宵闇の英雄【バガトゥイーリ】は紅き命を執行す

ペン子

第1話

「死ね、独裁政府の犬どもめが!」

 人質となっていた少年、アリョーシャを連れ去り現場から逃走するテログループの首魁は、馬上からのパルティアン・ショットでジェミヤンを迎撃した。

「おじさーん!」

 同僚の甥であるアリョーシャを奪還すべく、裸馬に騎乗し追跡してきたジェミヤンが向こう側に落ちていく。

 もうダメだ……アリョーシャが諦め目を閉じた時、首魁が驚愕の声をあげた。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 




「コサックは正直者だから、シャツさえなく、貧乏だ!」


 コサック・ママーイの絵画に記された、ウクライナの言葉。コサック・ママーイは架空の人物だが、スラブの者が抱く「コサック」の典型的なイメージとして、ウクライナでは国民的キャラクターとなっている。

 確かにコサックは厳格な気質を持つ傾向にあり、名誉を非常に重んじる。果たして本当にママーイが言う様に、コサックは正直であったのか。子供の頃に聞いた物語や教訓は、日常では思い出さずとも、その者の人格を構成する一つの要素となっている。


 晴れた日に雪原で馬を駆り、師である父から剣術と馬術【ジギトフカ】の稽古を受ける少年も、またその一人だ。しかし少年はまだ幼く、戦士としての教育を受け始める10歳にもなっていない。馬を駆るにも身長が足りず、少し角度がついただけで落馬してしまった。


「立てジェミヤン。落馬は我々コサックにとって、即、死を意味する。偉大なる英雄【バガトゥイーリ】は、難敵と対峙しても落馬などしない」

 厳しい態度を見せる父だが、戦士であるコサックに生まれたからには、強くあらねばならない。弱い者はすぐ蹂躙される。戦争と内戦が幾度となく起きるこの国で、力を持たぬ事は人生を放棄するに等しい。

 立ち上がり、馬上に戻ろうとするジェミヤンと呼んだ息子を見て、少年が落とした短刀【キンジャール】を手渡す父。

「もう少し成長したら、サーベル【シャーシュカ】も教えてやろう。それまで幼い貴様はキンジャールの腕を磨け。そして貴様は、剣術、武術、馬術だけでなく、きちんと学問も修めろ。これからの時代、必ず力と知恵の両方を持つ者が生き延びられるのだ」

 雪から照り返す太陽の光が、手渡されたキンジャールの切っ先を輝かせた。




 一九八一年五月、雪が溶け若草がのびてきたソビエト連邦スタロチェルカスクの聖アンナ要塞で、ソビエト最大規模のシェルミツィが開催された。

 シェルミツィとは、コサックによるコサック武術やコサック馬術の競技会。各地で行われているが、ここスタロチェルカスクで開催されるシェルミツィが、最も規模が大きく、競技も観客の応援も白熱する。

 今まさに、今年最も優れた戦士が決まろうとしていた。一方は何度も優勝経験がある、三十歳でベテランの男。もう一方はやっと十八歳になろうという、まだあどけない少年。しかし少年の身のこなしはまるで空(くう)に舞う羽根の様に、ベテランの男の正確な攻撃を重力を感じさせぬ体捌きで回避した。


「いいぞ坊主!」

 観客達から声援が飛んでくる。ベテランの男は、まさかこんな少年に押されるとは思ってもいなかったのか、焦り防御が疎かになってしまった。少年はその隙を突き、父親から受け継いだ古いシャーシュカで相手のシャーシュカを弾き飛ばし、ようやく決着がつく。

 少年が勝利した瞬間だった。


「さすがだジェミヤン!」

「誉れ高きクバーニの首領【アタマン】の息子!」

 少年と同じコサック自治組織【ボーリニツァ】の一団が、優勝した少年ジェミヤンをもみくちゃにし褒め称える。ジェミヤンはなんとか彼らの間を縫いながら、父の下に向かった。


「父上、仰せのとおりに優勝しました」

「そうか。よくやった」

 言葉少なく目を伏せる父からは、口には出さない称賛が感じ取れた。

 父方の先祖はアタマン、即ちコサックの首領。父も血統に倣い、軽々しく褒め称える様な人ではない。ただ、息子であるジェミヤンには、見せはしないが心の中では喜んでくれている事がわかっているので、落胆したりはしなかった。父から受け継いだシャーシュカを太陽に翳す。

「やはり父上からいただいたこのシャーシュカとキンジャールが、私の手にはよく馴染みます。この宝玉も父上が磨いていましたから、ずっと色褪せませんね」

 副賞で授与された豪奢な馬具一式よりも、父から受け継いだこの古い刀を大事そうに抱え、幼き覇者は静かに会場を後にした。




 シェルミツィで何度も優勝したベテランを破り、一九八一年の覇者となったジェミヤン・アベルチェフは十八歳になり、クラスノダール州の郊外から、徴兵の為モスクワへやって来た。

「父上、母上、行って参ります。タチアナ、私がいない間は、父上と母上の言いつけをよく守りなさい」

「兄様、馬【コーニ】で行かなくていいのですか?」

 妹タチアナがジェミヤンの愛馬を連れて来るが、母に「距離が長いし、馬よりも鉄道の方が速いから」と止められる。

 家族に送り出され、ジェミヤンは初めて乗る列車に揺られモスクワへ向かった。

 元々は地元から近い基地に所属する予定だったが、シェルミツィでの優勝を高く評価され、軍から中央の隊に来る様にと打診されたのだ。

「私の様な世間知らずの田舎者が、こんな都会でやっていけるか不安だな……」

 生まれてからずっと、自然豊かな地元で暮らしていたジェミヤン。彼にとって首都モスクワは、あまりに巨大だった。


 召集令状を手に順番待ちの列へ並ぶと、古いコサック服を着用したジェミヤンに向けた、好奇の視線と陰口が飛んでくる。

「なんだあいつ、どこの田舎モンだよ」

「コサックだろ、服見ろよ。一人で都会に出てきて、ご苦労な事だな」

 彼らは視線を向けては目を逸らす。確かにジェミヤンのコサック服は、地味で画一化されたかの様な軍用コート【アフガンカ】を着た他の若者達と比べ目立つ。両胸に銃弾筒【ガズイリ】が縫い付けられた特徴的な黒コート【チェルケスカ】に、そして膝上が膨らみ膝下が下腿の筋肉にそってしっかり絞めつけるズボン【シャロヴァルイ】を履き、腰にキンジャールとシャーシュカを携えた姿は、それだけでジェミヤンがコサックであると雄弁に物語る。

 また防寒のためにかぶっている帽子【パパーハ】も、他の若者がかぶっているウシャンカと違っており、服全体を見ずとも明らかに浮いていたのだ。


「おいそこ、私語を慎め!」

 列を監視している大人の兵士に叱責された若者達は、慌てて前を向き静かになる。

 ずっと黙っていたジェミヤンは小さなため息をつき、

「こんなつまらない連中と訓練で寝食を共にせねばならぬのか……」

 これから起きるであろう事態を想像し、気詰まりに思った。




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