このいのちをまもるものに

「ぼくは、この年になるまで、あまり自分の感情というものを考えたことがなかったのですがね。」

真面目な顔をしていう青年、いや青年と言う年ではないのかもしれないが。何処か年齢不詳の、淡い色の髪をした三十前と思しき男性が、真面目な言葉を掛けているのは。

「……どうも、ぼくはあなたといると楽しいようです。不思議なものですね。あまり楽しいとか、そういう感情全般を、意識したことがなかったのですが。これはとても珍しい状態ですよ、蓮君。」

丁寧な言葉で話し掛けている相手は。

 小さな手を、握ってかれにむけてさしだしていた。

「こお、――。」

こお、というのはかれのことらしい。それに微笑して、ちいさな手のさしだすものを手に受け取る。サンルームの中、緑に囲まれた室内で、白いポロシャツに同じく白のスラックスを無造作に着たかれに、向き合っているのは。

「はい、ああ、ありがとう、蓮君。うれしいですね。葉っぱですか。ぼくがもらっていいのですか?」

「――こお、」

ぱた、と受け取ったまま伸ばしている腕にうれしそうにこどもがしがみつく。ぎゅ、と抱き締める腕に捉えられているのに微笑して受け止める。

「蓮君。では、わたしにくださるのですね。ありがとう。」

真面目に礼をいっていたりする相手は、どうみても幼児。それも、一才になるかならないかというこどもである。白いベビー服を着て、サンルームに作られた庭に遊んでいる。手に摘んだなにかをかれに渡して、機嫌良くかれの腕につかまって遊んでいるこどもを見て、微笑してその背を支えてやる。

「はい、蓮君。唄をうたいましょうか?では。」

機嫌良く腕の揺れるのにあわせてわらっているこどもに、揺れにあわせて子守唄を唄う。

 柔らかな良い響きの声が唄うのに、こどもが段々とねむくなって瞳をつむる。すっかりこどもが寝てしまっても、腕にあやしながらやわらかな声で唄うかれの姿を見て、思わず黒城一政は額を押えた。

 出張から戻り、直行したここは黒城家の屋敷では無かった。出張先に、彼の妻皐月から、こどもをあずけられたと、都合があって自分の屋敷に一緒にいます、と伝えてくれたひとの、黒城家等比較にならないような広大な屋敷である。その一角に。案内に教えられるまま直行して。

「先輩、……。」

サンルームの一角に直に庭に座って、服装の汚れなどに気を使わないのはいつものこのひとだが。さらに、かれの傍に遊ばせたこどもが掴んだ土にかれの腕を掴んで汚すのにも構わずに、微笑んでこどもを遊ばせている。いや、いまはこどもを眠らせているのだが。

 その上に、さらにこのひとがこどもに子守唄など唄っているとなると。額を押えて、見た光景に頭痛を憶えても誰も責めるものはいないだろうと思う黒城一政である。

 広大な屋敷を治める主が、サンルームでこどもに子守唄を唄いあやしている。

「先輩、――橿原さん、…。」

サンルームの入り口に立つ彼、黒城一政の姿を認めて、先輩、橿原とよばれた彼が視線を向ける。思わず、緊張して背を真直ぐにする。出張から戻ったばかりの、スーツを着替えてもいない彼のようすを目にして、やわらかに微笑するとくちにする。

「いま、寝た処ですよ。よく遊びましたからね、沢山眠らなければいけませんから。しずかにしてくださいね。」

くちに指をひとつあてていう、そのながい指の優雅なさまに思わず額に置いた手で顔を被う。

「あの、どうしました?」

その黒城に不思議そうにかれが訊ねてくる。対して、答える気力も湧かずに黒城一政は暫らく立ち尽くしていた。無言のままでいる黒城に、かれが首を傾げる。

「どうしました?ああ、…そろそろ部屋に移りますか?蓮君。おきてはいけませんよ、あなたは。」

話し掛けると、ねむっている小さなこどもを慎重に腕にして、ゆっくりと立ち上がる。

「…先輩、」

立つと、身長が高く細身の体格がよくわかる。こどもの摘んだ草や土に汚れた服も気にしないで、唯ねむるこどもを起こさないようにだけ気を使って歩いて来るかれに、黒城一政は目を合わせた。

 澄んだ眸に息が詰まりそうになる。彼を、黒城を高い位置から見る視線は、どんな色にも染まっていない、かれだけの不思議に透徹した視線をしていて、いつも見つめ続けることは出来なかった。何か、何もかもをこの眸には暴かれてしまいそうで。

「一政くん。」

「―――先輩、」

苦しくなって視線を逸らし、かれが傍を通り過ぎるときに呼び掛ける声に対して思わずも身を硬くして答えていた。

 柔らかな声が聞こえる。

「着替えて疲れを取った方がいいですよ。すこしは肩の凝らない衣装にしてみなさい。確かロンドンに行っていたのでしたね?いつも商談で大変ですが、明日までの休みくらい、身体の力を抜くことです。いつもそれでは、身体が持ちませんよ。」

背を向けたまま、掛けられる声を聞く。柔らかで、やさしい声に涙が出そうになる。歯を食い縛る。日当りの良いサンルームを向いたまま、かれの声にも振り向くことも出来ずに立ち尽くしている姿に向けて、声が続けている。

「あ、あとでごはん、食べましょう。今日は作ってくれるひとが来ているので。確か大原がきています。一緒にごはん、食べましょうね。」

「……はい、」

掠れた声で答えていた。遠ざかる声に、どうしてこのひとは、とおもう。

「どうして、…。」

おもわず声に零して額を指で押えながら、続く声を押える。

 ――どうしてあなたはいつも、―――。

そうして、いてくださるのか、と。

 苦しい想いの中に聞きたかった。いや、多分そう聞いても、いまも変らずに応えてくれるのだろうが。

 ――ぼくの、好きでしていることですよ、…。

そう、なのかもしれない。それは本当にそうなのかもしれない。けれど、それが。

 いま、かれの抱いていたこども。

 蓮君、とかれが呼んでいたこども。

黒城一蓮。

そう、黒城一政、彼自身のこどもは、いま生きていく上で必要な世話を、かれによって生きていた。

 つい先日、知った事実だ。妻の皐月は、殆ど一蓮の世話をしていなかった。かわりに、かれが、こどもを置いて出掛ける妻に連絡を受け、こどもの世話を引き受けていた。それがほぼ日常だと知ったのは、本当につい先日で。けれど。

 彼自身も、黒城一政もまた。こどもと、殆ど触れたことは無かった。こどもを生かしていたのは、黒城一政でも黒城の妻皐月でも無く、かれだった。

 橿原。大学の三年先輩であり、それ以前より黒城一政にとっての目標であり、常にその背をみつめていた相手。その先輩に、彼のこどもが生かされていたことを、先日初めて一政は知ったのだ。

 真実有閑階級といっていい、この邦に存在するとは信じられない程の富と権力の集積する上に生きている存在だと、かれのことを知っているが。けれど、いやだからこそ、かれがこどもを、――幼児を育てる為にその時間を使っているというそのこと自体が黒城一政に困惑と混乱をもたらしていた。乳幼児の世話をしている姿が、どうにも混乱をもたらす。いや、それだけでなく。

 本当は、世話をしなくてはいけないのは、親である自分のはずになる。そう、おもうのだけれど。

 目を閉じて、入り口の柱を手で掴んだ。唇を咬む。内側を外からわからないように咬んで思わず限度を知らずに噛み切ろうとして拳を握って留めた。

 子供が、怖かった。

 …自分の子供だというのに、いや、だからこそかもしれない。

黒城一政には、生まれた子供が、いま彼の息子であるはずの黒城一蓮が、恐くて仕方なかったのだ。触れることも、いや、見ることも。その姿を、目にすることさえ。首を振る。おそらくその存在を認識することさえ、恐ろしいのだと解っていた。唯解らないのは。何故、そうも我が子というものを、こわいと、おもってしまうのかということだ。

 いや、―――多分。それはわかっているのだけれど。

わかっているのだけれど。

 黒城一政は、影に蹲るように、膝を折り、明るいサンルームの入り口に震えたまま、その明るさに踏み出さずに手で柱を支えのように握り動かずにいた。動かずに、動けずに。明るい日差しに踏み出すことで暴かれる罪を畏れるようにして、黒城一政は。

 陰に身を埋めて、まるで消えることを望むように身を縮めて震えを殺せずにいたのだ。



「おいしいですか、蓮君。ああ、よかったですね。」

こどもにまず匙から食事を食べさせてやって、そのうれしそうなようすに微笑んで見ている。こどもを自分の右脇に座らせるようにして、誂えた椅子に座るこどもにまた匙で食事を運んでやる。

 橿原の右手が匙で掬いに動くと、こどもも真似するようにして腕を動かす。

「やってみたいですか?でもまだあなたには少しはやいですね。いや、やってみるのもいいかな。でもまだ、匙を握るのは無理ですね、蓮君。」

匙を追うこどもの動きにあわせて、ゆっくり匙を運び、こどもが手をくちに運ぶのにあわせて匙を口に寄せてやる。

「はい、どうぞ。こんどはじゃがいものふかしたものです。随分と極上にしあがっているのですよ?今日この食事を作ってくれたひとは、大原というのです。あなたの為にも随分気を使って食事を作ってくれました。あとで、御礼をいいましょうね。」

ぱく、とこどもが匙からつぶしたいもをくちにする。

「こお、おーし、」

「ああ、美味しいですか。それはよかった。おいしい?ああ、わたしにもくれるのですか?」

こお、おーしー、こお、と、いうのは、多分、橿原を呼ぶ名が何故かこうになって、おーし、がおいしい、なのだろう。くりかえして目を輝かせているこどもに微笑すると。匙からこどもが残りをとってつきだしている小さな手に微笑んで顔を寄せる。

「はい、いただきます。」

「こお、おーし、まあ、」

「はい、おいしいですね。ありがとう。」

こどもがにこりと笑顔になる。柔らかに笑顔を返すとかれがこどもに礼をする。

「あなたは、いつも美味しいと思うとわたしにもくださるのですね。ありがとう。とてもうれしいですよ。さ、でも、あなたも食べなさい。あなたは、沢山食べて、大きくなる必要があるのですからね。蓮君。」

さ、と柔らかく煮た豆をこどもにあたえていたりなどする。ゆっくりと、殆ど自分の食事をあとにして、こどもに食べさせている橿原の姿を前にして一政は殆ど動けないような気持ちになっていた。

 夕食の席、招待されていたこともあり、食事の時間に呼びに来た使いに従って黒城一政はやってきていた。呼びに来た人間が橿原家の何になるのかは一政は知らなかったが、恐らくは――言葉はとても古いが――召使の類になるのだろう、その背について食堂まで来た一政は、こどもを連れて食卓に既に就いていた先輩をみることになったのである。食事にあたって、黒城は着替えていた。着替えは、勿論サイズの合った上等な品物が用意されていて、荷物一つ持たずに訪れた黒城はいまそれを借りて着ている。焦茶を基調としたシャツにスラックスは、黒城の性格を考えてか、砕けすぎないオーソドックスな型に嵌ったものだが、気持が楽になるような良い仕立てをしていた。客室の隅々にまで気を遣わせずにゲストの望むものを用意している、そんな格式を当り前のこととしている、それが橿原という存在だと、あらためて知った気がして緊張していた。だが、そこに。

 行儀が悪いけど、失礼しますね、と断って。

 何とこどもを伴って現れた橿原は、黒城が思わず目を見張るのも構わずに、こうしていまこどもに食事をさせているのである。

 かれがそういって始めた食事が、どういう意図を持って設けられたのかはよくわかった。かれが正面からいわなくてもわかっていた。こどもに食事させるだけなら、かれはこういった席を設けないだろう。唯、かれはこどもを彼に、一政に会わせる為にだけ、こうして席を設けているのだ。食事の席に、こどもが前に顔をあわせたときより随分と大きくなっていることも、食べているものが形を持つようになっていることも、言葉を随分と話すようになっていることもわかるように。

「…橿原、さん、」

両手を組んで、額を其処に預ける。苦しくて、どうしようもない気がした。同時に、何故か身を浸すような安堵も。

 こどもは、――無心に橿原にあまえていて、橿原もそれにこたえている。

絶対に、どうしても黒城に出来ないことを、彼自身に出来ないことをしている。

「橿原、さん、…―――、」

どうして、と聞きたかった。そして、どうして、と。

 どうしてこうも自分は安堵しているのか、と。

誰に向かって聞けばいいのか、わからなかったが。

「橿原さん、…。」

「一政君。」

「――橿原さん、…?」

おもわず顔をあげた。正面からこのひとを見るのはおそろしいのだけれど。それを忘れて、みあげていた。

 その透徹とした眸をみかえすことがとても恐ろしいことをわすれて。

「橿原さん、」

「一政くん。そんなに、罪の意識に苛まれることはありませんよ。第一、あなたと皐月君が、僕にこの子の世話をすることをゆるしてくれているのです。忙しい父親が、こどもの養育にひとを頼んでいても、それは極当然の行為といえるのではありませんか?一政君。」

「あ、あの、」

おもわず問い返す一政に対し、やわらかに微笑する。

「養育係というのは、如何ですか?よくある話ですよ。親が育ててくれるひとを、別に雇ってその養育を任せるというのは。彼女はそれで好きに暮らせますし、あなたはこどもを養育する為に充分な環境を整えてやれる情況を造れる。違いますか?」

「あ、…先輩、」

言葉に詰まる一政に対し、穏かな眸が見返している。

「しってのとおり、ぼくはひまなんですよ。それにこどもを育てるというのは随分たのしい。あなたは、前にぼくがそういっても、信じていないようでしたけど、御自分の趣味と、ひとの趣味を一緒にしてはいけませんよ。それは狭量というものです。一政君。」

「…狭量、と、いうのは…、」

既に食事を終えてねむくなって、膝に抱かれているこどもを目に一政がいう。こどもは、橿原の服を握り締めて、瞳をとじている。健やかな寝息が聞こえてくるさまに戸惑って見て、それから橿原を見返す。

「それは、その、」

「ぼくの趣味です。この子を育てるのは。それに、君達は協力してくれているといえばいいですか。だって、どう考えても、このくらいの年齢のこどもをなかなか世話を任せてくれるなんて機会はそうないでしょう?君達は養育をひとに任せて遣りたい事に集中できる。わたしは、こうしてこの子といられます。前にもいいましたけど、わたしは随分と幸運だとおもっているのですよ。この子といることができて。それがゆるされていて。幸運だとおもうのです。それではいけませんか?一政君。」

微笑する柔らかな視線に、言葉に詰まる。

「…それは、――その、先輩、橿原、さん、」

「あまり、思い詰めてはいけませんよ。君も皐月君と同じくらい、割り切ってくれれば助かるのですけど。」

「先輩、…。」

微笑して不思議な響きの、心の波を落ち着かせるような声で橿原が口にする。

「ひとはそれぞれなのですよ、一政君。この子に近づけないからといって、自分を責めることはありませんよ。あなたは少なくとも、この子の幸せを祈っている。幸せになることを願っています。違いますか?」

「…はい、――…はい、先輩、」

僕は、と。肩を落として震えていう黒城に。

 やわらかに震える身に届くような声が聞こえる。

「あなたはこどもの幸せを祈っている。でしたら、それでいいのではありませんか。誰もと同じようにすることだけが、愛情ではありませんよ。少なくともあなたたちは、そのぎりぎりの処で、悲鳴をあげながらもわたしにこどもを託している。この子をたすけようと、願っている。違いますか?皐月君も、君も。あなたたちは、自分達では恐ろしくてこのこどもにさわることができない。けれど、それでも、―――――。」

降る声に、身に染み込む声に。

「この子が生きることを、願っている。ちがいますか?」

音楽のように身に響く声に、頷いていた。涙をせめて俯くことで隠せるようにと思いながら、口許を手で覆い、嗚咽が漏れないようにと頷いていた。

このひとに。

 このひとに、出逢えたという奇跡に感謝していた。

 そう、ふれることさえおそろしいこどもに、けれど。その命を、繋いで欲しかったのだ。どうしていいか、わからないままに。

「あなたは、充分こどもをあいしていますよ、一政。」

あなたも皐月君も、と。穏やかな声がいう。

「愛し方が、わからないだけです。でも、いそいでわかる必要はないのではありませんか。わたしが、いまは蓮君をみていますから。」

いとしげに、視線をかれがこどもに注いでいる。

「どうしていとおしいと思えるのか。それはわたしにもわかりません。どこからこの気持がやってくるのか。わたしはこれまで、自分の感情を測ったことがありませんが、はじめてふしぎに思っています。」

すやすやと眠るこどもを見て、髪を撫ぜて。

「この気持が、何処からくるのか。どうしてやってくるのでしょうね?この気持は。刻を重ねるごとに、つよくなっていくんです。この気持は。この子をまもりたいと願っています。不思議なほど。はじめて会ったときに手をつかまれた力の強さに驚いてから、時を重ねるごとに気持ちが強くなっていきます。本当にどうしてでしょうね。この子がかわいくて仕方がない。」

「先輩、」

「一政君、ゆっくりやりましょう。ぼくだって、最初にこの子にあったときより、ずっといまの方がこの子にかたむく気持は強いのです。気長にやればいいのですよ。」

こどもの肩をあやしながらいう声に涙を堪える。

「…先輩、」

「僕は幸運ですよ。この子と出逢えて。あなたがたに、この子を任せてもらえて。一人養育係を雇ったとおもいなさい。こどもを育てる暇がなくて、人を雇うということはあまり珍しくはないのですから。何もかもの世話を、すべてしようという方が間違っていますよ。あなたは、」

にっこり、とかれが笑う。

 あげた面に、ひとつ指をふってみせている。

「あなたは、この邦に名高い、所謂仕事に生きるあまり家庭を蔑ろにする典型的なこの邦の父親像なのですから、そう負担に思うことはありませんよ。それに、自分に出来ない世話を伴侶に無償で求めることをせず、第三者に責任を持って任せようというのです。あなたは、わたしが責任を持って任せられない相手だと思いますか?」

「―――いえ、」

思わず反射的に返す。任せられない処か、このひとがいてくれたから、こどもが無事に育っているのだとわかっていた。妻にも自分にも出来ないことをしてくれていると。それを。

「いいえ、いいえ、…―――あなたは、」

堪えきれなくなって涙を流す一政に、橿原がやさしい視線をあたえた。それにおもわず息を止めそうになって涙がとまる。

「橿原、さん。…」

「一政くん。ありがとう。」

こどもを腕に、やさしく抱いて微笑む。

「…ぼくにも、不安はあるのですよ。本当に、この子を育てさせてもらっていいのか。ぼくにその資格があるのかどうか。唯ぼくは、この子がかわいくて手離したくないだけなのです。」

「――橿原、さん、」

驚いて見上げる先の眸に、しずかな中に不思議に揺れる光をみつけて息を呑んだ。

「橿原さん、…。」

「この子と離れたくありません。けれど、それだけなのです。資格があるかどうかは、ぼくにはわかりません。唯、あなたがたがゆるしてくれるなら、それがうれしい。そう思うのですよ。」

「ゆるすって、何をおっしゃるんです、―――一蓮は、その子は、あなたがいなければ、生きていなかったでしょう、――どうしていいかさえ、思いつかなかった、私は、どうしていいか、」

誰かに頼むというそんな単純なことさえ、自分は思いついてはいなかったのだ。

「ありがとう、一政君。」

「橿原さん、」

ぼくは、と橿原が口にした。

「――先日、この子と、離れていました。どうしても都合があって、一日、この子を皐月君にお願いして、離れていたのです。」

泣きそうな目をこどもに向けている橿原に気付いて、黒城が息を呑む。

 こどもの髪を撫ぜて、橿原が云う。

「…離れていました。戻って、誓っていいますが、皐月君は良く世話をしていてくれましたよ、―――離れていて、この子の傍に戻ったとき、この子が、」

柔らかなこどもの髪を指に、橿原がいう。

「目を覚まして、わたしにしがみついて、―――泣いたんです。とても大きな声で、とても、」

こどもを抱き締めて、おもてを伏せる。

「この子が、泣いていて、―――。ぼくはどうしていいかわかりませんでした。どうしていいのか。唯この子がいとおしくて。離れていたことが、つらくて、いとしくて、かなしくて、ぼくは初めて、自分にこんな感情が眠っていたことを知りました。どうしたらいいのかわからないほど。」

やわらかに声は響きながら、そのくるしさを思い出すように。

「この子が泣いていて、唯わたしはだきしめてました。ただ、だきしめていて。そして、」

ふと、零れるように微笑み、こどもをみおろす。

「この子が、泣き止んで眠っている姿を見たときの、感情。」

泣いているのか、わらっているのか、わからないほどにどちらもを抱いた、そして安堵をものせた眸でこどもを見つめる。

「ひとりにして、すみませんでした、―――。そして、離れられないと、思いました。一政君。だから、感謝しているのですよ。一緒にいられることを。この子が生きているこのときに、いまわたしが傍にいられることを。」

かれがいないことに怯えていて、そしてかれが戻ったことに安心して泣いたこどもは、いまもその腕にやすらかに寝息を立てている。

 かれの腕に。

「はい。―――」

何だか、それだけのことが、すべてをゆるしてくれてあるようで。一政は、微苦笑を漏らしていた。それで、いまはどうしてもこちらでしなければならない仕事があるので、こちらに一緒にいさせてもらっているのです、と悪戯気にいい。こんな自分達に感謝するという、このひとに、自分に、そして、ねむるこどもに。

「…はい、――――僕も、」

このこどもを、大切にしてくれるひとがいる。そう、そのことに。

 感謝して、黒城一政は眸を閉じていた。

 このこどもに、このひとがいたことを。

 その幸運を。

「…ありがとう、―――ございます。」

ゆっくりと微笑んで、そうして黒城は祈るように組んだ手に額を落した。

誰に祈るのかわからないけれど、祈りたかった。いつか破滅が訪れることがわかっていても、このいまの幸運に。

 破局がいつか、訪れようとも。

「橿原さん、…――。」

ねむるこどもだけが、まだ何も知らないまま、無心に手を伸ばしていた。橿原を小さな手につかまえてねむる。

 ――…ありがとう、ございます。

祈る相手は、神かもしれない。神が何処にいるのか知らなくても。何が神であるのかをしらなくても。

 祈りを。

 神に奉げる。

 このいのちを、護るものに。




                         了




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