第4話 香る教室
「おはようございます、無月さん」
翌日の朝。教室に入ると、案の定香澄に声を掛けられた。やっぱりか。
まだクラスでの立ち位置が確立していない今、香澄レベルの美少女が俺なんかに話しかけても、周囲から浮いていたりはしない。ちょっとだけこっちに視線が向くが、その程度だ。
「……おはよ。朝から元気だな」
「私のテンションは、朝から晩まで一定ですので。そういう無月さんは眠そうですね」
「……朝は苦手だ」
香澄の横を抜けて自分の席に座る。が、何故か香澄もついてきて俺の前の席に座った。
「まだ何か用か?」
「お話ししましょう。あなたのことが知りたいんです」
まだそんなこと言ってんのか。昨日のことで、俺の人となりはわかっただろうに。
感情はノイズで、人に興味がない無関心主義者。それ以上でもそれ以下でもない。他に何を知りたい事があるんだ。
特に話すこともなく、机に肘をついて香澄から目を逸らす。と、その時。香澄の鼻がひくひくと動き、「あ」と口を開いた。
「昨晩、手作りコロッケだったのですか? お肉が多めで、とても美味しそうですね」
「……なんでわかった」
「もうわかっているのでは?」
……匂い、か。ここまで明確に当てられるなんて、一周回って感心する。
「お前の前では、プライバシーは皆無だな」
「安心してください。触れられたくない部分は触れないようにしていますから」
触れられたくない部分? なんだ、それ?
その時、クラスに入って来た丸刈りのクラスメイトが横を通り過ぎた瞬間、香澄が少し顔をしかめた。
「……なるほど、汗臭さか」
「それもあるのですが……少々、生臭い匂いが……」
……あ、なるほど。うん、それは触れづらい。というか男としては触れてほしくない。丸刈りクラスメイト、ドンマイ。
「その点も含めて、無月さんは本当に無臭ですね。こんな人が本当にいるなんて、思いもしませんでした」
「そうかい」
無臭……またそれか。そんなに言うほど無臭なのか、俺。
いつもなら聞き流す程度の話題なのだが、妙に心に引っ掛かる。いったい、どういう意味なんだろうか。
「……本当に、感情が香るって信じてんのか?」
「信じているというより、本当に香るんです。物心ついた時から、ずっと」
自分の鼻先を触って、困ったように笑う香澄。もしその話が本当だったら、随分と生きづらい人生だろうな。
「普通の人間は、そんなことはできないぞ。やっぱり勘違いじゃないのか」
極めて冷静に現実を突きつけるが、香澄はまったく気にする様子もなく肩を竦めた。
「そう思われるのも仕方ないですね。ですがお医者さんにも診断していただいたので、間違いありませんよ」
医学による証明……これは、俺が何を言っても覆ることはなさそうだ。だからって、俺に付きまとうのはやめてほしいんだが。
そっと嘆息していると、香澄はざっとクラスを眺めて話しだす。
「例えば、前の席に座っている眼鏡の女の子。昨日クラス委員に決まった子ですね。ここからでもわかるくらい、すごく甘い香りがするんです。あれは自信と期待が混じった匂いですね。恐らく、中学生の頃からクラス委員か生徒会に入っていたのでしょう」
「…………」
「あと、隅でずっとスマホを見ている男の子。あの子からは、すごく苦い匂いがします。不安とか焦りを感じていますね。多分、これからの高校生活がたまらなく不安なんだと思います」
香澄がクラスの人間を観察しながら、次々と匂いを『翻訳』していく。もちろん俺は、それが正解なのかはわからない。
ただ、一つだけわかる。彼女が見ている世界は、俺とは異なるものだということが。
「それでですね」
香澄は少しだけ、声を抑えて続けた。
「無月さんだけは、本当に何も香らないんです。たまに揺らぎのように感じる場合がありますが、すぐに消えてしまう。まるで、感情そのものを怖がっているように。だから」
「くだらない」
冷たく言い放ち、香澄の言葉を遮る。
あまりにも非現実。あまりにもナンセンス。あまりにもノンデリカシー。これ以上、付き合う価値はない。
これ以上こいつと一緒にいると、あることないとこ言い当てられそうで参る。
席を立ち、香澄に背を向ける。
「どこに?」
「トイレ。ついてくんなよ」
「そこまでデリカシーの無い人間ではありません」
お前、昨日話に夢中になりすぎて男子トイレに入ろうとしていただろう。
はぁ……こいつと一緒にいると、異様に疲れる。
「無月さん」
教室を出ようとしたところを、香澄が呼び止めてきた。
「……なんだよ」
「いいえ。……私は、無月さんのような人と一緒にいるの、嫌じゃありませんよ」
――――。
……また、知ったような口を。
その言葉を無視して、静かに教室を出て行った。
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