ブレスドレイン

宇宙くじら

第11施設での記録

ああ、これは夢だ。

広がる草原の向こうに、果てしない青い空。柔らかな風が頬を撫で、耳には鳥たちのさえずりが響く。血に濡れて泣くこともなく、人々は笑顔を交わし、飢えと苦痛で苦しまずに、誰もが楽しそうに食事をする、そんな穏やかな時を刻んでいた。

ここには、ーーー争いーーー苦しみーーー悲しみーーーもない。人が捨て去りたい負の感情も出来事も存在しない。ただ、温かな陽射しがすべてを包み込んでいるだけだ。


ピピピピピピピピピ


目を開けると、現実の世界が戻ってくる。腕時計のアラームを切る。

夢の中で感じたあのぬくもりも、笑顔も、現実にはどこにもない。まるで、世界の奥底に隠された秘密の場所のように。自分が知らないだけで、この世界の何処かにはあるかもしれない。それを見つける方法はまだないけど。

硬いベッドから起きあがり、机に置かれた制服に着替える。初めて着る制服なのに、昔から着慣れているように馴染む感覚に、苦笑した。


それはきっと、心の中で「こうあってほしい」と願う小さな祈りなのだろう。


これから手に入れにいくんだ。誰も知らない、絵本のページにだけ存在する、そんな現実味のない話を現実にするために、ライは今日まで与えられた部屋を出た。


ライが指定された部屋の前まで歩を進めると、そこには機械人『コープ』が立っていた。

頭部はまるで古いブラウン管テレビのような形をしており、その画面には笑ったように見える記号が鮮明に表示されている。この体の構造は驚くほど人間に近く、金属のフレームに覆われた手足の動きも自然で、まるで血肉の通った存在のようだ。

ライはその姿に少し驚きながらも、軽く会釈をして、手を差し出した。

「ライ様ですね。お待ちしておりました」

柔らかな電子音で、礼儀正しく言葉を発したが、ライの手が取られることはなかった。恐らく、このコープには『握手』が学習されていないのだろう。

ライは少しがっかりしたが、気をとりなおして、コープを観察する。彼からは、仕草や声には不思議な温かみがあり、単なる機械というよりも、むしろ生き物のような印象を受けて、思わず微笑んだ。

「ありがとう。案内をお願いできますか?」

「もちろんです。この先で、博士もお待ちいただいております」

コープはその場で軽く頭を下げると、滑らかな動きで先導を始めた。本当に、まるでただの機械ではない。そう感じさせるほどに、動きや振る舞いのひとつひとつが洗練され、どこか人間味を感じさせた。

ライの心には、次第に興味と安心感が芽生えていくが、頭を振って部屋の中に入った。


部屋の扉が静かに閉まると、ライの視界に飛び込んできたのは、まるで第6施設にあるような司令室のような光景で思わず足を止めた。

部屋の中心には、円環を描くように配置されたドーナッツ状の机。その外側には椅子が一脚だけ置かれており、まるで部屋全体がその椅子を中心に設計されたかのようだった。

椅子の隣には一人の少女が立っていた。金色の髪が肩のあたりで揺れ、視線をこちらに向けた蒼の瞳が、まるで光を湛えているように輝いている。ライの腰ほどしかない小柄なその姿に、思わず戸惑いを覚える。だが、次の瞬間、彼女が噂に聞いていた『例の子供』だと悟った。

「君は…」

声を掛けようとライが口を開いたその刹那、机の縁に配置されたモニターが突然起動した。明るい光と共に映し出されたのは、顔の判別が難しいぼやけた映像だった。誰かが確かに画面越しにこちらを見ている。残念だが、その正体を明確にすることはできない。

「ライ君か。ようこそ、第11施設へ」

機械音声とも、どこか肉声とも取れる声が、モニターから流れた。その声は感情を感じないように思える一方、どこか圧倒的な存在感を感じさせる。

ライは無意識に姿勢を正しながら、モニター越しの存在に視線を向けた。

「はい…あの、アーリン博士ですか?」

その問いに、モニターの映像は一瞬静止したように見えた。電波が悪いのか、それとも違う人なのだろうか。少女がその隣で何も言わずじっと立っていることに気づき、彼の胸に小さな不安が芽生えた。部屋の中に漂う緊張感に息を飲む。

「ああ、よく分かったね。なら話は早いか」

ライは、モニター越しに聞こえる声色に少しだけ気を緩めた。嬉しそうな、どこか温かさを感じさせる声。それだけで、胸の中にあった警戒心が少しずつほぐれていく。映像の悪さが依然として気になるものの、その声には、しばしば機械的な冷徹さを超えた人間らしさが宿っているように感じられた。ライはそれを頼りに、もう少し会話を続けたくなった。

だが、その時、室内の別の扉が突然開く音が響いた。ガシャンという金属的な音が、静かな空間に反響する。ライは瞬時にその音に反応し、そちらへと視線を向けた。

「すまないが、時間もない。試運転を開始する。詳しい話は後でしよう。さあ、転送装置を使って成果を見せてくれ」

ライは扉の向こうに見えたものに、一瞬、冷や汗を感じた。それは事前に渡された資料にも記されていた塔への転送装置だ。まさか、まだ何も話していない少女と、いきなり戦闘に突入するのだろうか。混乱した頭の中で、ライはその状況を整理しようと必死だった。

しかし、そんなライを待つことはなく、少女は無言でその扉の向こうへと消えていった。静かな足音が響く中、ライははっと扉の方へ手を伸ばす。

「待って!」

ライは声を振り絞ったが、その声は空気を切り裂くように消えていき、誰の耳にも届くことはなかった。誰にも届かなかった手を笑うかのように、モニターには、少女が転送される瞬間の映像が鮮明に映し出されていた。

その映像のクオリティは、先ほどのようにぼやけてはいない。まるで、実際にその場で見ているかのように、ありありと映し出された。ライはその違いに一瞬戸惑うも、すぐに気持ちを切り替えた。ぼんやりして、彼女を殺すわけにはいかない。その決意は揺るがなかった。

ライは素早く椅子に座り込むと、キーボードに手を置いた。彼は迷わず情報を表示させるために必要なキーを叩き、画面に次々とデータを呼び起こしていった。

指先がキーボードを叩く音だけが、部屋の静寂の中に響いた。

画面には、少女の転送先に関する情報が急速に流れ込んできた。それを流すように読んで、頭に叩きつける。どんな危険が待ち受けているのか、ライはそれを追い求めながら、冷静に次の行動を考えるのだった。

モニターには、黒いモヤのような不明な存在が映し出されている。その形はぼやけていて、はっきりとは確認できないが、ライにはすぐに感じ取れるものがあった。それは、眷族のようなものではないという直感だった。眷族であれば、もっと明確な特徴や形があるはずだ。しかし、この黒いモヤはそれとは違う。

ライは瞬時に、上手く立ち回れば彼女を生きてこちらに帰ってこれるかもしれない。

彼女のような存在は使い捨てだ。だから名前もない、生存番号しか割り振られないから、会話といったコミュニケーションをとる必要がないとされていた。

果たしてそれは正しいのか。ライはずっと考えていた。今だに答えは出ないが、何かいけないような気がしていた。







だが、今は考えている余裕はない。彼女を帰すためには、まずはモヤの正体と、その周囲に潜む危険を見極める必要がある。博士の思惑は分からない。いったい何を考えて、こんな状況に導いたのか。

ライは、再び周囲に目を凝らす。ガタッという音が響き、突然、彼女が持っていた槍のような武器が何かを突き刺す。何もないところで槍を振り回しているが、何が見えているのか。

深呼吸を一つし、ヘッドフォンを耳にしっかりと装着した。

彼女と機械はリンクしている。こちらが持っている情報と向こうが持っている情報は、常にリアルタイムで共有されているから、指示さえ出せれば、大きな問題にはならない。ただし、指示が間違ってなければの話だ。

まず冷静に状況を分析し、彼女に対して何をさせるべきか、どのように動かすべきか、その決断が急を要する。モニターに映し出された情報を一つ一つ確認しながら、彼は素早く指示を練り上げる。

「距離をとれ。モヤに近づかないように」

指示を出そうとした時、ライの頭にふと浮かんだのは、少女にはまだ名前がないということだった。

その事実が突然、彼の心を重くし、無意識に手で頭を押さえてしまう。名前もない、ただの――それだけで済ませてしまうわけにはいかないのだろうか。だが、その思いも束の間、ライは我に返る。今は、そんなことを考えている暇はない。目の前には、未知の脅威が存在している。彼女を守り、無事に帰還させるためには、冷静に状況を見極め、迅速に行動しなければならない。

周囲を再度スキャンして、状況をさらに詳しく分析し始めた。少女に何をさせるかの選択肢がいくつも浮かび上がるが、何よりも重要なのは、まずは安全な距離を確保することだ。モヤの正体が何であれ、直接対峙するのは避けるべきだと感じていた。

必要なデータが次々と集まり、ライはその中から一つ一つの情報をピックアップし、最も効果的な行動を選び取っていく。やはり、何かがいる。モヤの正体、そしてそれに絡む何者かの存在が、ライの直感を刺激していた。

ライの心は緊張の中で一瞬、解けた。モニターには何も映っていないが、彼の直感は確かだった。「何かがいる」と感じ取ったその瞬間、彼は少女に指示を出した。

「そこに槍を叩きつけろ。」

指示を受けた少女は、迷うことなく槍を振り下ろした。その瞬間、空気が震えるような音と共に、バリンと何かが砕け散る音が響いた。目に見えるものはないが、音が物体の存在を確信させる。透明で、光に反射すると虹色に光る何かが見えた。

その瞬間、ライの心の中で少しだけ安堵の息が漏れた。何かを破壊したその跡には、確かに存在があった。だが、それがどんなものであれ、今はとにかく状況を収束させることが最優先だ。

少女は、砕け散った何かを慎重に回収し、帰還のための転送が開始された。その様子に、ライは安堵の表情を浮かべる。

良かった、何事もなく終わって。帰ってきたら労い、そして話をしよう。名前も、これからのことも。静かな期待がライの胸に広がり、モニターを見つめる目がどこか穏やかになった。

出迎えるためにライは立ち上がって、彼女が転送される部屋に向かった。


これからも上手くいくこと願って、遠い話だとわかっていても――それでも、夢が現実になることを祈った。

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ブレスドレイン 宇宙くじら @surya1129

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