『小説』
たなべ
『小説』
机上にはコーヒーの空缶とノオトブックがあって、それを眺めながら私はさながら貧乏であった。さっきから電話が鳴り止まぬ。恐らく、私の原稿を取り立てる編集者であろう。空っぽの家中にコール音がトンネルみたいに響いて、逃げ場のないようである。彼には勘弁である、敵わぬ。取り立てて急かす癖して、何を書こうが一言文句のような言葉を吐いてくる。嫌味と言ったらよいか、薄汚い文言である。それが的を射ない
帰ると、家は窮屈に見えた。電車で家族連れを見たせいかも知れない。家に帰って、間も無く、見透かしたように電話が鳴った。私はまた部屋の隅で蹲ってやり過ごした。こんな惨めはいい加減卒業したいもんだが、長らくは出来そうもない。外套を掛けると私は、考え込んで、それで、また外套を手にして、今度は銭湯へ出掛けようと決めた。銭湯は二街区ほど先にあって歩いて行くのが普通だが、何を思ったか私は大いに遠回りをして、最寄りの電車駅から、銭湯の近くの駅までまた電車に乗ることにした。先程のリベンジを決め込んでいたが、呆気なく私は打ち砕かれた。電車はまた家族連れだらけだった。余計に惨めになった。持っていた着替えを投げ捨ててしまいたくなった。しかし私はただ立ち竦んだまま、目の前に座る、ご婦人の顔を一瞥したきり、呆然とした。電車はたっぷり三十分かけて銭湯最寄りに到着した。どっと疲れた。最寄りといっても、この辺は鉄道網が粗いので、二十分少々歩かなければならない。何の為に私は、という言葉を頭の中で巡らした。銭湯なんて馬鹿らしく思えた。その辺の田圃にでも浸かってやろうかと思ったが、季節も季節で田圃に水はなく、枯れた地面が剥き出しであった。しょうがないから私は、銭湯までしょぼしょぼ歩いた。住宅街が虫食い状になっていて、畑やら砂利があるだけの駐車場やら寂しいものばかりであった。夕方見たような街灯もここには無かった。詩美ということもなく、漠然としている。そんな光景が私の眼を過った。そしてついぞ銭湯に着いた。それは
銭湯の帰りは空気の清冽なのと、星空の乾き切ったのが、上手く作用して良い心持であった。周りがよく見える。さっきとは違う道を選んで家路に就いた。まず電車は使わないと決めた。選んだ道は偶然、坂道であった。勾配が3%くらいの緩い坂だった。しかし、私の肺を苦しめるには十分だった。明日か明後日医者に行こうと思った。坂道を登った先は、入り組んだ住宅街で、今度は階段だった。手摺も
この文章を編者の彼に渡すと、珍しく何の文句も言って来なかった。彼も彼で自分のことを美しいと思っているのだろう。
<了>
『小説』 たなべ @tauma_2004
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