつもりだった。


 白鈴郡は連邦の最北部に位置し、時間海の西にある。人間とは違って、長寿でタフな亡霊族にとって、この寒さなんてたいしたことじゃない。だから、連邦の北部の都市は、王国よりもっと繁華で賑やかだ。


 着いたとき、思っていたとおり、誰かが先に行っていた。海辺に散歩しようと思ったが、なんと海岸線全体に厚い城壁が築かれていることに気付いた。


 目の前には、でっかい鉄の扉がギッシリ閉まっていて、高大な影がぐるぐる巡回中だった。


 それは…


 鼻がバッチリ嗅ぎつけた、超強烈でウワサの気味悪い呪力の匂いに、体がブルブル震えた。距離はけっこうあるはずなのに、その死神みたいな悪いオーラで、もう進む気になれなかった。


 僕、それらにゾクゾクしていた。


 身長がほぼ三メートルもあって、硬い黒い鎧をガッツリ身にまとっていた。こんな寒さの中でも、心臓がめっちゃ熱いってのがヤバかった。その背中に背負った巨大な剣、ヤバいほどの呪力が満ちていた。ただ、高温で真っ赤に灼けた剣鞘を見て、その火と闇の刃がどんな感じか想像できた。まるで一瞬で刃が燃え上がり、前の世界を焼き尽くしちまうかのようだ。


 ノロイはかけられてるはずがない。それはおそらく白鈴郡の王朝近衛で、連邦の肩書き、「煉獄刃鬼」。


 記録によると、その剣で氷山を切り裂き、吹雪を引き裂き、北の凍土を溶かして、美しい白鈴花を野原いっぱいに咲かせたっていた。目はまるで噓をついてるみたいだ。ここに近衛がいて、しかも一人じゃないってのはあり得ない。全然信じられない!


 王朝近衛は、亡霊族の「悪霊」の一種。邪霊と人間みたいな頭脳は持ってないけど、どの連邦の都市でも最強ってわけだ。彼らは邪霊王、つまり各都市の城主に仕えている。平時は簡単に表に出てこない。暗闇にひそんで、どんな戒律でも熟知し、黙々と都市の運営を守っているんだ。


 でも、ちょっとした人間とか、地元の亡霊たちは、近衛の存在に疑念を抱いている。近衛なんて伝説の中のウソの存在で、実際は城主らのコントロールツールに過ぎないって信じてるんだ。


 もちろん、これはまさに間違いないアイデアだ。だって、近衛が現れるってことは、なんかめっちゃヤバい問題が生ったことをしばしば意味している。それから、でかい災厄が後からついてくるんだ。罪人どもがついに近衛たちの姿を見て、ええっ、世界にマジでこんな存在がいるのかって感嘆するんだけど、そのあとにはもう他の人に伝えるチャンスなんてほぼないってことがよくある。


 そう、この白鈴郡の現象、本当に理不尽だ。僕、城主がそんなことをするわけないと思っていた。だったら、裏の黒幕は誰だ、それはもうバッチリわかった。


 そう、亡霊連邦全体のリーダー、亡霊姫。絶対的な亡霊の王。彼女、時間海の秘密を知っていたはずだから、白鈴郡の近衛たちを命令し、海岸線をフル封鎖させたんだ。


 これはこれは。ふん、僕に対しては、なんてラクな話でしょう。


 実は僕、いつも通りに、姫様の使者かのように、城主に用件を説明して許可をもらえば、もう大海に行くのは問題なし。


 あ、本当だ。噓じゃないよ。僕にとっては、これくらい余裕だ。


 実を言うと、僕、あんまり演技力も特殊なスキルもない。普通の人間なのに、亡霊連邦を旅していると、なんでかいつも邪霊扱いされてしまった。それにしても特別扱いもされるってのは、よくわからないよ。


 たまに、鏡をのぞいても、自分が亡霊にどこが似ているのかさっぱりだよ。髪の色が暗いのか、目が暗いのか、服装が野暮ったいのか、それとも単につまらない顔つきなのか?それとも、性格が暗すぎて、生身の人間じゃなく、あの亡霊たちと同じように見られている?


 でも、これって簡単に分かることなんだよ。人間の体内の魔力と、亡霊の体内の呪力、その気配は全然違うんだってば。ほとんどの人間はそんな匂いに気づかないけど、亡霊ならバッチリ感じることができるんだ。亡霊生物、普通の亡霊、邪霊、悪霊…種類に関係なく、魔力と呪力の匂いを感知するのは、亡霊族が持って生まれたスキルなんだ。


 まあ、後で説明する気もないし、どうでもいいよ。邪霊は邪霊だし、いいじゃん。どうせどんな弁明しようが、僕がただの旅好きの貧乏人間だって信じる気はないんだから。


 よし、そうしよう。姫様が送り込んだ使者って名乗っちまえば、近衛だって僕の前に立ちはだかることはないでしょう。


 だけど、現地の人々に聞いてみたら、完全にボケたこと聞かされた。正確に言うと、僕の思ってたこととまるで逆だったんだ。城主は姫には全然興味ないって、彼女の考えなんか一切気にしてなかったって。確かに姫はここに来たことはあったけど、その前から城主は海岸線を封鎖していた。


 その理由は、城主自身が平和と安寧を大事にし過ぎて、人間と亡霊の戦争をひどく嫌ってたから。だから、姫に対してかなり不満ぶつけてたって。同時に、彼は時間神をめっちゃ畏敬の念で見ているんだ。神様のおかげで、白鈴郡がずっと繁栄し続けてると信じてるって。誰もが海に近づくことを禁止され、もちろん自分も。だから、白鈴郡の法律では海に近づくのは神を冒涜するってことになっていて、凍った海面に足を踏み入れるだけで死刑になっちゃうこともあった。


 不思議だな。そうでしょう?


 姫は、亡霊連邦の頂点な存在だ。つまり、人類王国の国王みたいなもんだ!おそらく、彼女も予想外だった、白鈴郡の城主がこんなに頑固なおっさんだって。遠くから来て、時間海に入りたいって願いを出したのに、あっさり断られてしまった。


 当時の話によれば、その場にいた誰もが驚きのあまりドキドキしてしまった。近衛たちだって、汗握りしめていた。ヤバい状況だった、まるで悪党たちがドバっと戦闘始める直前みたいな雰囲気だった。


 姫の実力は城主や近衛たちに比べたらちょっと物足りないかもしれないけど、彼女は王の血を引いているんだ。それに、唯一姫が持っている秘密の力がある。それが、どんな亡霊も完全に操れる呪術だ。彼女は極上の意志、絶対的な怒り、それに「亡霊」って言葉そのものの意味をフルに発揮する瞬間、彼女の臣下、国民、亡霊全体の魂、思考、命...全てのこと、姫の物になるってわけだ。


 だから、どんな強大な亡霊でも、姫の前ではただのビビり虫にすぎなかったって。彼女が一瞬で、その場にいる亡霊たちを黙らせてひざまずかせることも、イチコロだった。


 でも意外なことに、城主の無礼な態度に対して、姫はむしろ不機嫌になるどころか、ちょっとため息ついただけだった。そして、ちょっと城主と会話してから、さりげなく立ち去っちゃった。


 ――地元の元気な子供が、ウキウキしながらその話をぶっちゃけてくれた。


 この話はその後、地元の佳話として語り継がれてきたんだ。城主の勇気と忍耐、姫の寛大さと思いやり、それらは白鈴郡の市民たちによって、深く刻まれていくことになったんだ。


 うん、素敵なハッピーエンドでしょう?って感じだよね?


 でもって、ほんっと、どう考えてもありえない!僕、無実のくせに、この美しい結末の中で唯一の被害者に仕立てられてしまったんだよ。その時僕、すぐにわかった。白鈴郡じゃ、時間海に入れないってことなんだって!


 それで、その高い壁をこっそり越えたり、扉を開けるチャンスを狙うのかって? この弱い体、この黒い刀、それにこの一歩踏み出せばすぐバレるマントでどうすんの? 近衛さんの大剣の熱さだけでも、僕、瞬く間にとけてしまいそうな気がするよ。


 だから、仕方なく、とりあえず時間海への計画をお預けにした。そこで数日を過ごし、白鈴郡に関する面白い話を日記に書いて、何もかもを諦めざるを得なかった。


 でも、僕の冒険はここで終わりじゃないってことだ。世界を旅する者として、どの土地も踏みしめねばならない。どうあっても、大海へ向かう。大海の中心まで、行ってみる。


 もし西からはダメなら、東から試すって。亡霊が大海を封鎖してたが、人間ならそんなことはしないはずだ。しょうがない、もう一度賭けてみよう、半世界駆け抜ける覚悟だ。西から東へ、亡霊の連邦から人間の王国まで。そう、もう一本、もう一本の鍵を見つけに行くんだ。


 じゃ、あそこに行こう。


 ――風花湾。


 そう、見ての通り、今の物語が始まった。


 三四八九年、風甲月第二風甲日、六時三十二分五十六秒。今の僕、深雪号に乗って、風花湾に向けて進んでいく。

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この世界の光と影 混乱天使 @chaosangel

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