第2話

 列が動くに従い前に進んでいると、先程若者を叱責した兵士に呼び止められる。

「クラスノダール州から召集されたジェミヤン・アベルチェフだな。貴様は俺について来い」

 突然列から引っ張り出されたジェミヤンは、事態が把握できないまま、兵士に別室へ連れて行かれた。

「あの、私はまだ手続きをすませていませんが……」

「構わん。貴様は奴らとは待遇が違う」


 連れて行かれた先には、通常であれば新兵など近づけもしない階級の上官がいた。慌ててパパーハを脱ぎ敬礼するジェミヤン。

「ああ、構わん。来てくれたか、シェルミツィの若き覇者よ」

 声をかけてきた大佐の口元は笑っているが、目は笑っていない。そして大佐の隣にいる中尉の顔をよく見ると、ジェミヤンが五月に打ち破った、前覇者の男だった。

「……気づいた様だな。だが今年のシェルミツィで君が優勝したのは、君自身の実力だ。私自身、あれ程迄に研鑽された君の剣技に驚いたぞ」

 作り笑いではない、称賛が見て取れる中尉の微笑。若造である自分が勝った事を恨んでいるかと思っていたが、それが単なる杞憂だったと知り、ジェミヤンはやっと少し安心する。


 大佐との面談では、階級については他の新兵と同じスタートだが、給与面や昇進等でかなり優遇されると説明を受けた。

 ただそれには十年以上軍にいる事が絶対条件。コサックの戦士として生まれ育ったジェミヤンにとって、生きる道が用意された、破格の待遇と言える。断ろう筈がない。


「他にも条件があるが……君は外国語に覚えがあるかね?」

 ジェミヤンは妹タチアナと共に、戦争に行っていた祖父から、少しドイツ語と日本語を教えてもらっていた。それ迄戦いしか知らず無教養だった祖父は、ドイツ人や日本人の捕虜から、数学や科学、農業薬学等を教えてもらっていたのだった。捕虜達から教育や学問が如何に重要なのか教わった祖父は、自分の息子……ジェミヤンの父にそうした様に、ジェミヤンとタチアナを学校に行かせ、コサックとしての教育だけでなく、一般の少年少女として育てる事も怠らなかった。


「は。ドイツ語と日本語が少し。複雑な会話ができる程ではありませんが、簡単な受け答えぐらいでしたら」

 大佐は満足気にそうか、と頷き、中尉に耳打ちする。

「ではまず、ドイツ語と日本語の会話ができる様に、できれば英語も加えて勉学にも励みたまえ。君は軍でも保安局【KGB】でも活躍できる逸材だ。どこへ行ってもツブシが利く様にしておきなさい」

 大佐に代わり中尉から助言され、面談は終わった。

 その日は別室に連れて行った兵士が宿舎に連れて行き、ジェミヤンの兵士としての人生が始まる。




 生まれた時から戦士として厳しく育てられたジェミヤンにとって、軍での生活は普段とあまり変わらず、苦ではなかった。同室の新兵には訓練の厳しさや上官からのシゴキが辛く、「逃げ出したい、家に帰りたい」と泣き言を言う者もいたが、彼らが何故そんなに軟弱なのか、ジェミヤンには理解が出来なかった。

 ただ中尉から受けた忠告だけが、なかなかに面倒で、会話の時も気をつけねばならない。

「教養があると他人に悟られない様に、細心の注意をはらいなさい。君の言葉遣いは高度な教育を受けた、都市の上流階級の子女に近い。田舎出身のコサックである君が、都会に住まう他の新兵より高い教養があると知られると、くだらない嫉妬による嫌がらせが始まる。私が既に経験しているのだ、聞いておいて損はない」

 そのため、ジェミヤンは自分が好まない、粗野な言葉遣いで日々を過ごす事になった。


「なぁアベルチェフ、どうすればお前みたいに銃が早く上手く撃てるようになるんだ?」

 早速同室の、成績が芳しくない同期から相談を受ける。

「教官が言ってた事聞いてねぇのかよ? お前マトと照星を合わせねえで撃つから当たらねぇんだよ!」

「お前コサックだしなぁ、通常訓練もそうだけど、銃も剣技も馬術も同期でダントツ優秀なのも当然だよなぁ」

 同期の前では無教養で粗野な言葉を口にするジェミヤン。これは想像以上に苦痛である。

「新兵は新兵だろ、出自がどうであれ、訓練内容は皆と同じだ。本当に俺が優遇されてたら、訓練内容も階級も違わぁな」


 会話が廊下まで聞こえてしまっていたのか、監視の教官から叱責が飛んでくる。

「貴様ら、静かにせんか!」

 慌てて自分の机に戻る同期達。教官は部屋の扉を少しだけ開け

「ジェミヤン・アベルチェフ。貴様は五分以内に指導室まで来る様に」

 そう言い残すと、静かに扉が閉められた。同期達が憐憫と謝罪の視線をジェミヤンに向けるが、無視して指導室へ向かう。というのも、叱責や懲罰の為に呼び出されたのではなく、ジェミヤンを含めた特別に優秀な極少数の新兵だけが受ける指導に呼ばれた為だからだ。舞踏や演奏の指導もあったが、ジェミヤンの場合は言語。他三人の新兵と共に、今日は英会話の指導を受ける。

 通常の訓練に加え、他と違う特別な指導という忙しい毎日を送っていたが、他にやる事もなく、ただただ研鑽を重ねていき、気がつけば入隊当初の同期達とは階級にも差がつき、彼らから敬礼される立場になっていた。




 ジェミヤンが二十八歳になった一九九一年。クーデターによりソビエト連邦は解体され、ジェミヤンを優遇してくれていた大佐も汚職により解任されており、少佐に昇進した中尉も、暴徒鎮圧の折に部下の誤射で、重篤な後遺症が残った傷痍軍人となり、退役してしまう。

 軍に残ったジェミヤンは、実家に連絡を取り「無事だから心配いらない、私はこのまま軍に残る」と告げ、情勢が安定するまで実家には帰らなかった。




 その後中尉に昇進したジェミヤンは、一九九五年に勃発したボスニア紛争と一九九八年のコソボ紛争に参戦した際、コソボ解放軍に誘拐されたドラガン・ミロシェヴィッチというセルビア人バイオリニストの奪還成功という大きな武勲を立て、帰還後軍部に呼び出された。

 勲章の授与かと思っていたが、軍部からの申し渡しはFSB……連邦保安局へ転属の打診。

「……私が十八歳で入隊した時、便宜を図ってくださった中尉から、どこへ行ってもツブシが利く様にしておけと指示されておりました。勿論保安局へ転属しましても、政府の期待に応えていく自信があります。ただ、私は軍よりも保安局向きだというのが軍の判断でしょうか?」

 転属する事に不満があるわけではないが、良い部下がついてくれたので、できれば面倒を見てやりたい気持ちがあった。

「そうだな、君は非常に目端が利き、しかも腕が立つ。ただ戦っていればいいだけの軍では、君のその才は大いに発揮されないだろう。是非保安局でも活躍してくれたまえ」


 高く評価された事を誇りに思うと同時に「体のいい厄介払いだったのだろう」という疑念も浮かんできた。このまま軍で昇進を続ければ、上官達からしたら面白くない。

 ただ新天地へ赴くのも悪くはない。

「私自身の力を試してみるのもいいかもしれんな。もう無理に無教養さを演出する必要もなくなる」

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