sleep

sleep

　眠らない街──とかいう言葉が昔あったらしい。

　俺は授業前の教室で、適当な席に座って文庫本を読んでいた。300名ほどが入る大教室だが、中にいたのはたった数名ほどだった。2限が始まる時間には、まだ20分ほど余裕がある。

　今日も早く着きすぎてしまった。

　俺はふいに出そうになる欠伸を噛み殺しながら、退屈な時間を耐えていた。

「おはよう！　恵人（けいと）、相変わらず顔色悪そうだな」

　振り返ると、丸眼鏡をかけた高身長の男が立っていた。智也（ともや）だった。

　智也は、キャンパス内では唯一と言っていい俺の友人だ。1年生の英語の授業で仲良くなってから、なんだかんだ数年間関係が続いている。色白の肌と、綺麗に整えられたセンターパートの黒髪には清潔感があって、初対面の人にも良い印象を与える男だった。

　俺は読んでいた文庫本を閉じて、智也の方に顔を向けた。

「おはよう、智也」

「今日も眠れなかったのか？」

「うん。まあ、全く寝てないないわけじゃないよ。3時間くらい？」

「いや、少ないから！」

　智也が真剣な顔で言う。

「お前、そんな生活続けてたらいつかぶっ倒れるぞマジで。前から言ってるけど、ちゃんと病院行って来たらどうなんだ？」

「いや、病院はいいよ。めんどくさいし、薬も飲みたくないし。あと、どうせアプリ薦められるだけでしょ？」

「『sleep』な。ったく、俺が親切で言ってるのにお前は……でもほんと、なんで恵人だけ寝れないんだろうなあ。俺、あのアプリが出てから不眠症の人なんて見たことないよ」

　なんでだろうな。俺にもわからないよ。

　俺が曖昧な返事を返していると、智也は突然思い出したのか「やべ、今日の睡眠データの分析しないと！」とか言って、傷一つないスマホを触り始めた。

　睡眠アプリ、『sleep』。

　アメリカのベンチャー企業からリリースされたそのアプリは、「すべての人類に快眠を提供する」というコンセプトで開発された。科学的な見地から安眠を促す環境音楽・個人個人の生活スタイルに合わせた最適な睡眠スケジュールの提案・ゲーム感覚で生活習慣の課題を改善できるようになるスコアアタック要素など、多彩で精度の高いコンテンツが充実しており、「このアプリ1つで、あなたの睡眠は激変します」を宣伝文句として、大々的に売り出された。

　アプリはその効力の高さから早々に評判を集め、口コミを通じてリリース後わずか2週間程度から爆発的に普及した。今では世界中のほとんどの人々が『sleep』のユーザーだと言われており、なんとユーザー数はあのFacebookを超えたらしい。全世界の人々が、質の良い睡眠を取れる時代になった。

　そして『sleep』は、人類の価値観すらも変えていった。

　快適な睡眠をとることがあらゆる生産性を上げるのだと、すべての人間が気づいていったのだ。『sleep』を通して睡眠の重要性を皆が実感し、この世界のどこにも、睡眠を軽視する者はいなくなった。

　より良い未来を切り拓いていくためには、より良い眠りを追求するために努力することが当然の常識だと、誰しもが考えていた。

　不健康な人間は、この世界から急激に消えていった。

　しかし、俺はここ半年ほど、碌に眠ることができていなかった。

　『sleep』はインストールしていた。アプリが提案してくれる睡眠スケジュールはきっちり守り、生活習慣の課題も全てクリアしていた。昔は、それによって俺もしっかりと眠ることができていた。

　でも、最近はどんなに頑張っても寝付くことができなかった。

　ベッドの中で意識が覚醒したまま夜を過ごし、やっと浅い眠りにつけたと思えば早朝には目が覚めていた。

　俺は、この時代には絶滅危惧種となった、不眠症患者だった。

　原因はわからない。

　しばらく『sleep』のデータ画面を眺めていた智也だったが、良い結果だったのか満足げにスマホを机に置いて、再び俺に話しかけてきた。

「そうそう、先週の授業のノート見せてくれないか？」

「うん、いいよ。たしか就活行ってたんだっけ？」

「ああ。そろそろ本格的にインターンも始まってきて、授業に出る暇がないんだわ」

「ふーん、そうなんだ」

「ふーん、てお前な……結局恵人はまだどこにも応募してないのか？」

「うん。特には」

　俺は先週の分のノートをカバンの中から取り出した。智也は、本気で心配そうな顔で、俺のひどく青黒い隈を見ている。

「もう3年の10月だぞ。そろそろ始めとかないと、どんどん周りに置いていかれて良い企業は早期選考で埋められちゃうからな」

「それ、前も聞いたよ」

「恵人が何にも始めないからな！」

　智也は、ぷんすか言いながら俺からノートを受け取った。

　真面目で、本当にいいやつだ。

　俺は、智也のできもの一つない綺麗な肌を見ながら、そんなことを思った。

　その日、またもや俺はベッドの中で眠れない夜を過ごしていた。

　俺は考えた。

　なぜ寝ることができないんだ？

　智也と俺は、何が違うんだ？　普通に生きている人間と俺は、何が違うんだ？

　智也は、もうとっくに寝ている時間だろう。マメな智也のことだから、きっと『sleep』の睡眠スコアも高得点を叩き出しているに違いない。

　俺だけが、この夜に一人で取り残されていた。

　俺だけが、ずっとこの場所で停滞していて、みんなはどんどんと先に進んで行ってしまうような、そんな不安を感じていた。

　結局、その夜も俺の睡眠時間は3時間を切っていた。

　次の日、2限の授業を終えた俺と智也は、昼ご飯を食べるため食堂に向かった。

　食堂には長蛇の列ができていた。みんな手元に『sleep』を起動して、今日よく眠るためには栄養バランス的に何を食べるべきなのか、真面目な顔で確認していた。

　二人とも目当てのものを購入し終えて、空いているテーブルに座るやいなや、智也が俺に語りかけてきた。

「恵人、今日はお前に良い話があるぞ」

「ん、何？　智也のことだし、もしかして就活の話？」

「そう！　流石に友人として最近のお前は見てられないところがあるからな……ほら、これ見ろ」

　そう言って、智也はスマホの画面を俺に見せてきた。

　それは、何らかのWebサイトのようだった。「君も早期内定を掴み取れ！」とビビッドな色で書いてある文章が、斜めに走っていた。背景には、若者が希望に満ちた目で空を見上げている画像が、やたらと存在を主張していた。

「有名なIT企業のインターンだよ。二日間で最も優秀なプレゼンをできたチームは、早期面接に進んで周りの就活生から三歩くらいリードできる」

「へー、なんか大変そうだね」

　俺がまたいつもの生返事をすると、智也が少し低い声色に変わった。

「──恵人、俺は本気でお前のためを思って言うぞ」

　智也はまっすぐに俺の目を見る。

　意志があり、強く、優しい目で俺の目を見る。

　いいんだよ、やめてくれよ。

　俺は心の中で祈りに近い言葉を発する。

　智也は俺のことなんて置いて、先に進んで行ってくれよ──

「この2dayインターン、恵人も一緒に参加しないか？」

　──そして、俺と智也は二人でインターン会場の椅子に座っていた。

　俺は最後まで参加を渋っていたが、智也に強引に押し切られる形になった。

　俺ははじめてのエントリーシートというものに四苦八苦したものの、智也の必死の手伝いもあり、なんとか書類選考を通過。涼しい顔で当然のように通過していた智也とともに、朝からやたら大きいオフィスで緊張した時間を過ごしていたのであった。

　周りを見ると、同じく緊張した面持ちの学生たちが何人も座っている。

　ただ、周りの学生たちはみな、目に何か大きな野心のようなものを宿している気がした。ギラギラとした目で、ギラギラとした遠い何かを見つめていた。

　俺は少し不安になった。

　十分ほど経って会場のドアが開き、人事の人と思われる男性が部屋に入ってきた。会場に、ピリッとした空気が流れる。

　ついにインターンが始まるのだ。

「おはようございます！　人事の松本と申します。今日はよろしくお願いします！　それでは早速ですが、まずは私の方から、今日の流れに関しての説明をさせていただきます」

　人事の男性が大型のスクリーンに資料を投影し、今回のインターンについて説明を始めた。

　今回のインターンは、参加者をいくつかの班に分けたのち、二日間をかけてそれぞれの班で考案したビジネス企画をプレゼンするグループワークだ。1日目の終わりにも、中間報告としてプレゼンの時間が設けられている。

　そして何よりこのインターンでは、最終プレゼンをベテラン社員数名に評価され点数を付けられる。そこで見事1位を獲得した班のメンバーは、優先的に早期選考を行うことが確約されているのだ。

　就活生たちは、早期選考という最大の報酬を前に、皆が闘志を燃やしているのである。

　人事の男性はインターンの概要についての説明を終えると、プレゼンのグループ分けの発表に移った。

　グループはあらかじめ決められており、学生たちはスクリーンに表示された座席表を見て、それぞれ自らの班の場所へ移動していった。俺は1班だったため、会場の隅にあるテーブルへと向かった。

「お、1班ですか？　よろしく！」

　テーブルに着くやいなや、やたら快活そうな男が俺に話しかけてきた。

「あ、はい。よろしく」

「僕は関東大の大久保です！　絶対早期選考勝ち取りましょうね！」

　大久保と名乗ったその男は、健康そうな歯をキラリと光らせて笑った。俺は、この人が今日のリーダー的なポジションになってみんなを引っ張ってくれるんだろうな、とぼんやりと思った。

　しかしながら、俺たちのグループワークは全くもってうまくいかなかった。

　大久保の強い希望から「少子高齢化問題を解決する」という壮大なビジョンを掲げたはいいものの、それを実現する具体的な企画にうまく落とし込むことができなかった。使えないアイデアだけが量産されていって、筋の通ったプレゼンを行うために資料をまとめ上げる作業は遅々として進まなかった。

　みんながみんな、結果を残そうと必死の形相で発言した。大久保がやはり率先して議論をまとめようとしたが、全員が自分の意見を少しでも反映させようとするため、どんどんちぐはぐな内容になっていった。

　すべてが空回っていた印象だった。見回りをしていた人事が、俺たちの班の横を通り過ぎるときに不安そうな顔をしていた。

　俺も可能な限り生産的な意見を出すよう頑張ったが、ESも智也に手伝ってもらわないと書けないような俺が当然周りに付いていけるはずもなく、他のメンバーからは俺が発言するたびに段々と失望が混じった顔をされるようになっていた。

　決定的な失敗をしたのは、一日目も終盤になった頃だった。

　俺は不眠のせいで露骨に体力をなくしてきていて、周りで侃々諤々に交わされる議論を、ほぼ話半分に聞くことしかできなくなっていた。

　そんな中で、大久保が俺に話を振ってきた。

「うーん、ちょっとこれはどうしたものか……恵人くんはどう思う？」

　大久保からしても、本気で有益な答えを求めていたわけではないだろう。気力に漲っている全員の意見をまとめるのに辟易して、いったん俺の毒にも薬にもならない意見を欲しがっていたのかもしれない。

　ただ俺は、その程度の期待にも応えられない人間だった。

「え？　ああ、ごめん。聞いてなかった。もう一回いい？」

　一気に、全員のテンションが最悪まで落ちていくのを感じた。

　みんなが思っていたことだろう。ああ、こいつはダメだ。全くやる気のないこんな男が同じ班にいる俺たちは運がなかった。こいつのせいで、俺たちのプレゼンは全く出来の悪いものに終わってしまうんだ。と。

　俺もまた、俺のせいでこの班のプレゼンは最下位になるかもしれないと思った。

　結果的に、俺たちのプレゼンは散々な結果に終わった。

　発表は全員で分担して行った。だが、全員がぼんやりと自信のないような喋り方をしてしまっていたと思う。企画も到底面白いものには聞こえなかったに違いない。

　誰もあえて口にすることはなかったが、班のみんなが「失敗だな……」という空気を感じていることは明らかだった。

　最後を締めくくる大久保が言葉を終えると、会場からはぱらぱらと控えめな拍手が起こった。

　俺たちは、覇気のない顔で自席に帰っていった。

　俺たちの班が意気消沈している間にも次々と他の班がプレゼンを終わらせていき、いよいよ最後の班の発表になった。

　ここまでプレゼンのクオリティが高い班もあれば、低い班もあったと思う。しかしどの班からも、このインターンにかける熱意のようなものは伝わってきた。

　このインターンでチャンスを掴み、未来を良いものにするという熱意。将来のキャリアを確実なものにしたいという意志。

　──それが、俺にはなかったのだろうか。

　ふと前を見ると、智也がスクリーンに資料を映す準備を行っていた。最後に発表するのは智也の班だった。

　俺は驚いた。スクリーンの前に立っているのが、智也一人だったからだ。

　なんと、智也が一人でプレゼンを行うのか。俺はどこか落ち着かない気持ちになりながらも、智也を見守った。

　智也のプレゼンは、見事だった。

　持ち前の好印象とトークスキルを活かした掴みは完璧で、冒頭のスライドから一気に話に引き込まれた。聞いているだけでワクワクさせられる企画でありながら、論理的な根拠にも支えられていて、内容的にも非の打ち所が見当たらなかった。

　プレゼンの途中、人事たちの目がみるみる期待と好奇を帯びたものに変わっていくのが分かった。

　智也は、結果を残した。

　プレゼンが終わり、俺はぼうっと拍手をしていると、席に戻る智也と目が合った。

　智也はにやっと笑って、「やったぞ！」と俺に目でサインを送ったように見えた。

　会場の拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。

　そうして、1日目のインターンは終わった。

　俺は智也と二人で電車に乗って帰った。辺りはすっかり暗くなっていて、向かいの窓には俺たちの顔が鮮明に映し出されていた。

　吊り革を持った俺の顔は見るからに疲れ果てていた。

「いやあ、それにしても疲れたな」

「うん、疲れた……」

「恵人も頑張ってたな。俺はあの企画、悪くないと思ったぞ」

「いや、全然だよ。はは……」

「いやいや。それにまだまだ中間発表だからな。一番大事なのは本番だ」

　別れ際に、優しい顔で智也が言った。

「じゃ、お疲れ！　明日が勝負なんだから、今日こそ頑張って寝るんだぞ！」

　俺は帰宅した。

　何もする気が起きなかった。硬いベッドに倒れこんで、ただぼうっと壁を眺めていた。

　身体がひどくだるい。

　気付けば、『sleep』からアラート音が鳴っていた。そろそろ寝ないと明日の健康に響く時間らしい。

　そうだ、明日にもインターンがある。

　俺は智也の雄弁なプレゼンと、就活生たちのギラギラに血走った目を思い出した。

　こうしてはいられない。明日のためにも早く寝なければ。

　今日やらかしてしまった失敗を取り返さなければ。

　本番では智也を超えるプレゼンをしなければ。

　ディスカッションで爪痕を残さなければ。

　早期選考に駒を進めなければ。

　就活しなければ。

　早く寝なければ。

　寝なければ。

　寝なければ。

　誰の声かもわからない声が、脳内でしつこく反響していた。

「っっ！！　うるさい！！！」

　俺は思い切り壁を蹴った。指を壊すくらいの力でベッドに拳を振り下ろした。机の上に置いてあったボールペンを、床に全力で叩きつけた。

　無音の部屋で、次々と物音が爆発した。

　それでも、俺に何かを迫ってくる声が止むことはなかった。

　外に出ようと思った。

　どこかへ行きたい。どうにかして、このうるさい声が聞こえない場所に向かいたい。

　俺は携帯も持たずに部屋を飛び出した。

　目的もなく街に出た。

　──街は、眠っていた。

　廃墟だった。

　街を構成するもの全てが、呼吸を止めているようだった。

　立ち並ぶ家には一切の明かりが灯っておらず、役目のなくなった数本の街灯だけが、弱弱しく薄い光を放っていた。

　昼間は賑やかな往来を見せる道路からは、誰の声も、何の音も聞こえなくなっていた。

　ただただ、寂寞で巨大な空間だけがそこに存在していた。

　『sleep』によって、「眠らない街」という言葉は消えた。

　代わりに生まれたのは、真っ暗な廃墟だった。

　みんなが、眠りについている。

　明日のために。明後日に疲れを残さないために。明々後日の大事なイベントのために。

　『sleep』を片手に。未来に、将来に向かって。

　眠っている。

　起きているのは、この街で俺だけだ。

　そう思うと、なんだか無性に嬉しくなった。

　俺だけが楽しんでいるのだ。

　今を。現在を。未来のために捨てられていった、美しい廃墟のようなこの時間を。

　俺は、ひたすら走った。

　理由なんてなかった。ただただ誰もいない道を全力で駆けるのが気持ちよくて仕方がなかった。

　寝不足で吐きそうだった。眩暈がして、視界はぐらぐらと揺れていた。

　でも、それが俺には気持ちよかった。むしろ快感ですらあった。

　自分の身体がふらついていることが嬉しかった。

　視界が歪んで見えることが楽しくてしょうがなかった。

　この気持ち悪さこそが、俺が生きている証明なんだと、誰かに向かって叫びたかった。

　やがて家に帰った俺は、再びベッドに泥のように倒れこんだ。

　もう何時なのかもわからなかった。

　体を動かすことすらもできなかった。

　──明日のインターンは、サボろう。

　俺は『sleep』をアンインストールし、携帯の電源を切った。

　目を閉じて、体の力をゆっくりと抜いていった。

　その日は、深くぐっすりと眠ることができた。

　しばらくして目が覚めた。窓の外を見ると、景色は寝る前と変わらず真っ暗だった。

　俺は慌てて日付を確認した。翌日の夜になっていた。もうインターンが終わるくらいの時間だ。

　携帯の電源を点けると、智也からの不在着信が何件も入っていた。インターンの合間にかけてくれていたのだろうか。「大丈夫か？」というメッセージと心配そうな顔のスタンプが添えられていた。　

　無視しようと思った。

　俺が眠りに落ちている間、おそらく智也はまた優秀なプレゼンを見せて社員の目を引いていたに違いない。

　1位は取れただろうか。

　仮に取れていなかったとしても、智也の活躍ぶりなら特別に早期選考に呼ばれていてもおかしくない。

　智也は、先に行った。

　俺は、立ち止まっている。

　それでいいと思った。

　俺には、智也みたいになれる気がしなかったから。

　もう少しだけ、眠っていたかった。

　もう少しだけ、幸せなこの時間を噛み締めていたかった。

　眠るって、こんなに気持ちよかったんだ。

　俺は携帯の電源を切り、再び深い眠りに落ちていった。