第3話

 一九九九年、ロシア陸軍から連邦保安局へ転属したジェミヤンは、上層部からいくつか面談を受けることになった。

「ところでアベルチェフ君、君は現在独身だが、交際中の女性や結婚を考えている女性はいるかね?」

「いいえおりません。私は軍に入った時より、生涯独身と決めております」

 ジェミヤンの回答が意外だったのか、面談の担当者は追及してくる。

「……理由を訊いても?」

 訊かずともわかるであろう事を訊いてくるのは、少々気詰まりではある。が、別に隠す事でもないと思い直し、正直に答えると、担当者は満足気な表情を見せた。

「ふむ、理想的な回答だ。君には今日の午後からやってもらいたい事がある。それまで、指定の場所で待機していてくれたまえ。担当の者が行くまでは、そこで自由に過ごしていて構わないよ」

「……わかりました」


 軍服からスーツに着替え、指示された場所に到着し、用意されていた紅茶とビスコッティを堪能していると、若い女性が部屋に入ってきた。

「ああ、君が担当者かい? この紅茶とビスコッティはとても美味いよ、君もどうだね?」

「え……? はい、では」

 女性は面食らったのか、遠慮がちに手を伸ばす。その手は微かに震えていた。

「無理をするな。上から私の相手をして来いとでも言われたのだろう?」

 ジェミヤンの指摘どおりなのか、女性はうつむいて小さく頷く。


 どうせこんなことだろうと思っていたジェミヤンは、読んでいた本を閉じテーブルに置くと、なんとか話題を作ろうと女性が話し出した。

「……日本語の本を読まれていたのですか?」

「ああ、私は少し日本語がわかるからね。とは言っても、軍にいた時の部下に、サンクトペテルブルクの大学で日本語を専攻していた者がいてね、私は彼の様に専門教育を受けた訳でもないし、知られない様にするのはちょっと苦労したよ。私は無学な戦争屋を装う必要があったからね」

「何故話せないふりをなさっていたのですか?」

 勿論自分を隠す事が習慣になっていたからではあるが、本当は祖父から教わっていた日本語が間違っている、と部下から指摘されたら恥ずかしいからだ。正直にそう打ち明けると、女性は初めてしっかり顔を上げ、ジェミヤンの目を見た。


 ジェミヤンが読んでいたのは、井原西鶴が一六八二年に刊行した「好色一代男」の現代語訳。待機を命じられ、暇になったので外国語専門の書店で購入してきた。

 しかしまさかな、とは予想してた事態が当たっていたのだ。保安局は女性をあてがってきた。しかも担当の女性は恐らく大学を卒業したばかりであろう生娘。


「さて、どうしたものか」

 少し考えたジェミヤンは、そうだ、と思い立ち、徐ろに立ち上がって女性の手を取る。


「では、私に社交ダンスを教えてはもらえないかな? 私はコサックの舞踏は嗜んでいるがね、社交ダンスはどうも勝手がわからなくて」

 女性はようやく明るい笑顔を見せ、「私でよろしいのでしたら」と快諾。立居振舞から恐らくは高等教育を受けてきたであろう、良家の子女に見える。親は何を思って、大切に育てた娘をこんな仕事に就かせたのか。ジェミヤンは

「私の両親であったら、絶対させなかっただろう」

 等と如何ばかりかの不快感を覚える。


 女性の教え方が上手く、すっかり汗だくになるぐらい踊っていた二人。

「お上手でしたわ、アベルチェフさん。とても初めてだなんて思えません」

 ジェミヤンは普段女性に対して、強い自制心を以て接している。が、汗ばんで上気した笑顔を向け、しっかりとまとめられていた髪が少しほどけている彼女を見て、珍しく劣情を抱いた。


「あの……シャワーをお借りしても、よろしいですか……?」

 恥じらいながらジェミヤンを見る女性の双眸から、自分と同じ気持ちなのだと見て取れて悟る。

 ああ、この子も私と同じ気持ちか。

 シャワーを浴び部屋へ戻った後、二人同じ思いで肌を重ねた。若く瑞々しい彼女を征服した優越感と、汚れなき彼女の純潔を奪った罪悪感、二つの複雑な感情に支配されながら。


 ジェミヤンは翌朝、彼女が起きる前に部屋を出た。逃げたと勘違いさせる様な態度は可哀想だと思い、書き置きを残す。


「君との一夜は実に素晴らしかった。だがこれっきりだ。もし君が私に対し、何らかの期待をしてしまったとしたら、申し訳ないが私はそれに応える事ができない。私は生涯独身を決めている。できれば君は普通の人生を送るべきではないか、と私は思う」


 その後、書き置きのとおりになったのか不明だが、その女性を保安局で見かける事はなかった。保安局の上層部はジェミヤンの行動に賛否が分かれたが、諜報担当の教官から面白い提案がなされた。

「今後、新人の女性職員はアベルチェフ君に指導してもらおう。それで新人の適性を確認すればよい」


  ジェミヤンはアルファ部隊に配属されているが、やけに女性あしらいが上手い事を考慮され、反対する者はいなかった。それから上層部は、新人の女性諜報員が配属される度に、ジェミヤンに適性を判断させる目的で女性をあてがう。

 元々女性に対し紳士的なジェミヤンは、あてがわれた女性達が自分に夢中にならない様、行為に及ぶ前には必ず自分の事情を説明していた。そのこともあってか、ジェミヤンにあてがわれた女性達は、保安局が期待していた以上のハニートラップがしかけられる諜報員に成長していく。

 同期からは羨ましがられたが、相手の人生に責任が持てない。そういう意味では、役得だとはとても言えなかった。




 アルファ部隊に配属されてからもジェミヤンは堅実な仕事ぶりを見せ、上層部からの覚えもめでたく、陸軍時代には中尉だったのが、転属してあまり時間をおかずして大尉に昇進していた。さすがにアルファ部隊は精鋭ばかりであることも相まって、ジェミヤンも久しぶりに訓練に対し挑戦欲が持てる様になる。


「ああ、幼かった頃が思い出される」

 父はジェミヤンが子供でも容赦しなかった。懐かしさもあるが、子供の頃辛かった思いは彼の糧となっている。コサックに生まれたからには、戦士として生きるのが本懐……しかし当時のジェミヤンは幼いながらも「強ければいいのか」と考えるきっかけになった出来事があり、皮肉にもそれが彼を強者たらしめる結果となる。

 「皆が私を天才だ、さすがアタマンの息子だ、と持て囃した。だが彼らは私の血が滲み泥を啜る、醜い過程を見ていない」

 私は凡人に過ぎない。父の導きがなければ、ただの小僧だったのだ。コソボ紛争で保護した、あの冰の子供に比べたら……。

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