この世界の光と影
混乱天使
第一章 風花湾、冬の精霊
其の一 薄桜
3489年、風甲月。第二風甲日、明け方。
目が覚めた瞬間、激しい雨が降り注いでいる。僕のマントは、もう雨でずぶ濡れだった。急いでポケットから懐中時計を取り出した。その金の外殻はなんとも冷たくて、なんか生臭い匂いがしている。街灯の柔らかな光に頼って、針が四時を指しているのが見える。
四時だ。予想よりもちょっと早いね。
昨夜、小雨が降ってきたとき、僕は橋の下に移った。その時、最適な場所を見つけたことに喜んでいた。ここなら風も入ってこなかったし、雨も降り込んでこなかった。それに、新年を祝う人々の騒ぎも気にならなかった。でも、グッスリ寝てる隙に、風は復讐の好機を見つけたってわけだ。数時間も経たないうちに、僕はこんなびしょ濡れの有様になっちゃった。
ああ、もっと前から旅館に泊まるか、あるいはあの廃屋で寝るべきだったかも。その時は駅から遠いと思って、早めにここに来っていた。野宿なんてもう慣れっこだけど、出発当日にこんなふうにずぶ濡れにされて風邪ひいたら、最悪だ。
でも、文句を言うよりも、この猛烈な風に感謝すべきかも。こんな早く起こされたおかげで、飛行船の駅に行くのに十分な時間がある。途中でゆっくり歩いたり、薄桜城の夜景でも楽しめるかな。
そういえば、先月から薄桜城に来て、ずっと家に引きこもって、ほとんど外に出て街を散策することがなかった。
薄桜城。人間王国で、有名な魔法の都。もし以前だったら、厚い日記帳を取り出して、少なくとも20ページものスペースを使って、ここでの出来事をしっかりと書き記した。
春になると、この街では桜の木が咲き誇ると聞いた。美しい花たちが、新しい年の幸運を予感させるって話だ。そして、あの壮大な先覚塔は、まるで巨人みたいに街全体を見下ろしている。塔のそばにある学院では新学期が始まり、無数の少年少女たちが、魔法使いになるという偉大な夢を胸に、美しいキャンパスへ向かって歩くっているんだ。
ここまで考えると、ため息が出た。西に長い旅をし、やっと国に帰ってきたってのに、途中で絶えず移動し、中央の境界線を越え、まっすぐ東へ、それから北へ、ここにたどり着いた。そして今、最終目的地に向かう準備をしないといけない。
この間、残念だけど、各地でゆっくり滞在する時間もなかった。どうしても色々な面白い出来事や人々を記録したかったな、まるで以前のように、亡霊連邦でずっとやっていたように。
まったくだよ。世界を巡る旅人として、こんな無責任な行動はありえないよね。
ああ。ただ願わくば、すべてが落ち着いたら、王国中をゆっくり巡って、僕の大切な世界紀行の後半部分を書き終えることができたらいいんだけど。
うーん、世界を巡る旅か。
指で大きな円を空中に描いてみて、時計回りに。友達と別れて故郷を出発して、亡霊連邦に向かったのは、もうどれくらい前だっけ?
そうだな、何年経ったんでしょうか。
こんなに夢中で考えている間に、もう飛行船の駅が目の前に現れていた。
正確に言えば、これが「第一皇后駅」だ。薄桜城は北の大都市で、王国の重要な交通の中心地だ。ここから出発する飛行船なら、ほぼどの地点へでも行けるってわけだ。もちろん、一つの飛行船の航程には制限があるから、途中で乗り換えが必要になることもある。でも今はそれが心配ご無用。目指すのは王国の最北部で、ここからそんなに遠くはないんだから。
おそらく今は午前4時半くらいでしょうか。駅での仕事はまだ1時間半後だ。この辺りは寒々しく、誰の姿も見当たらない。空っぽの中央広場には、僕と僕の影だけがいる。ああ、それとこの大きな桜の木も。
ふぅ、こんな早朝にここへ来る人なんて、僕以外にはいないね。そう、みんなは今頃自分の暖かい家でぐっすり寝てるでしょう。騒々しい風に起こされることもないし。
だが、これはまさに僕の好みどおりだ。だれもいないこのチャンス、こっそりと飛行船に忍び寄って、船内で落ち着ける場所を見つけて、ちゃんと寝よう。そうすれば、チケット代も浮くし、ちょっとした休息も取れる。なんて完璧な作戦なんだ!
いいよ、これでいこう。
中央広場を通り抜け、プラットフォームに到着した。真っ暗なシルエットが何台も並んで、視界の果てまで続いている。これが休憩中の飛行船たちだ。今、みんなが街の中の人たちと同じように、一日のハードワークに備えて静かに眠っている。
二十、三十、五十... それ以外にもっといくつかあるはずだ。うわ、すごい。
ただ見ているだけで、頭の中で昼間のにぎやかな光景が浮かび上がってくる。高い汽笛の音、プロペラの轟音、乗務員の声、旅行者たちの笑い声...
そいえば、南の王都、天時郡の「第一国王駅」は、どんな様子なの、今気になるよ。
でも、田舎と自然に慣れた旅人の僕にとって、元々薄桜城は大きすぎて、ちょっと怖すぎるくらいだった。王都に行く前に、心の中の抵抗感を乗り越えることができるといいな。こんな大きな都市に対して、緊張して気絶しちゃいたくないんだ。
そう、半世界を巡ってきた僕でも、すべてに余裕を持って対処できるわけじゃない。実のところ、亡霊連邦にはこんな壮大なプラットフォームはないんだ。見たことないだけじゃなく、実際に存在しない。あっちの方はシンプルで、技術水準もこっちほど発展していないし、飛行船などと比べて、亡霊族の多くの生物は自分から飛べる。純粋で強力な彼らにとっては、こんなごちゃごちゃしたものは必要ないのかもね。
目の前の景色は確かに壮観で、遠くから楽しむのに値するけど、僕は不安を感じた。夜がこんなに暗いと、飛行船の名前プレートすら見るのが難しい。この大量の巨大なものたちの中から、僕が乗る予定の船を見つけるのは簡単じゃない。最初は時間に余裕があると思っていたけど、今急に緊張してきた。
なんとかなったよ。なにしろ、初めての客として、該当するフライトが見つからないってのは、かなり困ることだったんだ。特に、昼間のピークタイムにね。
でも幸いにも、プラットフォームのスタッフたちはこのトラブルの可能性を予測してたみたいだ。だから、すぐ横の壁に、でかでかとした地図が現れた。それに、頼りになる街灯もそばに置いてあって、その明かりが地図を照らしてくれてた。地図には、飛行船たちの位置がぐっきりと示されていて、さらにはざっくりとした航路も親切に書いてあった。
薄桜城――薄桜城、北線、QFS-052 「深雪号」。その場は...ええと、プラットフォームの左端にある。
簡単に見つかるけど、同時に一番遠い場所だ。
人間の王国全体で見れば、薄桜城の位置はすでにかなり北にある。ここでは四季がくっきりと変わり、一年中の気温差が激しい。もしもここからさらに北に進むと、人口のまばらな小さな町しかない。この航路は普段から静かだろうから、深雪号は最も奥に駐車されているみたいだ。
地図に示された通り、プラットフォームのゲートをくぐり、真ん中の大通りに沿って、眠っている飛行船たちをそっとかわすんだ。通り道の先で左に曲がり、そして深雪号の前にたどり着いた。
これはなんとも小ぢんまりとした飛行船だ。兄弟姉妹たちと比べたら、まるでちびっ子みたいに小さいんだ。他の飛行船に完全に隠れて、最後の最後まで気付かなかったくらいだ。外装はピカピカの真っ白、一切のすり傷もない。これ、まさしく飛行の新米ってことじゃないか。船体の側面には、「QFS-052」と黒鉄のプレートに刻まれている。
飛行船のそばのロープにしがみついて、なんとかデッキに上り詰めた。今、真っ暗な夜だ。僕の突然の訪れが、ここでの静寂を完全にぶち壊す形になった。深雪号、きっとこんな無礼者を歓迎してないでしょう。予想通り、目の前の扉も堅く閉まっているんだ。
でも、船室の横を迂回するだけで、鍵のかかっていない小さな丸い窓から中に入るだけだ。普通の大人なら絶対に中に入ることはできないけど、僕には問題なさそうだ。十五歳の僕、まだ完全に大人になる前に、この小さくてしなやかな体をフル活用するのはどうでしょうかな。
窓をガシッと開けて、窓台の錆と埃を綺麗に払い落とす。マントを汚すわけにはいかない。両手でしっかり支え、頭をぶつけないように気をつけて、準備完了、それではさっと飛び込む。
よっこいしょ!
狭い窓枠が体をちょっときつく挟む感じがして、着地の瞬間、危うく足を捻挫しそうになったけど、何とか無事に着地し、薄暗い船内に忍び込んだ。
周りは真っ暗、何も見えない。まるで果てしない虚無の世界みたい。飛行船は電源入れてないし、廊下の明かりも点かない。
壁に寄りかかりつつ、ゆっくり前に進むしかない。短い廊下を抜けて、前には真っ暗な場所が広がってる。手を伸ばして、冷たい金属の手すりを手探りで掴んだ。階段を下りると、狭い船内で重たい足音が響いて、まるでこだまのように響くんだ。二十四歩進んで、ついに飛行船の底にある船室にたどり着いた。
見えないけど、前にはたくさんの座席が並んでいるってこと、すぐに分かる。それら、超快適とは言えないかもしれないけど、疲れ果てた僕にとっては最高だ。壁に寄りかかったり、隣の座席にゴロンと倒れ込んだり、もう少しリラックスして寝かせてくれないかって、そう思うんだ。飛行船が飛び立つまで。
いや、待てよ。この重要な頃で、前の誘惑に負ける訳にはいかない。だって僕、ちょっとした「無許可」乗客だし、無駄にトラブルを引き起こすのはだめだ。他で休むことにしよう。
だから、船室の片隅に静かに歩み寄り、のんびりと座った。壁に寄りかかり、マントのフードをゆっくりと被った。
そして、何も言わず、身をひとつも動かさない。最も大切なのは、何も考えないこと。
静寂と暗闇が再びこの世界を包み込むように、肉体と意識を虚無に浸し、すべての思考と考えを一瞬で消し去る。風、雨、空気、時間。周りのすべてを凍りつかせよう。
だんだんと、重たい疲労感が身体中に広がり、あらゆる神経を圧倒していく。この瞬間、冷たくて硬い壁ですら、ぼんやりした意識に支配され、心地よい寝床のような、広々と柔らかいものに変わっちゃった。
もう休むべき時だ、たとえ一時間でも。故郷の山々へ戻り、輝く黄金の原野を眺めよう。僕のすべてが、あの永遠の夢の中へ還る時だ。
安心して、何も気にすることはない。赤ん坊のように、ただ眠りにつけ。明け方が訪れ、冒険の幕開けを告げる深雪号の汽笛が、きっと僕を目覚めさせる。
意識が薄れる前、最後のメッセージだ。記憶の海に、この小さな手がかりを残しておいた。
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