わたしたちのオベリスク

川口健伍

わたしたちのオベリスク

 怒りではなかった。憎しみでもなかった。

 ただを破壊することが重要だった。

 彼女に会える。その一念でリョウはここまで来た。

 街の中央にお椀をかぶせたような山がある。名前は知らない。単に御山おやまと呼ばれていた。山頂付近には、戦国時代の山城から造成された公園が広がっていて、市民にはランニングコースとして親しまれていた。

 公園の中心には巨大な串塔オベリスクがそびえている。昭和のはじめに建造された、空を支える巨大な無線塔だ。旧帝国海軍が御殿場の跡を巨大な無線電信基地として造成した、その名残だった。

 わたしたちのオベリスク、と彼女はその無線塔を呼んでいた。

 リョウはを壊したかった。ここが世界の中心であり、この欺瞞に満ちた星空の中心なのだと、強く確信していた。

 彼女は、リョウが親しくしていた女の子だった。誰しも幼い頃にはそういう存在がいるだろう。幼い頃は仲が良かったのに年を経るごとに気がつくと疎遠になってしまう、そういう関係だ。

 だが、彼女の場合は違った。言葉通りにいなくなってしまった。疎遠になったわけではない。本当にいなくなってしまったのだ。ある日を境に、名前はおろか顔すらもぼんやりとして思い出すことができなくなってしまった。ついこのあいだまで一緒にいたような、ずいぶん昔にいなくなってしまったような、どちらともつかない曖昧な記憶しか彼の中には残っていなかった。だんだんとその記憶すら薄れていき、朝起きた瞬間に内容を忘れてしまう夢と同じものになっていた。

 だが、リョウは思い出した。高校に入学して間もない春のある日、風がまだ冷たい学校の屋上でクラスメイトと談笑していたときだった。不意に空を見上げて――ここにもうひとり誰かいたはずだ、と思った。思ってしまった。そしてそれはすぐに強い確信に変わった。

 彼女がいた。

 その思いは、下校時の土手を自転車で走るときの隣の空白だったり、湯船につかって顔を洗っていたときに思い出す笑顔や、グループメッセージで彼女にどんな目配せを忍ばせようか考えるときだったりと、日常のなかで不意に想起した。

 誰かいたはずだ――その狂おしい感情はリョウを魅了した。

 気がつくとその感情を求めて――彼女に会うために、リョウは初夏の街をふらふらと歩き回るようになっていた。

 当初は思うように彼女に出会うことができず、ただやみくもにさまようだけだった。それでも満足していたが、だんだんと出会う頻度も少なくなり――物足りなくなってしまった。その頃には、ぼんやりとだが彼女は場所と時間に連動していることをリョウは理解しつつあった。

 だからリョウは記録することにした。真夏の熱帯夜、汗ばんだ手ですべる携帯端末の地図アプリを開き、想起したタイミングと場所をポイントしていった。補導員の目をかいくぐって、自転車を走らせ続けた。

 すぐに結果は出た。街の中心に大きな穴が空いていた。街の中央、御山の城址公園から放射状に、彼女を思い出す頻度が高くなっていた。

 リョウは子どものころに城址公園に登ることを禁止されていた。記憶にないが、不審者による連れ去り事件が発生し、心配性の母親が御山に近づくことを禁じたのだ。そのことを特に疑問に思うことなく、リョウはいままで生きてきた。

 不意に気がついた。

 連れ去られたのは彼女だったのではないか――。

 彼女がいなくなったのは、御山の城址公園だ。

 強い確信をもって、リョウはここまで来た。ここに来れば彼女に会うことができる。根拠もなく、だが、信じていた。

 植え付けられた忌避感に抗って、リョウは御山の城址公園にやってきた。

 暗く重く湿度の高い夜の空を突き刺すように、無線塔が、オベリスクが重くそびえている。

 リョウは立ち尽くしていた。

「なにも、気がついてないんだね」

 目前に立つと、無線塔は巨大なコンクリートの壁にしか見えなかった。その異様に圧倒されていた、わけではなかった。

 リョウは彼女のさみしげな笑顔を目前に幻視していたのだ。

 いつかどこかで、しかし確信を持って最後に見たと言える――彼女の笑顔だった。

 身体の奥底からわきあがってくる濃密な感情に堪えられず、リョウは倒れ込むように膝をつく。ジーンズの上から砂利のするどい痛み――リョウはどうにか意識を保つ。

 なんだこれは――いままでにない強い感情にリョウは見当識を失いつつあった。

 同時に、やはり彼女は実在したのだと確信し、どこか安堵すらしていた。

 ならば、壊すしかなかった。

 この空を支える無線塔を破壊し、彼女を取り戻す。

 これが、ここが、この場所が、彼女を連れ去ったのならば、リョウがやるべきことはひとつだった。

 彼女を思い出した春の日から街を徘徊する盛夏の夜を通じて、リョウはひとつの事実に気がついていた。

 空に動きがなかった――雲は流れていた。太陽は規則的に昇っていた。だが、一度も月を見ることはなく、夜空に浮かぶ星に動きがなかった。天球の動きにまったく変化がないことに、リョウは気がついた。いつもまったく同じ星空で星座は見つけることもできず、リョウが教わった知識とはまったくかけ離れた事実がそこにあった。

 ここは間違っている。自分が知っている世界ではない。違う世界だ――彼女の存在を強く確信すると同時に、彼女のいないこの世界が絶対に間違っているという思いがどんどん強くなっていった。

 中身のない空、空っぽの星――レプリカの天空を、リョウは壊したかった。

 

 そうだ、自分はこんな嘘みたいな世界から逃げ出したかった。どこかにきっと本当の世界があって、そこにはきっと彼女がいて、放課後に毎日くだらない話をしながら、彼女の、ピアノを止めたのに抜けきらない机を弾く癖を気がつくたびに茶化すのだ。

 リョウは柵を越え、オベリスクへと這いずっていく。

 ただ壊すことだけを一念に、リョウは無線塔へ取りつく。

 コンクリートの表面に両手を当てて、その冷たさに意識が冴える。

 光がさすように意識の奥底から力が流れ込んでくる。

 この塔の、壊し方だった。

 。壊したいと念じることで、壊すことができる。

 リョウにはとても簡単なことだった。その一念で御山の城址公園へとたどり着いたのだから――。

「壊れろ」

 リョウは念じた。

 瞬間、当てていた両手から幾何学模様に光が走り、塔の先端へと登っていく。光跡を追いかけるようにリョウの手元から光が溢れ出し、無線塔の外壁が内側から弾け飛んでいく。なんの衝撃もない――音も熱さも痛さも感じなかった。強い光が夜闇を切り裂き、リョウの視界を真っ白に塗りつぶす。五感が失われ――リョウはすべてを思い出した。

 あの星空は、我々人類が目指すべきその星空なのだ。



 リョウは目覚めた。肉体がプリントされ、データ意識のインストールが無事に終わったのだ。肉体年齢は二十代半ばの男性に設定されていた。

 いま、すべてを思い出していた。

 焦る気持ちを抑えてリョウは環境適応スーツに着替える。ここでの制服だ。着方は思い出していたので簡単なことだった。無重力のなか、まだ思うように動かない身体を駆使して、煩雑な手順をひとつひとつこなしていくことが、ただただリョウを焦らせた。

 時間の経過を思う。主観時間でリョウは自分が高校生でもなく二十代半ばでもないことはわかっていた。

 だが、目覚める直前までの感情が強くあとを引いて、リョウは涙が止まらなかった。

 ようやく彼女に会えるのだ。

 顕現室プリントルームを出て、硬質な印象を与える柱廊チューブのなか視界に浮かぶ光の点を追いかけるように無重力を泳いでいく。だんだんと身体の使い方に慣れてくる。移動の速度をあげる。

 中央部にある基幹管理室に辿りつく。

 隔壁を開き、なかに入る。

 薄暗い照明のなか、女性が膝を抱えて宙に浮いている。リョウと同じ、だがどこかくたびれた環境適応スーツを着込んでいる。

 リョウが入ってきたのに気がついて、女性が顔をあげる。

「ようやくお目覚めか」

 彼女だ――リョウは泳ぎ寄る。勢いそのままに彼女に抱きつき、くるくるとゆっくり回りだす。

「え、どうして泣いてるんだ?」

 理解できないという顔をして、彼女はリョウを反対方向に押しやることで力の向きベクトルを相殺した。歳は取っていたが、彼女に間違いなかった。

「まあいい。すぐに始めよう」

 そう言うと妙齢の彼女は疲れた顔を隠そうともせず、リョウへの引き継ぎを開始した。

「すでに顕現プリント時の刷り込み記憶で把握しているとは思うが、君はいまから五千時間のあいだこの播種船オベリスクの管理業務を担うことになる」

 主な業務は、播種船の保守点検機械の管理と決裁、人類五千人の遺伝子と意識が記録されたデータ端末、そこから生成された情報生命体コーパスと彼らが生き延びるためのVR空間の管理だ――もちろんその他にも細かな作業はいくらでもある。だが、わかっていると思うが、もっとも困難な業務がある――。

 彼女は言葉を噛みしめるように、人と話すことを惜しむように、ゆっくりと説明した。

「いや、これは野暮というものか。――しかしいまさら愚痴っても仕方がないが、最初に説明されていたことだとはいえ、交代勤務などやはり前時代的にすぎるとは思わないか……。地球を出るときに資源リソースをもう少し確保できていれば、な」

 あそこで負けていなければまだしも、と彼女はぶつぶつと呟き続ける。染み付いてしまった独言と、ピアノを弾くように虚空を叩く手癖――リョウがそのことを指摘する前に、彼女は壁を蹴り隔壁まで飛んでいく。

 隔壁が開いて、彼女は管理室の外に出る。

 閉まる瞬間、彼女はリョウを振り返り、どこかほっとしたような顔を見せた。

「これで私もようやく寝られる。まだまだ目的地は遠いが、それでも星は変化している。なに、君なら耐えられるだろう」

 隔壁が重々しく空気を押し出して閉まる。

 涙はすでに乾いていた。

 こうしてリョウはあるべき世界に生まれ直した。

 串塔オベリスクのかたちをした播種船が、数多あまた星きらめく絶対零度の宇宙を突き進む。その船の、ただひとりの管理人として。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

わたしたちのオベリスク 川口健伍 @KA3UKA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ