第14話

 ぐったりしているファリダを一瞥し、服を着て外を確認しようとするジェミヤンだが、ファリダが起き上がり、後ろから抱きついてきた。

「待ってよぉ……あなたすごいわ、私こんなにすごい経験したの初めて」

 へばりつきこびりつく様な、絡みつく視線。この女は蛇だ。それも、とびきりの猛毒を持った……。


「スラブの男よね……? やっぱりスラブの男っていいわぁ。ドラグアさんも、あなたと全然違うけど本当に素敵な人だったわ。略奪できなかったのが本当に残念」

 ドラグア……ドラガン・ミロシェヴィッチの事だろう。あの優雅で香り立つ気品、知性と社交性を持ち合わせた稀代の芸術家。コソボ紛争の戦場から元部下のボグダノフが救出した時は、報道で見た写真や映像よりやつれてしまっていたが、人間とは思えぬ美しさは変わらない。そして隊で保護していた少年、コヴァーチも彼と全く同じ顔と瞳をしていた。


「もう一回いいでしょ?」

「冗談じゃねぇよ。俺ぁいい歳したおっさんだぞ、疲れちまったよ」

 今迄抱いた女性とは比べ物にならぬ程の下品さ。この女には淫売という侮蔑の言葉すら相応しくない……ジェミヤンが最も嫌悪するタイプの女性。悪女なぞ生ぬるい。この女は毒婦だ。

 嫌悪感を大袈裟に顔に出し、離れさせようとするジェミヤン。ファリダは男を陥落させる術を駆使するが、ジェミヤンの方が上手だった。何しろ、ファリダでは比べるべくもない、保安局選りすぐりの才色兼備な美女達を抱いてきたのだ。

「もういいだろ、便所に行きてぇんだ」


 なんとか腕を振り払い、部屋を出る。ファリダは続きを要求し続けていたが、ジェミヤン自身が強い嫌悪感を抱いている為、無視して扉を閉める。

「さっきの争う声が気になる」

 治安の悪い地域だから当然聞こえてくるものではあるが、何故か「早く見に行かなくては」という、勘の様なものが働く。ジェミヤンにとっては幸い、まだ声が続いている、一番声が聞こえる廊下に到着すると、何かが壁に叩きつけられる音と、複数名の男の断末魔が聞こえてきた。


 廊下の窓からでは死角になる庇があり、廊下の最奥にあるトイレの窓からなら見える事に気づいた。急いでトイレのある位置迄移動し、下を覗こうとトイレに入ると、ちょうどシャッテンが手を洗っているところに出くわす。

「よぉ、さっきすげぇ音が聞こえなかったか?」

「ああ、なんか争ってたな。知らねぇが」

 シャッテンはハンカチで手を拭き、さっき寝転がっていたソファに再び寝転がる。

「戻る時に起こしてくれ」

 徹底して人と関わろうとしないシャッテン。恐らく先程の争い声にも興味がないのだろう。


 ジェミヤンは再びトイレに入り窓の下を見ると、男が八人倒れている。倒れている男達の側には、拳銃や刃物が落ちている。一人は壁に頭を叩きつけられたのだろう、後頭部と目、鼻、口からの夥しい出血。あれは助からない。他の者も体をくの字に曲げ、血や吐瀉物を撒き散らし、全身を痙攣させている。

 銃が側に落ちている男は、肘と手首、そして膝が反対方向に折られ、悲痛な泣き言を漏らしていた。


 争い事の声や音が聞こえた時間は、そう長い時間ではない。実質三分から四分程度の短時間だった筈だ。

「中東のサーベル【シャムシール】もある……完全に殺意があったな」

 ジェミヤンはシャッテンの隣のソファに座り、ターリブとイリヤが戻る迄の時間を静かに過ごした。




 翌朝塒に戻り、寝る前アリビツカヤに詳細を報告する。アリビツカヤもジェミヤンを通して全てを聞いているが、映像は通していない為、視覚的な情報を報告する必要がある。

「なるほど、では外で倒れていた男達はリストにはいない連中だった、という事か。なら君は気にしなくていいよ。君の任務には無関係だ」

「だといいのですが。何故だかですね、その実行犯が誰なのかとても気になります」

 予期せぬ事態になりかねないから関わらないでくれ、とアリビツカヤから釘を刺され、渋々従うジェミヤン。


「ああ、全く満足できなかった……あんな女が相手では、自慰の方が遥かにマシだな」

 シャワーを浴び、集合時間の午後迄仮眠をとる為にベッドに横たわったが、エヴィティミヤの香りが忘れられず、何年前かも忘れる程久しぶりに自慰に耽った。




 正午になり、仮眠から目覚め身支度を整えるジェミヤン。鏡で自分の顔を見て、思わず笑ってしまった。

「まったく……こんないい歳をして、年端も行かない娘に欲情するだけではなく、夢の中でまで思いを遂げようとするとはね。しっかりしろ、私。もうおじさんなんだぞ」

 自分の両頬を叩き、性欲に負けてしまった事を戒める。


 拠点に到着すると、イリヤが機嫌悪くターリブの執務室から出てきた。

「どうした? 随分機嫌が悪いじゃねぇか」

「ああ、昨日の女……ファリダだったか? あいつから買い取った武器を輸送してたら、襲撃に遭ったんだとよ。ターリブに当たり散らされたぜ」

 このイリヤは、昨日ファリダが連れてきた少女のうち、最も小柄で幼い、十三歳の少女を穢していた。そして帰る時に下卑た笑いを浮かべ、どの様に少女を苛め抜いたかを得意げに話していた。ジェミヤンは表面的には無表情を装っていたが、イリヤに対して強い殺意を抱いたのを忘れていない。


 少し立ち話をしていると、ターリブがジェミヤンだけを執務室に呼んだ。

「イリヤから聞いたぜ、武器輸送中に襲われたんだって?」

 ターリブは頭を掻きむしり、机を強く叩いて荒れている。

「ああ、そうだ。アンドレアノフ、俺はイリヤが組織に潜入している野郎じゃないかと疑っている。奴を監視しておいてくれ。お前は銃の腕もその指導方法もズバ抜けている。軍にいた経験があるからな。だがイリヤは極めて一般的だ、金を払ってやる程ではない」

 イリヤがどこかから潜入してるというのは間違いないだろう。しかし色々な面でお粗末すぎる。国から派遣されているエージェントでない事だけは確かだ。


「俺は構わねぇが、他の奴かもしれねえ事は頭に入れといた方がいいぞ」

 ジェミヤンがターリブと執務室を出ると、先程ジェミヤンと話していたイリヤが、喉を刃物で一突きされ、絶命していた。

「なっ……!? イリヤがモグラじゃなかったのか!?」

 よく見ると、イリヤ以外にも態度が悪く、地元の人に横暴だったメンバーが、皆人体急所への一刺しで殺されている。そこへシャッテンが入ってきた。

「おい今入ってきたら」

 ターリブがシャッテンに声をかけると、シャッテンは突然、既に事切れているイリヤの顔面を蹴り飛ばした。その威力でイリヤの死体は、頭部から天井に突き刺さり、まるで絞首刑を執行されたかに見える。


「ターリブ……いや、カイス・マンスール。これがお前の犯行声明に対する、我が国の返答だよ」

 突然帽子をとり顔を見せ、着ていたパーカーを脱ぐシャッテン。中に着ていたシャツを見たジェミヤンの目に入った名前と肩章は、見覚えがあった。

「な……景山達政3等陸佐!?」

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