第30話

「ここだ」


文乃さんを連れ、俺は帰宅する。どうして連れてきてしまったのかは分からない。もし理由があるとするのなら、きっと見過ごせなかったのだ。それだけだった。


彼女をリビングまで案内すると、ソファに座らせるて、俺はキッチンへと向かう。湯を沸かして、温かいココアを作る。


「甘いのは好きか?」

「……はい」

「それは良かった」


俺は彼女の前にココアを置くと、隣に座る。


「……なんで」

「……?」

「……なんで、何も聞かないんですか?」


震える声で彼女は口を開く。俺は大きく息を吐きながら、天井を眺めた。


「何年か前、両親と妹が死んだんだ」

「え……?」


彼女は驚いたように顔を上げる。


「うちの親戚は酷いもんでな。遺産のおこぼれを預かる為に、言っちゃいけないような事も沢山言って、今思いだしても、そりゃ目に余るもんだった」


「両親は資産家だったからな」と付け加えれば、彼女は少しだけ複雑そうな表情を浮かべる。


目を細め、当時を思い出す。あの時の孤独が、じんわりと胸に広がっていく。


「信じていたもんが、全て砕けたようだった。人間って、ここまで醜くなれるもんなんだなって思った」

「っ……」

「でもな、そんな時、じいちゃんだけは何も言わずに寄り添ってくれたんだ。それが何より嬉しかった」


俺は文乃さんにニコリと笑いかける。


「思うに、あの時の俺は誰かに寄りかかりたかったんだと思う。……今の文乃さんみたいに」


そう言うと、彼女の瞳から一滴の涙が零れ落ちる。


「わた、私は、お母さんに見て欲しかったんです」

「……そうか」

「一度でいいから、あの人に褒められたかった」

「愛して、欲しかったんだな」

「っ……はい」


そこまで言ったところで、彼女は堰を切ったように大粒の涙を何度も何度も溢す。


「頑張ってきたんだな」


まるで子供みたいに泣きじゃくる文乃さんに、俺は優しくその肩を抱き寄せ、あやすように頭を撫でる。


今日、何故連れて帰って来たのかが分かった。孤独の中、いくら努力を続けても心無い言葉を掛けられ続けたあの日の自分と、切に重なったのだ。


文乃さんはどこか違う人だと思っていた。けれど、同じだったのだ。俺と同じ、普通の人間だった。壊れてしまいそうなほど強く、消えることのない不安が常に付きまとっていたあの日の自分と、何も変わらない。


「……もう大丈夫です」


しばらくした後、少し恥ずかしそうに顔を上げる文乃さんから、俺はそっと手を放す。


「落ち着いたか?」

「はい、ありがとうございました」


そう言って、彼女は少しだけ遠くを見つめる。


「聞いても面白くないですけど、少しだけ、昔の話をしてもいいですか?」

「ああ」

「ありがとうございます」


ニコリと微笑んで、彼女は口を開く。


「私の母は、恋多き人だったんです。いつも、色んな男の人を追いかけていました」

「……ああ」

「私が学校に行けたのも、当時付き合っていた人が望んだことだったんです。だから、母も渋々でしたけど、行かせてくれました」

「…………」

「中学の頃、陸上部に居たんです。大会とかにも沢山出てて、少しでも母にとっての


自慢でありたいと、そう願っていました」


「……ああ」

「でも、ダメだったんです。ある時、大会の帰りに、母に言われたんです。余計な事はするな、私を煩わせるなって。……後から知りました。私が優秀な成績を残すたびに、学校から連絡が言っていた事。そしてそれが原因で、母の恋愛の邪魔になっていた事」

「昔は優しい人だったんです。でも、私が小学校に上がるくらいの頃に父が蒸発して、その頃から母はおかしくなってしまいました。私は、あの優しかったころに戻ってほしくて、頑張ったんです」


文乃さんは「まあ、ダメだったんですけどね」と自傷気味に笑う。そんな彼女が無性に悲しくて、俺は思わず抱きしめてしまう。


「……水垣君?」

「すまなかった……」


何も知らなかった。何も知らぬまま、何年も壊れるまで努力を続けた彼女に、俺はただ寄りかかり続けた。

一人で立つことが怖くて、暗い道の先に何があるのか分からなくて、彼女の後を追い続けた。愛されたかった人間に、愛を求めてしまった。


「あの時の俺は、弱かったんだ」


そう、あの日の僕は弱かった。貴方が強い人間に見えて、僕には持っていないモノを沢山持っている気がして、憧れと、ほんの少しの恋心を抱いてしまった。


「よく分からないですけど、そんなことないです。だから、大丈夫ですよ」


涙が一滴零れる。その一言で全てが許された気がした。貴方の心に、ほんの少しだけ触れられたような気がした。


「……文乃さん」

「はい、なんですか?」

「貴方が好きです。……心から愛しています」


トクリと緩やかに心臓が鼓動する。その瞬間、耳元で大きく息を吸う音が聞こえた。


「っ……はい。私も、愛しています」


ココアの甘い香りが部屋の中を揺蕩う。

全てを失い続けた人生の中で、僕の心が報われる音が聞こえた。

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あの日の青春をもう一度 Ramune @Ramune243

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