第2話 変な女

 トイレを終えて廊下に戻ると、香澄が窓に背を預けて待っていた。

 もう戻っていたものと思っていたから驚いたのもあるが、窓から射し込む陽光をまとう彼女は、どこかこの世のものとは違う隔絶された者という印象を受けた。窓の外を眺める憂いのある横顔は、西洋絵画を思わせる美しさで……思わず、足を止めてしまった。

 窓の外を見ていた香澄は、俺の姿を見てまた柔らかい笑顔を見せた。



「お待ちしていました、無月さん」

「待っててくれなんて頼んでないぞ」

「私が待っていたかったんです。教室はいろんな感情の匂いがして、昔から慣れなくて」



 ……まあ、本当に匂いで感情がわかるなら、集団の生活はさぞ難儀するだろうな。他人が自分に向けている感情が丸わかりとか、俺ならソワソワして気が気じゃない。

 教室に戻る俺に、また香澄は付いてくる。俺の帰りを待っているところといい、空気を読まないところといい、こいつ犬みたいだ。



「無月さん。どうしてそんなに、人に興味がないんですか?」

「人に興味がない奴なんて、一定数いるだろう」

「確かに、口ではそう言っている人は数人知っています。ですがその方たちも私に下心を向けたり、嫉妬心を剥き出しにしたりと、言っていることと思っていることが真逆な人だらけなんですよ。でも無月さんは、心の底から他人に興味がない。現に今も、私に興味がありませんよね?」



 おっしゃる通り。よくわかってるな。

 でもこれ以上何も言わなかったら、余計に周りをうろちょろされそうで困る。

 人に興味がない理由、か……。



「……必要がないからだ」

「……なるほど。余計、あなたに興味が湧いてきました」



 おい、何で今の答えで俺に興味が湧くんだ。

 香澄は自分で言った言葉に満足したのか、嬉しそうに微笑む。その自然体な様子にどこか釈然としないものを感じたが、何故か毒気を抜かれてしまった。

 本当……変な奴。






 午前中は教科書の配布や委員会決めだけで終わり、今日はこれで解散となった。クラスの空気も弛緩して、帰る奴は即教室を脱出し、遊びに行く奴らは教室の一ヶ所に集まっている。

 当然、俺も帰る派だ。いつまでも教室に残っていても意味がないし。

 荷物をまとめ、帰り支度をしていると、一つのグループにいる男が声を上げた。



「えっ。鷹峰くん、カラオケの予約してるってマジ?」

「ああ。交流も兼ねて、みんなで遊びに行くと思っていたんだ。行くよな?」



 鷹峰と呼ばれた男を中心に、十人くらいの男女がテンション高く盛り上がっている。

 それを右から左に聞き流しつつカバンを背負い、教室を出る。が、その時。後ろから「無月」と名指しされてしまった。誰だ、俺を呼び捨てにするのは。そんな仲のいい奴いないぞ。

 名指しされてしまったなら、仕方ない。諦めて振り返る。

 声の主は誰であろう。グループの中心人物である鷹峰だった。



「無月。これからカラオケに行くんだ。一緒にどうだ?」

「……悪い。家のことしなくちゃいけないんだ」

「そうか? なら、また今度行こうな」



 爽やかに手を振って来る鷹峰に、手を挙げて返す。

 極めて普通に、印象に残らず、悪目立ちもせず帰る。これがいつもの俺だ。……というか、香澄といい鷹峰といい、なんで話したこともないクラスメイトの名前を知ってるんだよ。まさかこの数時間で全員覚えたのか? 記憶良すぎて逆に怖いわ。

 もう俺には興味を無くしたらしく、鷹峰は今度は香澄に声を掛けていた。もちろん俺は、それに反応することなくさらりと教室を出る。あいつも、あのグループと遊んでいたら俺には興味を無くすだろう。そうしたら、俺の理想とする静かな学校生活がやって来る。

 帰宅する一年生に混じって廊下を抜け、息を潜めて下駄箱で靴を履き替える。

 本日のミッション、コンプリート。直ちに帰宅する。

 下駄箱の扉を閉め、振り向くと。



「無月さん、一緒に帰りましょう?」



 香澄雫玖がいた。……さっきと同じ、とてもいい笑顔で。

 さすがの俺も愕然。だってこいつ、さっき鷹峰に話しかけられてたよな? カラオケに行くんじゃなかったのか?



「お前、なんで……?」

「む。お前ではなく、香澄です。もしくは雫玖と呼んでくださって大丈夫ですよ」



 ちょっとむくれた香澄が頬を膨らませて怒る。この年齢でそんな怒り方する奴、初めて見た。



「論点はそこじゃない。……香澄はなんで、ここにいるんだ? さっき鷹峰って奴にカラオケ誘われてただろう」

「はい。なので、やんわりとお断りしました。無月さんと一緒に帰りたかったので」



 一緒にって……そんな約束、一回もしてないだろう。

 なんて言っても、こいつのことだ。勝手に着いてくるんだろうな。



「無月さん、またすえた匂いがしますよ」

「わかってるなら付きまとうな」

「無理です。私今、すごく無月さんに興味があるので」



 笑顔を崩さず、なんとも恥ずかしいことを真正面から言ってくる香澄。これはもう、何を言っても引かないだろうな。



「……勝手にしろ」

「はい、勝手にします」

 校舎を出て、真っ直ぐ校門に向かう。その間も香澄は、付かず離れずの距離感で隣に並んできた。



「あの、聞いてもいいですか?」

「断る」

「先程、無月さんも鷹峰さんから誘われていましたよね。何故、やんわりとした嘘で断ったのですか? あなたなら、直球で断ると思ったのですが」



 断るって言ったのに、サラッと流して聞いてくるんじゃない。

 それに、どうして俺が嘘をついていたって……あぁ、そうか。こいつの前では嘘も通じないのか。



「……俺の信条は、悪目立ちをしないことだ。あそこで複数の目がある中、取り付く島もない言い方で断れば、変に目立つだろう。必要最低限のコミュニケーションは取るようにしてるんだ。俺なりの処世術だよ」

「へぇ……意外と考えているんですね」



 意外とは失礼な。ただ、人間の感情が面倒なだけだよ。



「そういう香澄は、なんで断ったんだよ。まさか本当に、俺と帰りたかった訳じゃないだろ」

「いえ、本当ですよ。今私が一番興味があるのは、無月さんなので」



 と、朗らかな笑みで覗き込んできた。



「そりゃ、光栄なことだな」

「一ミリも思っていませんよね」

「ああ、思ってない」

「……普通、女性からあなたに興味があると誘われたら、殿方は喜ぶのでは?」

「世の中の普通は、常識とはかけ離れている場合がある。いい勉強になったな」



 世の中、そういう男ばかりじゃないってこった。例えば俺とか。俺とか。俺とか。

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甘口少女は、恋の匂いに溺れる。 赤金武蔵 @Akagane_Musashi

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