2.太陽よりも熱い恋



「寂しいんだね」

 いつものように役目を果たし裸でベッドに転がっていた俺は、耳たぶへ吹きかけられた囁き声に肌を震わせた。目を丸くして隣を見れば、今回の恋人の裸体がある。顔、近! 鼻と鼻が擦れ合いそうだ。その女性は背が低くて、体が細くて、肉付きも慎ましやかで、ちょっと背徳的な気分になるほど幼い外見をしていたが、実際の歳は俺とそう変わらない、そんな人だった。たぶんね。というのも、あんまり彼女に興味がなかったから。FANZA TVの見放題動画で名前も知らないAV女優の体を見るのと同じくらい無感動にやることをやった。俺にとって彼女はそれだけの存在だった。

 あらためて言葉にすると酷い話だな。俺はクズだ。蔑んでくれていい。俺も蔑んでる。

 まあ、そんな気分で義務的にホテルに入ったまでだったので、今まで彼女に注意を払っていなかったんだ。名前はなんだっけ……畑田さん? いや、片田さん? 確か『なんとか田』だった……クソ! 最悪だ俺。

「寂しいんでしょ」

 彼女が再び囁き、俺は心臓が異様なペースで脈動し始めるのを感じた。

「何が?」

「寂しくない人は、『寂しくない』なんて言わない」

 俺は、この時はじめて彼女を真剣に見た。

 ……きれいだ。なんてきれいな体をしてるんだろう。肌も、骨格も、あまりにも繊細で、乱暴に扱えばたちまち砕けてしまいそう。さっきまで俺はあんなに蠱惑的な腿の裏を好き勝手に擦ってたんのか。そうだ。だんだん思い出してきた。彼女が俺の上にまたがり、思いもよらぬ力強さで前後に躍動して――

 なんだあ? なんか、今さらすごい勢いでちはじめたぞ。もう済んだことだろうが、おい。

 俺はいてもたってもいられなくなり、寝返りを打った。彼女と正面から向かい合い、その滑らかな腰に手を伸ばす。

「あのさ、もし嫌じゃなければなんだけど……」

「うん?」

「もう一回しない?」

「ちゃんと覚えてくれるならね」

「何を?」

「ミヅキ」

 彼女――ミヅキが俺を押し倒し、その上へ、驚くほど淫靡にまたがってくる。

「今度わすれたら噛みちぎってやる」



   *



 ミヅキ。栄田さかえだミヅキ! 忘れるものか、もう二度と。31歳、職業医師、専門は麻酔科。生粋のゲーマーで、自宅の専用プレイルームには80年代からのレトロゲーム機が実機でギッシリ。趣味はマイナークソゲーRTAリアルタイムアタック世界記録ワールドレコード持ちのソフトが2本、トップ10以内なら13本。好きな酒はアードベッグ。好きなセックスは騎乗位とクンニ。家族はいない。動物は好きだけど世話しきれないからもう飼わない。自宅はデリバリーの容器カスとからの酒瓶でゴミ屋敷同然だったが俺が全部片づけた。食べ物の好みは特にないと言ってたんだが、このあいだ彼女の夜勤明けに適当に中華がゆとか作って待ってたら、なんかそれがすごく気に入ったみたいで、ちょくちょく「作って」とねだるようになった。西紅柿シーホンシイ・炒蛋チャオダンとかもウケが良かったな。中華系の味が好きなんかね?

 ミヅキとの付き合いは、不思議と長く続いた。一ヶ月、二ヶ月。七ヶ月、八ヶ月。俺の人生での最長記録を軽々と更新した頃、彼女が家の合鍵をくれた。

「もう一緒に住まない?」

 そう話を切り出した時、ミヅキはよりにもよってだらしない部屋着姿でゲーミングチェアにあぐらを掻いて、黒レースのパンツをまたぐらからチラチラのぞかせながらメガドライブのパッドをペチペチ叩いていた。たぶん照れ隠しだったんだろう。俺は後ろから彼女を抱き、薄い綿シャツの布ごしにノーブラの乳首をそっとなぞった。

「そうしようか」

「ダメだあ! 今日はガバばっか」

 RTAを放り出して録画を止めたミヅキが、アゴをしゃくって俺に向ける。キスしろって合図だ。俺はこれが好きでさ。

 それからほどなく、俺たち二人の交際は1年を越えた。変だと思うか? 因果なんちゃら現象はどうしたんだって? 俺の理解だとたぶん、運命ってのは覆しようがないほど強固なものじゃないんだ。実を言うと、ミヅキはこの1年で何度も何度も浮気の機会に遭遇していた。ものすごい超大金持ちの男とか、名前を出すとマジでヤバい超有名政治家とか、現役の超絶美男子俳優とかね。でも彼らからの誘惑を、ミヅキはシレッと振り払った。いや、振り払ったなんてもんじゃないな。最初から相手にもしていなかった。俺なんかより遥かに優れた能力だか遺伝子だかを持ち、人格面でもだんぜん立派な男たちを、ミヅキはてんで興味ないってふうに振ってしまう。

 人の意志で、運命はきっと変えられる。

 ミヅキの意志が、運命を変えた。

 俺は一人の時を選んで何度か泣いた。悔しくてじゃないぞ。嬉しくてだ。ずっと求めていたものが、やっと掴めた気がする。ミヅキ。君のためなら俺はなんだってやる。どんな屈辱にも苦痛にも耐えてみせる。

 俺はきっと、君に逢うために生まれてきたんだ。

 だから――



   *



「いけませんねえ」

 ほとんど一年ぶりに顔合わせたNTR事務局の藤原は、居酒屋の個室で眉間にシワを寄せていた。俺は最高にいい酒を頼んでしゃくしようとしたが、彼は慌てて手を振った。

「あーっ、いけません。いただけません」

「飲めないんでしたっけ」

「お酒は好きですよ。でもおごられるのはダメ。収賄になってしまう」

「酒の一杯くらいで?」

「国家公務員倫理規定第三条の六。我々はね、厳密な社会システムの中で生きているんです。そこから逸脱すれば応報がある。それはこの『世の中』という厄介なものを現実的に回していくために必要不可欠な仕組みなのです。人間は誰しも、その大きなシステムの部品に過ぎない」

「……この仕事を続けろって?」

 そうなのだ。俺が辞めたいと言いだしたから、藤原はこんなに渋い顔をしているんだ。実際問題、ここ1年以上は全然あたらしい恋人と付き合えてない。藤原たちの目的は全く果たされていないことになる。それなのに年俸だけ受け取り続けるのは、なんだか心苦しくて、俺は藤原にスジを通す機会を作ったんだ。

 だが藤原は静かに首を振った。

「もちろん強制はできません。自由意志は尊重しますよ。もし自由意志なるものがあるのなら、ですが」

「あるだろ」

「そうであってほしいですよ。ただ、因果整流子現象の原理から考えれば――これも因果の溜め込みではないかと」

「だからソレよく分かんないんだって! 俺はド文系っすよ」

「水に絵の具を垂らすのを想像してみてください。水の中に落ちた絵の具は、放っておいても徐々に拡散して全体へ広がっていきますよね。この時の拡散流束は『濃い部分』と『薄い部分』の濃度勾配に比例する。フィックの法則という基本法則です。

 つまりです。これまであなたが経験してきた不思議な現象は、『寝取られる前』の情念と『寝取られた後』の情念、この二つの濃度差によって引き起こされていた。ならば、あなたのミヅキさんに対する愛情が深ければ深いほど――」

「黙ってくれ!」

 俺の叫びは居酒屋の騒ぎに飲まれて消えた。

「……分かってる。なんとなくそんな気はしてる。今はただ神様とかなんとかいうクソ野郎が温情でもって自由にさせてくれてるだけじゃないかってな。でもさ。いつかダメになるんだとしても……どうにもならない運命なんだとしても……

 ミヅキだけは。

 彼女だけは!

 もう誰にも寝取られたくない!」

 10秒。20秒。重たい沈黙があって……

 藤原は席を立った。

「分かりました。手続きは無用です、年度末の契約更新をしなければいいだけですので。今までのご協力を感謝いたします」

 背広にそでを通した藤原が、そっと、俺に笑顔を向ける。いつもの作り物の笑顔じゃない。初めて見る本物の笑顔だと、俺には思えた。

「幸運を、お祈りします」



   *



「移住しよう!」

 いきなり無茶を言いだした俺に、ミヅキは小首をかしげた。俺はかき集めてきたパンフやらなんやらをカバンから引っ張り出し、テーブルを埋める勢いで並べていく。

「ほらここ! 西リヨーリア女人国。何年か前にニュースになったろ? 男性排除、女性しかいない新興国家。すごくいいところらしいし、物価も安いし、今の貯金だけでも20年くらいはのんびり暮らせる。ミヅキ最近働きすぎだしさ、しばらく体を休めて……」

「女だけの国なら君はどうやって入るんだ?」

「配偶者特例があるんだ。君と一緒なら入国できる」

 ミヅキが笑い声をこぼして、すくいあげるように俺を見る。

「なんだい? それ、新手のプロポーズ?」

「まあそんなとこ」

「少しはロマンチックな演出とかないの?」

「善は急げって言うだろ」

「いいよ。ほら出して」

「何を?」

「婚姻届。ハンコ押してやるから」

「よく準備済みだって分かったね」

「君のことには詳しいからね」

 こうして俺たちは翌日朝イチで夫婦になり、翌月末で仕事も辞めて、アジアの新興国へ出発した。ホー・チ・ミンで飛行機を乗り継ぎ、11時間かけてようやく到着。とりあえず今回は移住ではなく、1ヶ月ほど滞在して国の様子を確かめるつもりだ。実際に生活してみたら聞いてた話と全然違う、なんてこともあるかもしれないし。治安とか、物価とか、食事の味とか、なにより、本当に男がいないのかどうか、とか……

 そうさ。分かるだろ、俺の目論見もくろみ。この国なら男はいない。この国の中にさえいれば、ミヅキが男と出会う可能性はほとんどゼロになる。もう誰にも寝取られたくない。ここでならミヅキを守り切れるはずだ。

 それなのに。

 ああ。なんでだよ。そのはずだったのに!

 リヨーリア国際空港から一歩異境へ踏み出したとたん、事件は起きた。そのとき俺達は、眼前に広がる雄大な草原に目を奪われていた。遥か彼方の稜線まで延々つづく鮮やかな緑。ところどころに見える小さな影は、山羊の仲間か何かだろう。一目で分かる。いいところだ。空気がうまい。見ろよ、あの澄みきった空を。なんだかこっちの気持ちまで大きくなるようだ。

 そんなふうに感心していた俺達は、近づいてくる人影に気づかなかった。

 荷運びのバイトらしい少女。それが、両腕で抱えた大きな籠に視界を塞がれたまま、フラフラとこっちへ来ていたのだ。

 少女はミヅキに衝突した。

 倒れた籠から大きな果物が転がり落ちて、少女が草の上へ尻もちをつく。

「あ、ごめん」

 ミヅキは反射的に謝りながら、少女を助け起こそうと手を差し伸べた――

 その、瞬間だった。

 俺は見た。ミヅキと、少女。二人の視線が、空中で絡まり合い、一つに結びついたのを。

 ――あ。

 ――あ?

 ――あっ……ああああああああああ!?

 俺は知ってる。これはアレだ。いつものやつだ! 俺は何度も何度も何度も何度もこの光景を見せつけられてきた! 分かってしまった! 見えてしまった!

 始まったんだ!

 ミヅキと少女との間で、今……太陽よりも熱い恋が!!

「ミヅキッ!」

 今さら悲鳴をあげたって、もう彼女には届かない。恋する乙女の目をしたミヅキは、もう二度と、俺の方を見てくれない。

『いけませんね、価値観をアップデートなさらないと』

 糸の切れた人形のように崩れ落ちる俺の耳元で、いつか聞いた藤原の言葉が、うるさいくらいに反響を繰り返していた。



THE END.

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内閣府NTR事務局 外清内ダク @darkcrowshin

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