俺は愛する人を守るため夢を諦めた

春風秋雄

郵便受けに入っていた手紙

久しぶりにアパートに帰ると郵便受けに手紙が入っていた。このアパートに引っ越してきて10年以上になるが、銀行や役所関係からの通知やダイレクトメールの手紙しか来たことがないのに、手書きの手紙が入っていたので驚いた。そして、その差出人を見てもっと驚いた。それは12年前に別れた妻からだった。部屋に入って、封を開ける。手紙を読むにつれて、俺は居てもたってもいられなくなり、今持って帰ったばかりのボストンバッグを持って部屋を出た。


俺の名前は青山繁。音楽業界ではちょっと名の知れたギタリストだ。歌手のレコーディング時のスタジオミュージシャンとして演奏したり、アーティストのLIVEのバックミュージシャンとしても活躍している。昨日までは若者に人気のアーティストのツアーにサポートミュージシャンとして帯同していて、2週間ぶりに自分のアパートに帰ってきたところだった。37歳の俺は、22歳のときに一度結婚した。それが手紙の主、菜月だった。菜月と結婚してすぐに一人娘の玲羅(れいら)が生まれた。名前はもちろんエリック・クラプトンの名曲「レイラ」からとった。俺はあの曲のギターが大好きだった。しかし、幸せな日々は長く続かなかった。結婚して4年ほどで菜月と離婚した。玲羅は菜月が連れて行き、それ以来、菜月にも玲羅にも会っていない。


俺が菜月と出会ったのは、俺がまだギタリストとして売れていない時代だった。菜月はファンの女の子だった。俺のギターが好きだと言って、俺が出るステージの予定を聞きつけて、度々客席に現れた。ある日、ステージが終るとその女性が近寄って来て、次のスケジュールが決まったら教えて欲しいと言われ連絡先が書いてあるメモをもらった。名前が書いてあり、奥原菜月という名前だった。確かに俺はSNSなどで発信していないので、俺のスケジュールを把握するのは容易ではないだろう。そこまでして来ようとしてくれる気持ちが嬉しくて、俺はスケジュールが決まると、菜月さんにメールするようになった。

俺は学生時代にバンドを組んでいた。真剣にプロになろうとしていた。ところが大学4年生になると、メンバーは就活でバンド練習に来なくなった。俺が就活なんかしないでプロを目指そうと言うと、そんなの無理に決まっていると言って相手にされなかった。たまたまライブハウスで俺たちのバンドの演奏を見ていた、あるバンドのミュージシャンから、自分のバンドのギタリストがケガでしばらくステージに立てないので、ヘルプでギターを担当してくれないかと頼まれ、俺はそのバンドと一緒にLIVEのステージに立った。すると、そのLIVEを見ていた関係者の口コミで、サポートのギタリストとして声がかかるようになった。俺はこのままバンドは組まず、ギタリストとしてやっていこうと決心した。そして、大学を卒業してすぐに、すでにメジャーデビューしているバンドから声がかかり、全国6か所のツアーに帯同する話がきた。俺は嬉しくて菜月さんに報告した。すると、土曜の夜に行われた大阪のLIVEに菜月さんは来てくれていた。ステージが終りスマホを見ると、菜月さんから「素敵なステージでした」とメッセージが入っていた。俺は慌てて菜月さんに電話した。

「大阪まで来てくれていたの?」

「明日は仕事休みだから来ちゃった」

「食事まだでしょ?一緒に食事しようか?」

「本当?いいの?」

「バンドのメンバーには知り合いと食事すると言えば大丈夫だから」

そう言って、俺はバンドメンバーに断って菜月さんと合流した。大阪と言えばお好み焼きだろうと思って、東京でも名前が知れているお好み焼き屋に入った。その頃の俺には、高級な店に連れて行く経済的余裕はなかった。

「まさか大阪まで来てくれるとは思わなかったよ」

「東京の公演の日は予定が入っていて行けなくて、地方公演は土日で行くしかないので、唯一大阪公演が土曜日だったから来ちゃった」

「菜月さんは、何の仕事をしているの?」

「歯科衛生士。うちの病院はオフィス街にあるので、土曜日は休みなの」

よくよく話を聞いてみると、菜月さんは俺より2つ年上の24歳だった。洋楽に詳しく、様々なギタリストの話で盛り上がった。

「繁くんは、K大を出ているの?」

「この道でやって行こうと思っているから、学歴なんかどうでもいいので卒業する気はなかったんだけど、親からお金を出してもらっている手前、卒業証書だけは親に見せておこうかなと思って、最後は必死で単位をとったよ」

菜月さんは俺の卒業大学を聞いて驚いていた。そりゃぁ、そうだろう。普通なら一流企業に入れる学歴だ。それをこんな売れないギタリストをやっているのだから。

菜月さんがチェックインしているホテルは俺たちが宿泊しているホテルから近かった。菜月さんをホテルまで送ってから俺は自分のホテルに帰ることにした。

「じゃあ、今日はわざわざ大阪まで来てもらって、ありがとう」

菜月さんのホテルの前でそう言って帰ろうとすると、菜月さんが俺の手を掴んだ。

「部屋にあがっていかない?」

菜月さんの瞳が潤んでいるのは、お酒の酔いのせいだけではなさそうだった。


東京に戻ってから、俺は菜月さんと頻繁に会うようになった。ギタリストとしての仕事は、まだ実績がないので、それほどギャラはもらえない。生活もギリギリだった。家賃も払えない月もあり、たまに短期のバイトもしていた。

だから菜月さんの部屋で夕食をご馳走になる機会がたびたびあった。

「ねえ、ここに一緒に住まない?そうすれば家賃の分、お金を心配しなくていいでしょ?食事は私が作るし、繁は仕事に専念できるじゃない。私そこそこ稼いでいるから、繁が売れっ子のギタリストになるまで養ってあげるよ」

菜月からの提案は魅力的だった。経済的なこともあるが、何より家に帰れば菜月がいるという生活がとても魅力的だった。

俺が引っ越してきて、菜月は俺の荷物の多さに驚いていた。ギターだけで4本ある。そのうち1本は学生時代にアルバイトをしたお金で買った40万円もするギブソンのレスポールだ。あとエフェクターだとかアンプだとか、ギターの機材だけでもかなりの荷物だ。それに加え、ステージで着る衣装だとか、諸々で、菜月の部屋は急に狭くなった。

仕事は順調とは言えなかった。毎月何らかの仕事の声はかかるが、それほど売れていないバンドのサポートばかりで、たいしたギャラはもらえない。何とかしなければ、いつまでも菜月に養ってもらうわけにはいかない。そんな焦りを感じていた頃、菜月が妊娠した。嬉しかった。俺と菜月の子供が出来る。今までの人生の中で、一番の喜びだった。

「菜月、結婚しよう。ダイヤの指輪もあげられないし、式をあげる余裕もないけど、ちゃんと籍を入れて、生まれてくる子供の親として、俺頑張るから」

菜月は俺に抱きついていつまでも泣いていた。

産まれてきた子供は女の子だった。玲羅と名付けた。目に入れても痛くないとは、このことだなと俺は実感した。玲羅のためにも頑張らないと、と思ったが、相変わらず仕事はパッとしない。そんな時、あるベテランのミュージシャンから言われた。

「青山君のギターは独特な音色で、とても魅力があるけど、ミストーンが多いからね。LIVEでは他の楽器の音でごまかされているけど、聞いている人は聞いているから、なかなかメジャーなバンドでは使ってもらえないよ」

ミストーン、つまり弾き間違いが多いということだ。譜面はちゃんと頭に入っているのに、指がついていかないということだ。それもこれも、練習不足としか言いようがない。確かに菜月と一緒に暮らすようになってからは練習時間が減っている。子供が生まれてからはなおさらだ。ひとりで暮らしていた時は、気が付けば朝まで練習していたということはザラだった。しかし、いくらスピーカーで音を出さずヘッドフォンで聞いているからと言っても、弦を弾く音は聞こえる。家族が寝ている狭い部屋で朝まで練習するなんてことはできない。

詳しくは教えてくれないが、子供が産まれて、菜月の収入がガタッと減ったようだ。菜月は本来1年間の育児休業をとりたかったが、病院のスタッフの状況を考えるととてもそんな余裕はない。仕方ないので、玲羅は託児所に預け、時短勤務にしてもらったそうだ。時短勤務で給料は減るのに、託児所のお金も要る。俺の収入は相変わらずなので、生活が厳しくなっていることは明らかだ。そのうち菜月の顔に疲れが見え始めた。育児と仕事と家事、大変なのだろう。俺も出来ることは手伝っているつもりだが、ツアーに帯同すれば何日も家を空けることになる。このままでいいのだろうか。俺はそんなことを考えながら結論が出ないまま1年が過ぎた頃だった。いきなり菜月が倒れた。疲れが出たのだろう。何かのウィルス感染をしているということで、検査などで1週間の入院となった。その間玲羅の面倒は俺がみることになる。俺もけっこう育児を手伝っていたつもりだったが、いざ一人でやってみるとわからないことだらけだった。今はたまたま仕事が入っていない時期だったので良かったが、ツアーに帯同している期間だったらどうなっていただろう。俺は真剣に考えなければいけないと思った。

菜月が退院してから、俺は全ての仕事を断り、菜月には何も言わず就活を始めた。何社か面接して、ほとんど残業がないという運送会社の事務に採用をもらった。家に帰って菜月に話すと、カンカンになって怒った。

「どうして勝手にそんなこと決めるの!」

「これからのことを考えたら、こうすることが一番いいと思うよ」

「ギターはどうするのよ」

「俺にはプロで稼ぐほどの才能はなかったんだよ。これからは趣味でやっていくよ」

「私は、繁のギターが好きだった。繁が奏でる音色が好きだった。だから、ずっと頑張ってほしかった」

菜月はそう言いながら泣き出した。しかし、菜月自身もわかっているはずだ。こうするしか、玲羅を抱えて生活していくことは難しいってことを。

俺は踏ん切りをつけるために、4本のギターを売りに行こうとした。

「ギターをどうするの?」

菜月が聞いてきた。

「もう弾かないから売りに行こうと思って」

「これだけはダメ!これだけは絶対に手放さないで!」

菜月はそう言って40万円で買ったレスポールを抱え込んで離さなかった。俺は、それが一番高く売れるのにと思いながらも、心のどこかに手放したくないと言う気持ちもあったのだろう、素直に菜月に従った。


会社勤めを始めて、平穏な日々が続いた。面接時に言われたとおり、残業は殆どなかった。給料はそれほど良くないが、玲羅と一緒にいられる時間がとれることは何にも代えがたい。そんな日々が1年くらい過ぎた頃に、俺は心の中に緩みが出た。会社の飲み会に誘われ、皆で飲んでいると、短期のアルバイトに来ていた女子大生の亜由美ちゃんが俺のそばにやって来た。

「青山さんって、ギタリストだった青山繁さんですよね?」

「俺のこと知っているの?」

「私の好きだったバンドのLIVEで青山さんがギターを弾いていて、カッコいいギタリストだなと思っていたんです」

それから亜由美ちゃんと話が盛り上がり、酔った勢いでホテルへ行ってしまった。浮気なんか初めてだった。亜由美ちゃんが可愛いかったということもあるが、俺のギターを認めてくれたということが一番嬉しかった。亜由美ちゃんとはその後も何回か逢瀬した。ただ、浮気に慣れていない俺はかなり不用心だった。ある日、風呂から上がると、菜月が怖い顔で俺を睨みつけた。そして菜月の目の前には俺のスマホが置かれていた。

「これはどういうこと?」

どうやら俺が風呂に入っている間に亜由美ちゃんからメッセージが入ったようで、普段から俺はスマホにロックをかけないので、そのメッセージを菜月が見てしまったようだ。メッセージを遡って見れば亜由美ちゃんとどういう関係なのかは一目瞭然だ。俺は色々言い訳したうえで、とにかく誠心誠意謝った。しかし、菜月は許してくれなかった。

「離婚しましょう」

「離婚?」

「もう繁とは一緒に暮らせない。玲羅は私が連れて行きます」

「ちょっと待ってよ。ちゃんと話し合おうよ」

「それは裁判でですか?言っておきますけど、不貞行為は立派な離婚事由です。裁判になっても繁に勝ち目はないですからね」

俺は大変なことをしてしまったと思ったが、後の祭りだ。菜月のこんな頑なな態度は初めてだった。それほど怒らせてしまったということだろう。それからの菜月の行動は早かった。実家がある栃木県の宇都宮市にアパートを借りて、荷物を運び出した。すでに地元の歯科医院に就職も決めているようだった。そしてご丁寧に、俺のためにアパートを借りて、そこに俺の荷物を移し、住んでいたマンションは解約した。これは二度とここには戻らないという意思表示なのだろう。俺が住むアパートを借りた敷金などは菜月がすべて出した。菜月いわく「財産分与」だということだった。


菜月も玲羅もいない部屋にひとりでいると、寂しくて寂しくて仕方なかった。亜由美ちゃんからはアルバイトを辞めてからも何回か誘いの連絡があったが、会う気になれなかった。ひとりになって3か月ほど経った休みの日の夜。何もすることがなく、寂しくて、しばらく弾いていなかったレスポールをケースから取り出した。本当は大音量で掻き鳴らしたかったが、さすがに近所迷惑になるのでヘッドフォンをつけた。玲羅のことを思い、クラプトンの「レイラ」のイントロを弾く。指が動かない。何度も何度も最初からやり直す。次第に指が動き出した。すると、もう指は止まらなかった。次から次へと知っている曲を弾きまくる。指が痛い。まるでその痛さが自分の犯した罪への罰だと言うように、俺は痛さを嚙みしめながら弾き続けた。気が付くと外は明るくなり始めていた。

翌日俺は会社に退職願いを出した。もう俺には守らなければいけない人はいない。


菜月からの手紙には、病気で入院していると書いてある。話したいことがあるので、なるべく早く病院まで来てほしいということだった。その内容を読む限り、悪い予感しかしない。

病院の場所は宇都宮ではなく那須烏山市と書いてあった。東京駅から新幹線で宇都宮まで行き、そこから烏山線に乗り換えて烏山駅で降りた。駅からタクシーで病院へ行き、青山菜月への面会を申し込む。菜月は離婚しても奥原の姓に戻さず、青山の姓のままだった。看護師に案内されて行った病室は無菌室だった。部屋の前で荷物と上着をロッカーに入れ、手洗いをした上でマスクをし、防護服とキャップ、そして手袋の着用をするよう指示された。菜月は一体何の病気なのだ?俺は中に入るのが怖くなった。

恐る恐るドアを開け、中に入る。物音ひとつしない静寂な部屋だった。ベッドに菜月が横たわっているのが見えた。俺はベッドの横に置いてある椅子に座った。菜月は目を閉じて寝ている。12年ぶりに見る菜月の顔に、懐かしさと愛しさで胸が締め付けられるようだった。しかし、その顔はとてもやつれているように見えた。起こすのが可哀そうだと思ったが、面会時間は10分と言われている。俺は菜月に声をかけた。

「菜月、俺だよ。繁だよ」

菜月が目を開けた。こちらを見る。

「繁、来てくれたんだ」

「いったいどうしたの?」

「白血病だって。私らしいオシャレな病気でしょ?」

「何言っているんだよ」

「それでね、繁に預かっておいてほしいものがあるの」

菜月はそう言って引き出しから通帳と印鑑を取り出した。

「これを渡しておくから、私に何かあったら玲羅のことをお願い」

通帳の名義は青山玲羅になっていた。開くと500万円近いお金が入っていた。

「何かあったらって、治るんだろ?」

「さあ、どうなんだろう?この病気の5年相対生存率は44%だからね。私がその44%に入れるのかどうかは、神様しかわからないと思うよ」

「なあ、頑張って生きてくれよ。玲羅のためにも、そして俺のためにも」

「繁のため?」

「あの時は、本当に悪かったと思っている。なんて取り返しのつかないことをしたのだろうって、ずっと後悔していたんだ」

「それは浮気のことを言っているの?」

「もちろんそうだよ」

「そうかあ、いまだに気にしてたんだ。もういいよ。私は気にしてないから」

「本当か?だったら、病気を治して、俺たちもう一度やり直さないか?」

菜月は何も答えなかった。ジッと天井を見たままだった。しばらくそうしていると、看護師さんが時間です、そろそろ退出お願いしますと呼びに来た。仕方なく立ち上がると、菜月がか細い声で言った。

「玲羅のこと、お願いね」

「わかった。でも、絶対病気を直せよ」

俺はそう言って部屋を出て行った。


病院の出口に向かっていると、向こうから中学生くらいの女の子が歩いてきた。すれ違う寸前に、その女の子が俺の顔を見て言った。

「パパ?」

え?っと俺はその子を見た。

「パパだ。パパでしょ?」

「玲羅か?」

「そう、玲羅」

俺が最後に見た玲羅は2歳だった。そうか、もう14歳になっているんだった。

「よくパパだとわかったね?」

「だって、小さいときから毎日のようにDVDを観させられているんだもん」

DVD?何のDVD?

俺は玲羅を誘って院内の喫茶室に入った。

「DVDって、何のDVDを観ていたの?」

「パパがギターを弾いているDVD。パパが参加した色んなアーティストのライブDVDをママが買ってきて、何回も何回も観るの。ギターソロでパパがアップになると、わざわざ一時停止して、玲羅見て、これが玲羅のパパだよって何回も言うの。だから会ったこともないのに、パパの顔を覚えちゃった」

菜月が、俺が演奏しているDVDを買い集めているなんて思いもしなかった。

「ママは、本当にパパのことが好きなんだね。どうして離婚したのって聞くと、ママと玲羅がパパのそばにいると、パパはギターを弾くことができないからだって。ママはパパのこと好きだけど、パパが弾くギターが本当に好きだから、パパにはギターを弾かせてあげたいんだって言ってた。だからママと玲羅はパパのそばにいてはいけないのって言うの。私には全然意味がわからないけどね」

俺は思わず涙が出そうだった。菜月は俺の浮気を口実に、俺にギターをやらせるために離婚したのか。

「玲羅、ママの病気が治ったら、ママと玲羅とパパの3人で暮らさないか?パパはもうママと玲羅がそばにいてもギターを弾くことができるから」

「私はどっちでもいいよ。でも、パパと一緒に住むってことは、東京に住むということ?東京には住んでみたいかも」


俺はその日は宇都宮のホテルに泊まって、翌日もう一度菜月に会いに行った。

「どうしたの?」

「昨日玲羅に会った」

「そうみたいね」

「俺が参加したLIVEのDVDをずっと見せていたんだって?」

菜月は何も返事をしない。

「菜月のおかげで、俺は今ではちょっとした売れっ子のギタリストになれたよ。収入もそこそこある」

俺はワンステージでのギャラの金額を教えた。

「そんなにもらえるの?」

「あの頃と違って、ギターだけで菜月も玲羅も充分養っていける。だから、病気が治ったら東京で一緒に暮らさないか」

菜月はしばらく俺の顔を見たまま何も言わなかった。そして、おもむろに俺から視線を外し、窓の外を見ながら口を開いた。

「繁がまたギターを弾いてくれて嬉しかった。繁と一緒にいられないことは辛かったけど、繁がまたギターを弾き始めたと知った時は、嬉しくて、嬉しくて泣いちゃった」

「菜月・・・」

「私が繁のギターが好きだから、繁にはギターを弾いて欲しかったから、そんな私のわがままで玲羅には父親のいない人生を歩ませてしまった。あの子には本当に申し訳ないと思っている」

「再婚しようとは思わなかったのか?」

「まったく思わなかった。私の旦那さんは生涯繁ひとり。だから青山の苗字は替えたくなかった」

「俺も菜月が生涯の妻だと思って、あれ以来彼女すら作らなかった。おかげで業界では俺は男にしか興味がないのではないかと噂になったほどだ」

菜月が微かに笑った。

「一緒に暮らしても、ギターはやめない?」

「ギターを弾かない青山繁には興味ないんだろ?」

「興味ないとは言わないけど、興味半減かな。もうこんなオバサンになっているのにいいの?」

「可愛いオバサンになっているよ。俺もオジサンだけどな」


菜月の治療は半年以上かかった。それでも何とか退院してくれた。抗がん剤治療は相当辛かったそうだが、俺は休みのたびに病院へ行って励ました。菜月も、もう一度俺と暮らすまでは何が何でも頑張ると言ってくれた。

その間に俺は家を買った。中古だがまだ新しい4LDKの良い物件があった。そして、一部屋を改装して防音設備を整えいつでもギターが弾ける練習部屋にした。

退院して玲羅を連れて菜月が新しい家に来た。家の中を順番に案内して、俺の練習部屋に入るなり玲羅が言った。

「ねえパパ、レイラを弾いて。クラプトンのレイラはCDで何度も聞いているけど、パパの弾くレイラを聞いてみたい」

俺はレスポールをケースから取り出し、アンプに繋いだ。リズムマシンでリズムを刻ませながらレイラのイントロを弾き始める。

部屋の隅の椅子に座っている菜月が嬉しそうに聞き入っている。その顔はまだ俺が売れていない時代に小さなライブハウスの客席でジッと俺の演奏を見つめていた時の顔のままだった。菜月は玲羅の肩を抱き、その満足そうな笑顔のまま、そっと目元を拭った。

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