落下する百円硬貨の謎

らきむぼん/間間闇

落下する百円硬貨の謎


 さて、貯金箱の中で、執筆作業をしたことがあるだろうか?

 いや、応えなくていい。そんな人間はいない。いたとしたらそいつは小人か、それか貯金箱のほうが巨人専用かのどちらかだ。自分が小人だったら、自分が巨人だったら、と無意味な夢想を一度くらいしたことはあるかもしれないが、結論としては小人や巨人になったところで大したメリットはないだろう。時間移動や透明化ができるなんてほうがずっと夢がある。

 さて、貯金箱の中での執筆なんて突飛な経験は僕にはないが、似たような状況であれば、ある。というか、いまだ。たったいま、自宅の和室でデスクトップに向かいながらキーボードを打鍵していると、目の前に百円硬貨が落ちてきたのだ。この状況だけを見たら、このアパートの一室が貯金箱だったとしか思えない。まあ、そんなわけはないのだけれど。

 さて、この現象の不思議を少しばかり考えようと思い、僕は仕事の手を止めた。幸いにして、この仕事は本職のそれではないし、対価が支払われるものでもない。一応締切はあるのだが、それは日付が変わるまでに終わっていればいいものだった。現在時刻は二十三時ジャスト。執筆作業はほぼ完了しており、僕が不意に訪れた謎に向き合うために三十分ばかりサボタージュしても誰も害は被らない。僕は飲みかけの「パイナップル焼きねぎミルク」なるイカれた缶飲料を飲み干して、脳を推理モードに切り替えた。

 さて、ミステリが好きな読者諸君はーーこんなものを読んでいるのはそういうやつだけだーーすでに叙述トリックを疑っているに違いない。あんたはそういうやつ、いわゆる変態だ。活字を読むときに、これは叙述トリックなのではないか? と無駄に脳のリソースを割いてしまう。僕もそうだからわかる。

 叙述トリックを疑うあんたに、僕はなにも潔白を証明できない。「信頼できない語り手」なんて用語もあるくらいだし、人間は誰しも勘違いをする。そんなことに気づかないわけないだろ! というところで盛大に勘違いをする間抜けな語り手もいるものだ。まあ、僕はそんな間抜けとは違うのだが、それでも証明はできない。だから勝手に疑ってくれて構わないが、一応これだけは言っておくとしよう。百円硬貨は正真正銘百円硬貨だ。令和五年ともなると硬貨を使うこと自体が少なくなっているから、あんたの財布の中には入っていないかもしれないが、見慣れた姿だから間違えようもないだろう。四十五年に製造されたらしいそれは、ディスプレイに向けられた僕の血走った眼が映す視界の上から下へと落ちてきた。そしてキーボートのF5あたりにぶつかってカーペットへと落下したのだ。つまりそれは部屋の座椅子に座る僕が真正面に向いたときの視界の上端から天井までの高さから落下してきたということだ。高さの座標は前述したとおりであるが、では縦と横の座標も記しておこう。これは簡単だ、僕は部屋のほぼ中央に座っている。キーボードにぶつかったことからも言えるが、硬貨の落下地点もほぼ部屋の中央と言っていいだろう。

 さて、これが中空に突如現れる可能性はあるだろうか? とりあえず僕の頭が正常ならこれは排除していい可能性だろう。あるとすれば、僕の部屋に何者かがいて、そいつが僕の頭上に向けてそれを放り投げたという線だ。だが、いま僕は一人で部屋にいる。僕には妄想の彼女や、幽霊の彼女がいると思われている節はあるが、今はフリーだ。妄想の彼女とは先週別れたし、幽霊の彼女は僕が食べた塩昆布の塩で成仏した。そもそも、硬貨は真下に落ちており、その軌道で僕の視界に入るためには、僕の六畳間は狭すぎる。放物線の終着点が直下の軌道になるためには、かなり離れた場所から放り投げる必要があるだろう。部屋には窓があるが、それは僕の正面にあり、この部屋に他に窓はない。ちなみにいまは十一月だ。窓は閉まっている。

 では次に、天井から落ちてきたという線だ。これは一番可能性が高い。なぜなら中空でないならもう天井しかないからだ。だがしかし、上を向いてみると、天井にはそれらしい痕跡はない。僕はホラー的現象に巻き込まれやすい体質であると知る者は少なくないから、きっと多くの人間は三行目辺りからすでにこう思っているはずだ。この物語のオチは、天井裏に不審者が隠れ潜んでいる、というものに違いない。だが今回は違う。天井裏に誰かが潜んでいる可能性はなくはないのだが、実はこの部屋の天井には隙間がない。天井裏に誰かがいるにしても、隙間がなければ硬貨を落とすのは不可能だ。天井裏にいるのが郷田三郎ではなく明知小五郎ならば、この状況を解決してくれるかもしれないが、さしもの明智でもこの部屋の天井をぶち抜いて登場してはくれないだろう。

 さあ、議論は尽くされた。この硬貨はどこからやってきたのか? 私は読者諸君に挑戦する。

 …………と言いたいのだが、これが参ったもので本当に真相がわからないときた。僕はここまでの思考をあっけなく放棄して、このどこから現れたかもよくわからない百円硬貨を手に、近所の自販機へ「パイナップル焼きねぎミルク」なるおそらくこの世に僕しか愛飲家のいないレアな缶飲料を買いに部屋を出た。


 徒歩で一分ほどのところにその自販機はある。時刻は二十三時三十四分、こんな時間に自分はなにをしているのか?

 「パイナップル焼きねぎミルク」が買える自販機は、暗がりの中に不気味に並ぶ三つの自販機のうちのひとつだ。百円ちょうどで買える。まあこれが百二十円だったら、わざわざ買いはしなかっただろう。百円だから試したくなる。だが、一度飲むとこれがクセになる。一口飲めば南国の風が口内を吹き抜け、あとから焼きねぎの香ばしさがじわじわと思い出されるように浮上する。「風邪のときに見る夢」という喩えは今日日サムいくらいに使い尽くされた表現だが、「風邪が治りそうな夢」のような味となれば唯一無二だろう。なお、ミルクの味はどういうわけかなにかに打ち消されて消滅する。これがどうにも中毒性があるのだ。

 僕が自販機に硬貨を入れようとすると、手元が狂って硬貨を落としてしまった。バウンドして転がった硬貨を追いかけてひとつ右の自販機の前でそれを拾い上げる。そこに若い女性が通りかかった。目があって、意味なく会釈をしたのだが、なんとも言えない気まずそうな表情を返された。無礼なやつだなと思いつつも僕が向き直ると、目の前には自販機がある。三台ある自販機の一番右のそれはいまどきほぼ見ることのないアレの自販機なのだ。どんな活字でも叙述トリックを疑う変態読者と同じ目で僕を見るこの女性は、僕に対していかがわしい物語を想像したに違いない。まあ、別にアレの自販機でアレを買っても何も悪いことはないのだが。実体のある女が苦手な僕は動揺して更に百円硬貨を落とす。またもやコロコロと転がって、それは気まずそうな女性の前で動きを止めた。

 女性は硬貨を拾い上げると、にこりと笑った。

「え、え、えっと……その……僕に、なにか?」

「いえ、四十年後には幻の『パイナップル焼きねぎミルク』に関する文献はあなたの手記しか残ってなくて…………どうしても飲んでみたかったものですから」

 ………………?? 

 一瞬の間をおいて、僕は全力で走って帰宅した。完全に頭のおかしな女である。全然意味がわからない。

 やはり女性は幻覚や幽霊に限るぜ。


 帰宅して僕は愕然とした、

 執筆していた「短編小説」がほとんど白紙になっているのだ。硬貨が突然現れたと思ったら、執筆データは消滅するとは、一体何事だ……? 僕は思い返す。

「あっ」

 僕は突如現れた硬貨がキーボードのF5に直撃したことを思い出した。それで画面がリロードされて書いていた文章が消滅したのだ。

 この原稿は日付が変わる前に某所に送信するはずの締切ギリギリのものだったのだが……どうしたものか。今から三十分弱で書ける短編小説なんてそう簡単には思いつかない。

 少し考えて、僕は閃いた。むしろ、この百円硬貨を巡る不思議な体験はこのためにあったのではないか? 論理が逆転している気がするが、細かいことは気にしない。細かいツッコミはなしだ、ミステリじゃあるまいし!

 僕は血走った眼でディスプレイを睨みつけながらタイプする。


 さて、貯金箱の中で、執筆作業をしたことがあるだろうか?







あとがき


読了ありがとうございます。

𝕏投稿用に書いた賞編ですが、即興のわりに評判がよかった覚えがあります。

私が即興と言っているときは大抵、何か変なことがあってそれを題材にリアルタイムに書いていることが多い。「AIが不気味な画像吐き出したからそれに合わせて」だろか「昔やってしまったちょっとした失敗を思い出した」とか。

なので、これは実話を元にしています。

目の前に急に百円玉が落ちてきたんですよね。現実世界のこの謎についてはまだ解決していないまま⋯⋯。

世の中には不思議なこともあるもんですね。

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