散る花の還らぬ春に

 桜並木にコートを着せたこどもを腕に抱いて歩いている。春の暖かな光が満ちる河辺に、まだ少し風は冷たい。もっとも、春の陽気に勝るほどではなく、桜を愛でて歩くには、随分と似合いの日和である。

「ああ、きれいですねえ、―――山があんなに白い。来てよかったですね。」

感嘆を声にのせるのは、青く聳え立つ山々の、清明とした青にくっきり白い、山の頂を眺めてのこと。微笑するかれに、こどもが目を見開いて、同じものを見ようとする。

「…ああ、見えますか?蓮君。ほら、山の頂きがあんなに白いでしょう?あれは雪というのですよ。」

向きを変えてやって、同じ方向が見えるようにする。腕に抱かれて目を見張るこどもに、微笑しながら教えていう。

「雪というのは、本当にこうしてながめているには美しいものですね。近くにあれば、ときには人の命も奪うほどの、冷たく恐ろしいものでもあるのですが。」

「――…き、?ゆーき、?」

片言で指さしていうこどもに、橿原がすこし目をひらいて、微笑する。

「そう、雪です。かしこいですね、あなたは。」

「ゆき?」

「はい、雪です。」

微笑してこどもを支える。目をまるくして山をながめているこどもを眺めながら、河辺に歩を進める。

 透明な川面が光をなめらかに乗せ、桜の花が風に散って舞い降りていく。

「見事なものですね。…」

「…――、はな、…――、」

こどもが手をのばすのに、支えて落ちないようにしながら微笑む。

「そう、花ですね。木の花です。さくら。わかりますか?」

こどもの追う先を共にみて、花の名前を教えてやる。夢中になってのばしている小さな手に、つかまれる花びらがひとつ。

 桜のひとひらを手につかんだこどもに、目をひらいていう。

「ああ、すごいですね、蓮君。…あなたは、つかまえるのが得意のようだ。」

てのひらに偶然舞い込んだ、花一片を目に褒めるかれに、こどもがうれしそうに笑顔になる。

「はーな、――…、こお、」

あげる、というようにつきだしてくる幼い手に、微笑して応える。

「私にくれるのですか?ありがとう。」

はなびらにくちづけして、手に受け取る。

「――こお、はな、」

ぺた、と橿原の肩に抱きつくこどもを連れて、河辺を歩く。

 微笑して、ゆっくりと。



 河辺に遊ばせなどして、すっかり疲れて寝たこどもを片手に抱いて、橿原はホテルの玄関を潜っていた。石造りの古いエントランスは、瀟洒な造りの古い洋館が坂道から昇る客を迎える最初の顔である。

 薄闇の降りるアプローチに、橿原はこどもを腕に抱いたまま静かに立留まっていた。

「…どうしますか?僕は御存知の通り武器を持たないことにしています。いまなら、簡単に殺せますよ?どうなさいますか?」

しずかに首を傾げる先にある闇は沈黙している。柱の向こうにある闇は、山峡の深い静けさを背景にしている。

 応えの返る前に歩き出す橿原が、扉の近くに歩を進めてから口にした。

「少しは賢いようですね。―――…僕が一人でないことくらい、ちゃんと理解できるとは。僕一人なら本当に如何でもいいんですけど、お預かりしている命がありますのでね。」

無心に眠るこどもを腕に、闇に向けて視線を投げる。微かに動揺する響きが無音のまま空を伝い、何か重さを伴うものが、動きをとめられてくずおれる気配をすべてやみに聞き取っているようにして、橿原の眸が細められる。それから、本当に中に入りかけて、あ、というように振り返った。

 人差し指を口にあて、無音のまま闇に気配を殺す辺りに向けていう。

「――…ひとついっておきますけど、殺しはだめですからね?ご面倒だとはおもいますけど。…それから、薬漬けにして放り出すとか、そういうわかりやすいのもだめですからね?もうしわけないですけど、ちゃんと手間隙かけてください。簡単に終らせちゃ、だめですよ、わかりました?」

首をかしげて、それから微笑して踵を返し中に入る。

 闇の向こうに無音のまま迅速に動く気配がして、何もかもの気配も消える。こどもを腕に、極平和に微笑みながら部屋に戻った橿原は、見てはいないのにそれらの動きを総て知っているようであった。



 こどもを傍らに寝かせ、自身も長くなって横になる。長椅子の刺繍と織物のクッションに背を預け、閉じた眸のままいっていた。

「真藤君、――――今日はありがとう。旅行の準備も全部任せてしまって、たすかりました。」

花を観に来てよかったですね、といいながら、傍らのこどもの髪を撫ぜる。

 ――桜と、山を眺めさせてやりたいので、何処か丁度良い処を探しておいてください。手配はおまかせします。

そういって、真藤に頼んだのが、幾日か前。黒城家の屋敷に殆ど居候というくらいに居続けにしている橿原に、大体代表として連絡を取りにくる真藤に、普段は指示を与えるだけで何も要求しないのを、めずらしく口に出して願ったのが、この小旅行である。

「とてもよかった。蓮君と花が眺められて、とてもよかったです。」

微笑して機嫌良くいう橿原に、無言のまま真藤、とよばれている男が深く礼をとる。硝子格子の夜窓に近く、闇の挟間に姿を見せていながら、いつでも夜に紛れて消えていきそうな男である。きちんと着こなしたスーツに顔は薄い闇に紛れている。

「今日は沢山歩きましたからね。そろそろ寝ます。…おやすみなさい。」

影のように在った男は、既に消えている。寝台に何とかこどもとともに移り、ねむる橿原である。




 再び、そうして花の季節が巡り来る。

庭の花を眺めて遊ばせて、興味を持った花の名を教えたりなどしながら。

すっかり大きくなったこどもは、もう自分の名前がいえるまでになっている。

「こうさん、これ、なに?」

「これはセイヨウタンポポですね。」

「せー、…。」

困った顔をしてみあげるこどもに微笑み掛ける。

「普通、タンポポといいます。いえますか?」

「たー、ぽぽ、たぽぽ?」

「たんぽぽ、ですね。はい。その通りです。この黄色い花がたんぽぽです。」

こどもが立つ傍に座り、手を差伸べて花の名を繰り返す。

「たん、ぽぽ。」

「よくできました。…そろそろ中に入りますか?お昼寝しましょう。」

微笑み掛ける橿原に、こどもが抱きつく。

「おひるね!」

「はい、おひるねです。さ、いきましょうか。」

抱え上げて運ぶ橿原に、こどもがうれしそうに笑っている。




散る花の還らぬ春に。


けして、戻りはしないその破滅に至る宵に。

青空がうつくしく、散る花がけして還らぬことが。

ゆびをのばす、その無邪気がもう二度と戻らぬことを。


春を経て、いずれ破滅はその刻へと。

その破滅がなにもかもを変えることを。


いま無邪気に笑うこどもは、なにもしらない、――――。




                        散る花の還らぬ春に

                                 

                                了






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「七夜語り」 TSUKASA・T @TSUKASA-T

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