はじまりの日

 一人の少女が、男に手を引かれながら馬車から降りた。

 赤茶けた髪はろくに手入れをしていないのか煤で鈍くくすみ乱雑に切りそろえられている。着ているものはかろうじてワンピースの体をなしているぼろ切れ同然。その袖から伸びる痩せた腕は深窓の令嬢令息ではありえない良く言えば健康的、悪く言えば野性的な小麦色だ。これだけで、少女が大人の庇護の元にはいないと誰もが理解する。いわゆる、孤児というものだ。

「さ、ここだ」

 男がそう言うと、少女は顔を上げる。

 深く沈んだ青が、目の前に広がる風景を捉える。閉じた門の向こう、広がる庭園のそのまた奥に、大きな白い建物があった。数え切れないほどの窓や、大きな木造りの扉が見える。あの中には何人が眠れるだろうか。壁についた窓一つ、枠にはめ込まれたガラスの一枚一枚が、少女の目にはぴかぴかと輝いて見えた。実際、貧民街のひび割れ汚れたガラス窓とはまるで違う。この場所は陽の光がよく当たるのだ。

「……すごい」

「本当にな」

 感嘆のため息とともに少女の口からひび割れた鈴のような声がこぼれ落ち、男は頷いて同意を返す。

「しかしこれでも控えめなほうだっていうんだから恐ろしいもんだよ」

 男は肩をすくめると、鉄格子の門扉に掌をかざした。音もなく、すうっと門が開いていく。少女は目を丸くして男を見上げる。

「おじさん、実は手品師なの?」

「手品じゃなくて魔術だなぁ。ここの旦那様がこの門だけ、それもこの一回きりって制限で俺に扉開けの術をかけてくださったってわけだ。恐ろしいだろ」

「よくわかんないよ」

 あたしには、と少女は言った。この世の中において魔術とは、貴族たちや神官たち、それから兵士。いわゆる社会的に地位の高いものが持つ力のことだ。孤児である少女にとって、目にすることもないものだった。

「俺ァ貴族様じゃねえから、魔術なんざ使えない」

「でも、今使ったんでしょ?」

「……ま、そのあたりはこれからいくらでも知る機会があるかもな」

 説明するのが面倒になったのか、男は少女の手を引いて歩き出した。足元には欠け一つない石畳が、びっしりと敷き詰められている。その上を、少女は恐る恐る歩く。木靴がコツコツと音を立てるのを眺めながら。門から建物まで、まっすぐに敷かれた石の道を。

(……やっぱり本当になっちゃったな)

 心の中で呟くのは、落胆に満ちた失望だ。なぜなら少女は、いつかこの日が来ることを知っていた。父の死を「視た」あの日から、少女の目には時折見たことのない景色が映る。

 ありえない、と何度も思った。けれど、ことごとくそれは現実になっていった。それは今日の、この風景も。

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先視の元孤児は貴族令嬢を愛してる! 鈴真 @SU_MAAA

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