甘口少女は、恋の匂いに溺れる。
赤金武蔵
第1話 香りのない入学式
感情は、俺の人生にとってノイズだ。
怒りで他人に思考を占領されて、無駄な時間を過ごしたくない。
悲しみで何も手が付かず、塞ぎ込みたくない。
憎しみに晒されて心が痛むなら、誰とも接したくない。
喜ばせなきゃいけない。楽しまなきゃいけない。同調しなきゃいけない。
煩わしい。すべてが面倒くさい。
だから俺は今までも、これからも、ずっと一人で生きていく。
目立たない。問題を起こさない。他人と深く関わらない。それが俺にとっての平穏であり、唯一の『正解』だった。
――
◆◆◆
校長の話というのは、高校に進学したからといって退屈なものだと知ったのは、今しがたのこと。どうしてこうも長ったらしく、つまらないものばかりなのだろうか、
パイプ椅子に座りながら、ノリのついた真新しい制服に身を捩る。特にネクタイは慣れない。中学の頃は学ランだったから、余計に違和感がある。
周りを見渡すと、これからの高校生活を想ってか、これから同級生になる面々は見るからに高揚し、そわそわしている。
それらも俺にとってはノイズであり、面倒くさい感情そのものだった。
(……騒がしいな)
ため息にも満たない息を吐き、体育館の外に目を向ける。春風が吹き、遅咲きの桜が舞い上がり、宙を彩った。
心地いい。人の感情より、自然の方が『静けさ』を与えてくれる。
つつがなく進む式を無心でやりすごしていると……不意に、どこからか視線を感じた。
「ん……?」
周りを見渡すが、誰もが前を向いている。だが……前の席に座っている一人の女子生徒だけが、こっちに視線を向けていた。
内巻きのセミロングの髪が左右に揺れ、紫のようにも見える大きく柔らかい瞳が見開かれている。
こっちの方に誰か友達がいるのか? だとしても、式中に振り返るのは非常識だろう。ああいうのは関わらないに限る。
変な奴を無視し続けていると、ついに教師に注意されていた。ほら、見たことか。
校長の話はなお続く。どんだけ話したいことがあるんだ。
無言で虚無を見続けること十分弱。ようやく校長の話が終わり、締めの挨拶で終了。体育館内に張り詰めていた緊張の糸が緩んだ。
体育館を出て、一組の教室へと向かう。周りは校長の長話という共通の話題があるからか、話しながら向かっている同級生が多かった。
そんな彼ら彼女らを横目に、教室に入る。教室の雰囲気は、小学校中学校の時と特に変わらない。並べられた机に、黒板があるだけだ。
自分の名前を確認し、窓際から二列目の特に目立たない席に座る。端すぎず、前過ぎず、教室全体を見渡せる。実にいい席だ。
恐らく先生が来るまでは、少し時間がある。今の内にトイレに行っておこう。
誰にも悟られないように立ち、教室を出た。……その時だった。
「すみません。あなた、なんで“何も香らない”のですか?」
「――え?」
突然、誰かに話しかけられた。
いや、誰かじゃない。さっき式中に振り返っていた、非常識女だった。
俺以外の誰かに話しかけているのかと思ったが、そういう訳じゃないらしい。周りには誰もおらず、その大きな目は俺をしっかり見つめていた。
「……誰、すか?」
「あ、失礼しました。私、香澄雫玖と申します。よろしくお願いします、
香澄雫玖と名乗った少女は、朗らかな笑みを浮かべて頭を下げる。非常識なのか礼儀正しいのかわからないな。
「なんで、俺の名前を?」
「座席表で確認しました。どうしても、聞きたいことがありまして」
「俺に?」
「はい、あなたに」
聞きたいことと言われても……俺と香澄雫玖は今日が初対面で、なんなら話したのも今が初めてだ。昔離れ離れになった幼なじみとか、近所に住んでいた子というのもあり得ない。何故なら俺の人生に友達はいないから。
周りを見るが、廊下には誰もいない。全員、教室の中で先生を大人しく待っているみたいだ。
「……聞きたいことって?」
「香りです。無月さん、すごく何も感じないんです」
「香り?」
思わず、自分の服の匂いを嗅いだ。降ろしたての新しい制服は、特に汗臭さも変な臭いもしない。新品そのものだ。
まさか体臭? でも、それも指摘されたことはないんだけど。指摘してくれるような奴はいないけどさ。
「あ、違います。臭いとかじゃないんです。むしろ、体臭的には同級生の中でもマシな方ですよ」
「それフォローになってる?」
何が言いたいのかさっぱりわからない。変なこと……じゃないよな?
香澄は周りをきょろきょろと見渡すと、内緒話をするように少しだけこっちに詰めてきた。その拍子に、ブレザーの上からでもわかる豊満な胸が触れそうになる。やめろ近付くな。後々面倒くさいことになりそうだから。
それでも問答無用で詰めてくる香澄は、声を抑えて語り出した。
「実は私、すごく鼻がいいんです」
「……鼻がいい?」
何を言っているのかわからず、オウム返しで聞いてしまった。何を言っているんだ、こいつは。鼻がいいってどういう意味だ?
香澄はにこやかに頷き、話を続ける。
「私、人の感情が香りとしてわかるんです。楽しい時はフルーティな匂い。悲しい時は湿った土みたいな匂い。怒っている時はスパイシーな匂い。でも無月さんからは、何も感じないんです。今だって、私に近付かれてもまったく香らなかった。こんなこと、初めてです」
「……それって、もしかして自分のことを可愛いと思ってる?」
「可愛いかはわかりませんが、胸の大きさは相対的に見て同級生の中では大きい方だと自負しています」
それは否定しない。確かに彼女の言う通りだ。でも、それだけで下心を丸出しにしたり、欲情を全面に押し出すほど、愚かなことはないだろう。
「無月さんはあの体育館の中で、唯一何も香らなかったんです。これからの学校生活に、緊張や不安、楽しみといった感情が一切感じられなかったんです。どうしてあなたからは、何も香らないんでしょうか?」
眉間にシワを寄せ、目の前の少女を見つめる。この子が何を言っているのか、理解が追い付かない。
そんな話、誰が信じると言うんだ。他人の興味関心を引くなら、もっとシンプルな話題の方がいいだろう。
結論、変な女。こういう女には、関わらないに越したことはない。
「くだらない話だな」
香澄に背を向けてトイレに向かう。だが、何故か香澄も後ろからついて来た。
「こんなにも感情の匂いが無い人、人生で初めて会いました。私、もっと無月さんのことを知りたいです」
「知っても得がないぞ。ただのつまらない男だ」
「そんなことありません。人にはそれぞれの人生があり、それぞれの想いがありますから」
人生? 想い? ……くだらない。それこそ本当に、くだらない。
俺の人生に意味があるのか。想いなんてあるのか……知ったこっちゃない。俺が知りたくないものを、なんで赤の他人のこいつが知りたがるんだ。
「無月さんは、好きなものとかあるんですか?」
「なんだ、突然」
「世間話の延長です。因みに私は、自然豊かな場所が好きです。混ざりっ気のない大自然の匂いを嗅ぐと、心が癒されるんですよ」
聞いていないことをぐいぐいと……。
「俺が考えていること、教えてやろうか」
「面倒くさい女、ですよね。少しすえた匂いがするので」
「……自覚があるならやめろ」
「言ったじゃないですか。世間話の延長だと。あ、でも海は苦手です。磯の香りが強すぎるので」
また、聞いてもいないのに。
ひたすら無言で廊下を進むが、香澄は俺のリアクションも確認せずおっとりとした口調で話しを続ける。空気が読めないというかなんというか。
「それでですね」
「……おい、香澄」
「はい、なんでしょうか?」
「男子トイレにまで入って来るつもりか?」
「え? ……ッ⁉ しっ、ししししし失礼しました……!」
顔を真っ赤にして、慌てて俺から離れる。話に夢中になって気付かなかったみたいだ。
変な女……いや、天然なのか? どちらにしろ、俺の今までの人生でいないタイプの奴だ。まあ、匂いで相手の感情がわかるなんて堂々と言う酔狂な奴、何人もいる訳ないんだけど。
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