第2話

冷たいコンクリートの床に崩れるように座り込んだまま、智子は震えが止まらなかった。

 薄暗いトイレの中で、自分の荒い息遣いだけが耳に届く。制服は引き裂かれ、下着は膝まで下ろされたまま。


「どうして…注意なんか…」


 かすれた声が漏れる。煙草を吸う少年を見つけなければ、婦警でなければ、こんなことには...。


 吐き気が込み上げる。制服の襟…元に残る少年の体臭、スカートや股間、床に付着した少年の精液が再び恐怖を呼び起こす。

 智子は制服のスカートに付着した精液を、手で必死に拭う。


「違う…違う…レイプなんかされてない…これは夢よ…夢。私は夢を見てるの…」


 スカートの汚れを無意識に拭う手が止まる。それは何かの汚れ、ただの汚れ、そう思い込もうとした。しかし、手のひらに付着した白濁液。その生暖かな感触が、否定しようとしていた現実を突きつける。


「嫌ああああッ!」


 叫ぶような悲鳴がトイレに響き、手についた感触に智子の意識が現実へと引き戻される。制服は引き裂かれ、下着は膝まで下ろされたまま。すべてが、あの少年の存在を主張している。


 必死で手を制服で拭うが、その行為自体が数分前の出来事を徐々に呼び覚ましていく。投光器の光、少年の荒い息遣い、そして自分の悲鳴─。


「嫌だ…嫌だ...。こんなの...」


 震える声が漏れる。警察官としての自分、毅然とした自分、そんな自分の殻が、手のひらに残る確かな証によって、音を立てて崩れ落ちていく。


 床に倒された時、ショルダーバッグから飛び出した警察手帳。警察章の無機質な光が、それを見つめる智子の瞳に、新たな涙を誘う。

 なぜ警察官になったのか。なぜ女性でありながら、この道を選んだのか。すべての選択が、この瞬間、呪いのように感じられた。


「ごめんなさい...ごめんなさい...」

 

 子供の頃、事故で亡くした両親に向かって智子は謝罪の言葉を繰り返す。

 警察官としての無力さ、一人の女性としての屈辱、そして何より─この先も消えることのない恐怖と汚辱の記憶。それらが混ざり合い、智子の心を引き裂いていく。


 トイレの外から、風に揺れる木々の音が聞こえてくる。いつもと変わらない日常の音が、今は残酷なほどに遠く感じられた。


「もう…嫌だ…。お母さんの処へ行きたい…」


 記憶の中にある母親の朧気な姿を仰ぎ見た時、突然、トイレの入り口から声がした。


「伊藤、いるか!」


 懐中電灯の光が、しゃがみ込んだ智子を捉える。


「嫌あああッ!」


 光を浴びた瞬間、智子の意識の中で完也の影が蘇る。携帯式投光器の明かりの中で、自分を見下ろしていた少年の目。


「嫌だアッ。近寄らないでえッ!」


 制服姿の男性警官を見ても、そこにいるのは「男」という存在でしかない。震える手で引き裂かれた制服の前をかき合わせながら、膝まで下ろされた下着を晒したままトイレの隅へと這うように後退する。


「嫌アアッ。やめてええッ」


 行方のわからなくなっていた婦人警官を発見したと本署に連絡する声も、智子には、行為の最中に浴びせられた恥辱的で卑猥な完也の言葉にしか聞こえなかった。目の前にいる男性警官は、レイプ被害者である婦人警官にとって、レイプ犯にしか見えない。  


「伊藤、しっかりしろ。俺だ、小林だ」 


 智子が密かに恋心を抱いている男性警官の小林浩一巡査の声すら、完也の声にしか聞こえていない。


「嫌あアッ。嫌あアッ。もう、やめてええッ」


 目に映った警察手帳やペットボトル、ビニール袋さえも智子は小林に投げつける。


 小林は脚を止め、発見した興奮を抑えて婦人警官をあらためて見て、その憐れな姿に気づいた。立ち尽くしたまま、智子の姿に言葉を失った。いつも微笑みを絶やさず、明るく市民と接していた彼女が、今は震えながら、まるで虐められた子供のように怯えている。


「伊藤...」


 震える声で呼びかけた瞬間、智子の悲鳴が響いた。


「お願い、もう...やめて...」


 その声に、小林の胸が締め付けられる。急な応援要請があったにせよ、婦人警官を一人で交番に戻らせたことを悔やんだ。


「俺だ…俺の責任だ…」


 小林は痛恨の思いに、苛まれた。


 その時、無線から声が響く。


「現場の状況は?」


 その声に、小林は我に返る。


「引き裂かれた制服、膝まで下ろされた下着、精神的なパニックから性暴行被害の可能性が...」


 言葉を詰まらせる。事務的な報告をすることさえ、智子への冒涜のように感じられた。


「婦人警官を直ちに急行させる。現場保存を保存せよ」


「直ちに。救急の手配を...」


「了解…」


 小林は無線を握りしめ、傷ついた婦警を見る。トイレの隅で、智子が小さく身を揺らし始めた。両頬に痣があり、捲れたスカートから伸びた脚に擦り傷があり、出血が確認され、腕や手のひらにも擦り傷、切り傷があり出血しているのが確認出来た。


 小林は出来る範囲内で応急処置をしたがったが、今の智子の精神状態では無理だと判断し、誰も入って来ないように入り口へと向かった。


 公衆トイレの前に立つ小林の耳に、中から智子の嗚咽が聞こえて来る。抱きしめてやりたいが、それは不可能だ。なにもして上げられない自分に、小林は腹ただしさを感じた。

 遠くからサイレンの音が聞こえ始める。木々の隙間からミニパトの赤色灯が木々を照らし、境内に不気味な影を作り出す。


「智子ッ!」


 ミニパトが止まる前から、助手席のドアが開き、智子の同期の水原有希巡査が飛び出してきた。制服姿の彼女の顔は血の気が失せ、目には涙が溢れていた。


「どこ!。智子はどこ!」


 有希の悲痛な声が境内に響く。小林は「女子トイレの奥」と、呟くように言った。中から聞こえて来る智子の嗚咽。その声に反応するように、有希はトイレの中に駆け込んだ。

 その時、運転席から降りてきた佐伯由佳巡査部長の足音が、境内の砂利石を軋ませた。


「状況は?」


 冷静な声。しかし、その表情には見慣れない暗い影が浮かんでいた。小林が状況を説明する。


「引き裂かれた制服、下着は膝まで下ろされた状態で...おそらく性的暴行を受けたのだと思われます」


 その言葉に、佐伯の顔が一瞬強張った。十年前の記憶が、鮮明に蘇る。智子と同じ二十歳の時。防犯連絡の訪問先で、痴呆気味の老婦人が見ている前で浮浪者の男に襲われ強姦されていた。誰にも言えず一人で抱え込んだ屈辱と恐怖。それが今、後輩の身に起きたと思うと、胸が潰れそうになる。


 トイレの中から、また智子の声が響いた。


「お願い...有希...。私を殺して…。私なんか、もう生きてても仕方ない警察官...」


 自暴自棄になった声に、由佳は目を固く閉じた。あの時の自分も、全く同じ言葉を呟いていた。中に入ると、由佳は有希に声をかけた。


「水原さん。救急隊が到着したら、まず三つのことを伝えて。処置室のカーテンは必ず閉めること。処置中は女性スタッフだけにすること。そして...」


 佐伯は一瞬言葉を詰まらせる。


「制服を脱がせる時は、必ず被害者の許可を得ること。彼女の心の準備ができていないと、さらなるトラウマになる」


 有希は有希の言葉の意味を完全には理解できていなかった。


「嫌...病院なんて...。私、辱めを受けたくない...」


 佐伯婦警は伊藤婦警の様子を見て、深くため息をつくと前言を翻した


「水原さん。私が付き添います」


 その声には、普段は決して見せない重みがあった。自分と同じ傷を負った後輩に、どんな言葉をかければいいのか。しかし、この瞬間の智子の痛みを理解できるのは、自分しかいない─。


 救急車の赤いランプが境内を不気味に照らし始める中、佐伯の足音だけが静かに闇を切り裂いていった。

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性的暴行 魂の殺人 愚人 @orokanahito

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