第18話

「ああ、なんだ夢か……」

 列車の揺れで目を覚ますジェミヤン。ただ懐かしく、こうであったならば、という心情を思い起こさせる、悪くない夢だった。

 時計を確認すると、目的地までまだ三時間以上ある。何もすることがなく、暇つぶしに持ってきていた本を読むことにした。


「おじさん、それなんの本?」

 同じコンパートメントに乗っている子供から話しかけられる。読んでいたのはスタンダールの「赤と黒」の原文。フランスの小説だよとだけ返し、また本に目を落とす。

 子供が嫌いなわけではない。ただあまり親しくすると、ジェミヤンや局、ロシアを悪く思う輩から、その子が狙われる危険性がある。意識的に遠ざけなければ、という、彼なりの防御策なのだ。


「あれ……? なあ、お前ジェミヤンだろ、ジェミヤン・アベルチェフ!」

 子供の父親が懐かしそうに声をかけてきた。相手の顔をよく見ると、確かに見覚えがある。同じ学校に通っていた同級生のマクシムだった。


 読んでいた本をしまい、マクシムと懐かしい話に花を咲かす。二十年以上経ったからという事もあるが、マクシムの体形は大分丸くなっていた。きけば同級生の殆どはそうらしい。久しぶりに会ったという事で、急遽集まれる者で同窓会が開かれることになった。

「お前、成績も運動もダントツな上に、西側の紳士みたいな態度でモテてたもんなぁ。女連中なんか全員来るんじゃねぇの?」

「何を言う。確かに私は独身だが、皆結婚しているんだろう? 地味な私になんか興味ないと思うよ」


 語らっていたらあっという間に故郷の最寄り駅に到着してしまった。マクシムの連絡先を訊いて、一旦別れる。バスで帰ろうと時刻を確認しに行こうとすると、ジェミヤンを呼ぶ声がする。

「ジェミヤン、お帰り。迎えに来たよ」

「母上! ……相変わらずですな、まさか馬【コーニ】で来てくださるとは」

 ジェミヤンは母と馬の扶助を交代し、のんびり実家への帰路につく。馬を厩舎につなぎ、実家に入ると、父が食事の準備をしてくれていた。どれも実家を出る前、ジェミヤンが好きだった家庭料理だ。


 久し振りの実家で父と酒を酌み交わしていると、ジェミヤンの携帯に連絡が入る。列車で再会したマクシムからで、夜に店の予約ができたから来てくれという内容だった。

「なんだジェミヤン、旧友からの誘いか? いい加減お前も嫁さんを連れてきて欲しいものだがな。いい相手はいないのか?」

 父から呈される苦言を苦笑しながら聞き流し、店に向かった。


「うぉーっ! 久し振りだなぁジェミヤン!」

 懐かしい顔ぶれから歓迎され、少し戸惑うジェミヤン。彼自身の仕事のせいもあるが、モスクワに出てからは目立たない様暮らしてきた。だからこそただ故郷に帰ってきただけで、こうも歓待されるとは思ってもいなかったのだ。


 懐かしい様なくすぐったい様な、話に花を咲かせていると、女性陣から熱い視線を送られていた事に気づく。男性とばかり話をするのもよくないと思い、ジェミヤンから声をかけると皆色めき立ち、何故か皆から体をベタベタと触られる。


「ちょ、ちょっと待ってくれないか。君達にはご主人がいるだろう? 他人の私をベタベタ触るのは好ましくないと思うんだが」

「だってー! うちの旦那、ブクブク太って全然かっこよくないんだもん! でもジェミヤンは若い頃のままで、ダンサーみたいにスタイル良くてカッコいい! 顔も精悍でさ、見てようちの旦那なんか、こーんなだらしない顔しちゃって」

 女性陣が口々にそう言うと、酒に酔った男性陣が、ジェミヤンを羽交い絞めにし女性陣が服を脱がす。

「こ、こら君達! やめないか!」

 相手は一般人。軍での部下でも保安局での同僚でもなく、ましてや敵兵でも犯罪者でもない。安易に手が出せずどうしようか迷っているその間に、上半身が露にされてしまった。


 さっきまでやんややんやと囃し立て騒いでいたが、ジェミヤンの体を見た途端、全員の顔が青ざめ押し黙ってしまう。今迄訓練や戦場で負ってきた、数えきれない程の銃創や刀傷。ここに集まっている男性達も勿論ロシアの男、兵役に行き何人かは実際の戦争に参加している。

 しかし職業軍人として長く戦争の前線に立ち、現在は保安局のアルファ部隊にいるジェミヤンに刻まれた無数の傷跡は、そんな彼らをも黙らせるだけの「無言の圧力」を持っていた。


「ジェミヤン……あなた、それ……」

 慌てて服を着、立ち去ろうとするジェミヤン。だがマクシムが引き止め、「座ってくれ」と促してきた。

「お前が大変な思いをしてきたってのに、ふざけて悪かった……すまん。ほら皆も謝れ、せっかくモスクワから帰ってきてくれたのに」

 全員が謝罪の言葉を口にし、その場は治まった。ジェミヤンも気を取り直し、再度話に花を咲かせていると、一人だけずっと黙ってジェミヤンの話を聞いている女性がいた事に気づく。


「マクシム、彼女は……」

「ああ、セラフィナだよ。去年旦那を亡くしてな、今は未亡人だ」

 同じクラスにいた名前。セラフィナはあの頃から大分外見が変わってしまっていた。学生時代はジェミヤンに次ぐ成績の女子で、自信に満ち溢れ明るい子だった筈。しかし今見ると、自信なさげに俯き、笑顔も見せてくれない。少し気になったジェミヤンは、セラフィナに話しかけた。


「どうしたんだ、学生時代の君はもっと元気な子だった印象だが」

 セラフィナは紳士的に振舞うジェミヤンの目を一度見て、助けを乞う様な表情を見せた。一瞬の事だったが、ジェミヤンはそれを見逃さなかった。何故なら、それはアリビツカヤの依頼で潜入していたテロ組織が訪れた、私娼窟に囚われていたエヴィティミヤと同じ表情だったからだ。





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