第17話
休暇の前日、いつも通り訓練開始より早い時間に到着し、自主的に鍛錬をつむジェミヤン。景山が想像を超える手練れだったとは言え、後背を喫したのは事実。単純に実力が足りない、則ち鍛錬が足りない、という事なのだ。
両手にシャーシュカを持ち、コサック民謡「オイシャよオイシャ」で歌われるコサックの様に、神に祈りを捧げるところから始める。
普段は一つの鍛錬に集中するが、何故かこの日はコサック馬術【ジギトフカ】やコサック舞踏の技を組み込みながら、シャーシュカやキンジャールを激しく振るう。
一時間にも満たない短時間ではあるが、流れ出る汗がシャーシュカやキンジャールの切っ先から放たれる程に集中して鍛錬を積んでいた。
珍しく息を切らせながら片付けをしていたら、後ろから来たワーニャに「おはよう」と声をかけられる。
「ワーニャ、おはよう。早いじゃないか」
いつもは時間ぴったりに来るワーニャだが、今日はいつもより早い。
「ジェミヤン、お前をどこかで見た事あるなとずっと思っていたが……一九八一年のスタロチェルカスクであったシェルミツィで優勝した、コサックの少年だったんだな」
ワーニャの言葉に動きを止めるジェミヤン。あの時の観客にいたのか……と今日の鍛錬をもっと早く切り上げるべきだったと反省する。
しかしワーニャは笑顔でタオルを差し出してこう言った。
「なんで言ってくれなかったんだ? ジェミヤンが本当に凄い奴だって、皆わかってる。だが中にはそれが悔しくて、お前に嫉妬しかしてない隊員もいるって、知ってるだろ。お前の本当の実力を知ればそいつらだって、叶うわけない、嫉妬するより尊敬すべきだ、って思い直すさ」
殺伐とした職業ながら、気遣ってくれる同僚がいる。考えてみれば、隊長もワーニャもアリビツカヤも、ずっとジェミヤンを色々な面で支えてくれていた。ジェミヤン自身が勝手に自分が孤独だと勘違いしていたにすぎない。思わず目頭が熱くなる。
「すまんワーニャ。いつもありがとう……」
ワーニャは黙って背中を支えてくれた。
翌日、駅で故郷に向かう電車を待っていると、隊長とアリビツカヤが見送りに来てくれた。
「ここ十年近く故郷に帰っていなかったのだろう? ご両親への手土産に持って行くといい」
そう言いながら手荷物を渡してくれた隊長に笑顔で寄り添うアリビツカヤは、いつも履いている魅惑的なハイヒールではなく、動きやすい平たい靴を履いていた。
「お心遣い痛み入ります、それと……おめでとうございます。予定はいつ頃でしょうか」
「えっ⁉ な、何故わかった!?」
慌てる隊長に、おかしくて吹き出してしまった。
「もう、だから言ったでしょ。アベルチェフ君は絶対言わなくてもわかる、って」
「……あまり感情を表さないお前が笑うなんて珍しいな。部下として勿論お前を信頼しているが、心情的に色々無理をしていないか気にしていてな」
間違いなく、この世界にいれば皆心を壊していく。人として禁忌となる行為もせねばならぬ時もある。実際、ジェミヤンは映画館占拠事件の首謀者である、スヴャトスラフ・ポポフの伯父を拷問にかけて殺している。伯父自身は何の罪も犯していない。ただスヴャトスラフに揺さぶりをかけ、事件を早期に終結させる為だけに殺したのだ。
「……私自身で選んだ道です。責任も罰も全て負わねばなりません。それで私が許されるわけではありませんが……」
話している途中で、出発の時刻が迫る。隊長夫婦に礼を告げると、ジェミヤンは故郷に向けて出発した。
列車の座席につき、朝自分で作った軽食を食べながら、故郷に思いを馳せる。タチアナの結婚式の時に帰ったきりだが、両親とは手紙や電話で連絡を取り合っている。
老いたとはいえ、若い頃の両親はコサック自治組織【ボーリニツァ】で一番の使い手夫婦だった。首領【アタマン】である父は勿論の事、母も銃とシャーシュカの腕前は抜きんでており、悪意ある者が害をなそうと近づいてきても、両親の腕前なら難なく撃退できる。
心配なのは妹のタチアナ。赤子の時に起きた事故のせいで脚に障害を負い、不自由を強いてしまった。勿論当時一緒に事故に巻き込まれたジェミヤンも、車に煽られた事で軽傷を負っている。しかしその傷はすぐに治った。
だからこそ、人生に大きな影を落とすことになった妹に対し、ずっと負い目を持ってしまうのだ。妹本人からはずっと感謝されているが、それでは自分の気が収まらないのだ。
同じコンパートメントに乗ってきた親子連れを見たジェミヤンは
「私がこの修羅道に進まず、ずっと故郷にいたらこの様な人生を送っていたのだろうな」
と、選ばなかった人生について考えているうちにうたた寝をしてしまい、コソボ紛争に行っていた時に一人で鍛錬を積んでいる夢を見た。
「さっきからなんだガキ、この剣術を教えてほしいのか?」
「……遠慮します。僕はあなたが信用できませんから」
そう言ってすぐどこかへ走り去る少年。だが鍛錬を再開すると、また同じ様に物陰から見ている。
今度は声をかけず、一度少年を見やってから、無言でコサック舞踏とキンジャールを組み合わせたアクロバティックな体捌きを見せる。すると、先程迄ジェミヤンを睨みつける様に見ていた少年の目は、初めて見た神技に興奮と憧れの色が宿った。
現実世界での少年……コヴァーチ・ミロシェヴィッチは、ずっとジェミヤンに警戒したまま、セルビア警察に保護されていった。
夢の中でジェミヤンは、キンジャールを納刀してからコヴァーチに近づき、しゃがんで目線を合わせる。
「教えてほしいならはっきり言いなさい。君が望むのであれば、私は君がお父さんを取り戻せる様に助力しよう」
コヴァーチの冰の瞳をまっすぐに見つめ、ジェミヤン本来の知性溢れる口調で語りかけると、冰の少年は初めて笑顔を見せ「教えてください」と素直に答えてくれた。
少年時代のコヴァーチは、実際のジェミヤンには非常に教養があり、また女性や子供には慈悲の心を持っていた事を知らない。軍にいた時のジェミヤンは、ずっと無教養で粗野な軍人を装っていたからだ。
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