7

【side: 朔】

 カフェを出ても、雪は未だに降り頻っていた。そして僕も彼女も、傘を持っていなかった。

「駅まで送ろうか」

 僕は言った。彼女は反射的に首を振った。

「大丈夫」

 声は震えていた。マフラーで隠れた彼女の表情は見えなかった。

「大丈夫。一人で歩けるから」


 両の手をポケットに入れながら僕は歩いた。視界には自分の足元だけが映っていた。道の先に雪が溶けているところを見つけ、そこが踏切であることを知った。もう名鉄の桜駅だった。僕は線路を渡り、その先の積もった雪に足をつけた。後ろで警報音が鳴った。振り返ると、踏切のライトが点滅し、遮断機が下りていた。その先には来た道が見えた。雪の白布を縫うように、彼女の往った足跡が等間隔に続いていた。その先にあるはずの彼女の姿はもう見えない。電車が来た。特急列車だった。轟音と共にそれが過ぎると、踏切がゆっくり開いた。彼女の足跡は、降る雪に埋もれて薄くなり始めていた。僕は自分の足元を見やる。僕の足跡も消えていた。僕は、自分がどこに向かって歩いていたのかわからなくなった。


「辞めるってどういうことですか、先輩」

 次のバイトで、僕は辞表を提出した。マスターは老眼鏡越しにその文字を見つめていた。篠原さんは鋭い目つきで僕をにらんでいた。

「私に好かれるのが、迷惑だったんですか」

「違う」

「じゃあどうして」

「僕は、幸せになってはいけないんだよ。まるで乗り換えるみたいに、彼女と別れたからって別の女の子と幸せになってはいけない。僕は、彼女への責任を果たさなければならない」

ごめんね、弓弦ゆづるさん。僕は彼女にそう言った。彼女は、「今更、ひどい」と吐き捨てて控え室へと消えてしまった。マスターは、眉を下げて困ったように笑った。

「君がいないと、俺は寂しい」

すみません、と僕は頭を下げた。視界に映る僕の指に、もう指輪はついていなかった。


【side: 満月】

 私は京都の下宿に戻った。スケッチブックを広げて、新しい制作のラフ案を作ろうとした。また次の締め切りだって近いのだから。

 鉛筆の先を画用紙へと向ける。そこに黒鉛の線を載せるイメージをする。でも、全く構図が浮かばない。鉛筆を持つ指が震える。白い画面が次第に膨らんで、私を覆い潰すような錯覚がある。

 早く、その白を塗りつぶしてしまいたかった。ぐちゃぐちゃの線で汚してしまいたかった。でも、本当にそうしてしまったら。そうしてしまった瞬間、何かが後戻りできないくらい完全に壊れてしまいそうだった。私にとって大切なものが、どうしようもなく汚れてしまいそうだった。


 棚の上のテディベアは、首を傾げてそんな私を見ていた。ボタンでできたその目は、私の心のうちを透かしているようだった。

 この感触は、なんて言えばいいのだろうか。そう、喩うならばそれは、「壁」だった。

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恋人達のジレンマ 橘暮四 @hosai

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