第29話

今日は朝から曇天だった。昨日の文乃さんの表情もあって、気分がすぐれなかった。

朝の通学路、文乃さんの姿は見えない。

教室についてしばらくして、朝練を終えた生徒たちと共に彼女は姿を現す。昨日と同様、彼女の表情は少しだけ暗い。視線が合えば笑いかけてはくれるが、その笑みもどこか覇気が無かった。


「元気がないみたいだが、どうしたんだ?」


昼休み、二人きりの用務員室で俺は文乃さんに意を決して尋ねる。


「なんでもないですよ」

「……そうか」


気のせいだったのだろうか。でも、やはりいつも二人で居る時よりも、元気がない気がする。言ってしまえば、いつも見る砕けた笑みが少なくて、教室で見るような作られた笑みが多い気がした。


それはまるで、何かから自分を守っているようで、見ていて苦しさと、どこか寂しさを思わせた。


「……なら、いいんだ」

「……ええ」

「相談にはいつでも乗る」

「っ……。ありがとうございます」


彼女は一瞬苦しそうに口を歪ませて、それからにこりと作り笑いを浮かべる。その姿は、どこか見覚えがあった気がした。


そうだ。一番最初に出会った頃、彼女はよくそんな表情を浮かべていた。きっとあの日、スマホの画面に映った通知の中に、彼女が変わってしまった原因があるのだ。


いつもなら弾む会話も、今日は平坦だった。少し話しては、重苦しい沈黙が二人の間を包む。それがどうにも嫌で、俺は今日一日、沈んだ気持ちがぬぐえなかった。



用事があるので、今日は帰ります。放課後、文乃さんからか届いた通知をスマホで見ながら、俺は小さくため息を吐く。


気が散って、本もうまく読めなかった。文乃さんのことが気になる。だが、俺は物語の主人公のような、その一歩を踏み込む勇気も無い。どうしても、怖かった。嫌われるのが怖い。そう、思ってしまう。


「……今日は帰ろう」


本を閉じると、荷物をまとめる。下駄箱に着いたところで、俺はふいに先日の夢を思い出した。紅葉の中で踊る文乃さんの夢だ。


あの場所は憶えている。今は季節ではないが、不意に行ってみたくなった。そうと決まればと言うべきか、俺は家とはやや反対側へと歩き出す。信号を渡り、公園を抜け、人気のない住宅街へ。


「確かこの辺だったか……?」


住宅街をうろうろしていると、唐突に女性の声が響く。その声には、嫌悪と言うべきか、憎悪に近い感情が込められていた。


「あんたがいるからこんなことになったのよ」


俺は興味本位から、曲がり角の先から聞こえる声の先へと顔を出し、その瞬間固まる。そこにいたのは、三十代くらいだろうか。遠めなので分からないが、比較的に若く見える女性と、もう一人、文乃さんがそこにはいた。


「あんたさえいなければ、ケンちゃんは今頃私のものになってたのに‼」


バチンと乾いた音が響く。文乃さんが叩かれたという事を理解するのに、そう時間はかからなかった。


「ガキのくせに色目なんか使いやがって。あんたなんて生まなきゃよかったわ」


女性はそう吐き捨てると、すたすたと去って行く。文乃さんはその場にふらっと座り込むと、肩を震わせて泣いていた。


ズキリと胸が痛みを上げる。怒りと悲しみで身体が震えた。彼女には笑顔がよく似合う。だから、そんな顔は見たくない。


俺は彼女の前まで歩くと、文乃さんはゆっくりと涙で濡れた顔を上げる。


「なん、で……」


掠れた声だった。まるで子供みたいに不安を滲ませた、そんな色をしていた。


「帰ろう」


俺は彼女にゆっくりと手を差し伸べる。文乃さんは躊躇いがちに手を取ると静かに立ち上がる。

俺は彼女の手を引いて、歩き出す。

彼女の歩調に合わせるみたいに、ただゆっくりと。


 ◇ ◇ ◇ 


「あんたなんか生まなきゃよかったわ」


その言葉を言われた瞬間、私の中で何かが壊れた気がした。

幼い頃から母に見てもらいたくて努力してきた。勉強も、部活も、人間関係も、全てに全力を尽くした。でも、ダメだった。


どれだけ努力しても、母からしてみれば目障りだったらしい。なら、もう全てがどうでもよく感じた。胸が痛い。今すぐにでも張り裂けそうだった。


「助けて……。だれか……」


届くことない小さな叫びが、喉の奥から漏れ出る。

もう何も頑張りたくない。もう何も……。

その瞬間、私の視界に影が落ちる。顔を上げてみれば、今一番いて欲しくない人がいた。


「なん、で……」


声が震える。ここに居るはずのない人間。ここに居てはいけない人間。


「帰ろう」


差し伸べられた手を見た瞬間、涙が溢れ出た。


彼はいつだってそうだった。辛くて助けて欲しい時に、何も言わずにただ手を差し伸べてくれる。それがどれだけ嬉しかったか。それにどれだけ助けられたか。


私はコクリと頷くと、ゆっくりと立ちあがる。彼に手を引かれるまま、私は歩く。

滲む視界の中で、水垣君の大きな背中を見ながら幼い子供のように、ただ夢うつつのまま。

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