鬼龍院家の一族―The evils' house―
犬神日明
第1話
「お、お父様!お父様!」
5月の早朝。鬼龍院家の屋敷の中で誰かが叫んでいる。走り回る足音が鳴り響く。屋敷の中はかなりの広さらしく足音はなかなか鳴り止まない。
「良、何事ですか?朝っぱらから騒々しい。」
鬼龍院家の長女、鬼龍院雪世が弟の長男、鬼龍院良を呼び止めた。
「ああ、雪世姉さま、お花が、お花がっ!」
良は左手の人差し指で庭先の一点を指差している。雪世は伸び上がってそこを見るが、庭木があるだけで何も見えない。
「いったいお花がどうしたと言うの?」
幼子がイヤイヤをするように良は首を振っている。
「お父様を、お父様を…。」
「お父様なら奥の百世の部屋においでだろう。」
雪世が告げると、良は雪世を置いて奥の間へと走って行く。ため息を漏らした雪世は、良が差し示した方角に歩き出した。歩きながら腕時計を確認する。
「まだ朝の5時半じゃない。良は気が弱いから。」
長い縁側を曲がると、庭木が置き石に変わる。様々な置き石の中に一際大きなごつごつとした岩がある。古くから鬼龍院家に伝わる“鬼哭きの岩”。そこに和装の若い女の身体が寄りかかっている。だがそこに在るべきものの存在が無い。在るべきものとはその頭部である。ほぼ肩口から切取られ、流れ出た血が薄桃色の着物をどす黒く染めてしまっている。雪世にはその着物に見覚えがあった。雪世自身が半年ほど前に、女中のお花にあげたものだからだ。お花は大いに喜んで、大概はその着物を着ていた。首の無い遺体を良がお花だと判断したのは、そのことを知っていたからだろう。
どうにも足が動かない。だがそこに或る物を見つけ興味が湧いて、一歩ずつ前へと進んで行く。お花の死体の胸の辺り、一枚の和紙が乗っている。そこに墨文字で何かが書いてある。鬼哭きの岩の正面、つまりは死体の正面まで来た時にその文字の内容が分かった。
「試し斬り?」
「なんだ、朝っぱらから。いったい何が起こったと言うのだ!」
奥の間の方角から父の鬼龍院為五郎と三女の鬼龍院百世、良の順番でやって来た。雪世の視線の先に目をやった為五郎は声を上げる。
「あっ‼」
何気なくそこを見た百世が気を失ってしまう。それを良が後ろから抱きとめる。
「あれは、誰だ?誰が死んでいる?」
為五郎が放った疑問には誰一人として答えない。続いて鬼龍院家の主は息子に指示を出す。
「良!何をしている。早く警察に知らせなさい。」
雪世が死体から目を離さずに言った。
「いいえ、お父様。警察ではここまで時間がかかります。先ずはこの先の白水館に連絡してはいかがでしょう?」
娘の告げた意外な名前に為五郎は訝しんで見せる。
「なんで白水館に?あそこはただの旅館じゃないか。」
雪世が父親に目を移しその訳を答える。
「あそこには今日本有数の名探偵が二人、泊まっておられるのです。昨日東京からの帰りの電車でご一緒でしたので、私はそれを知っているのです。先ずはあのお方達に観て頂いて、警察には連絡しておくだけで宜しいでしょう。」
それを聞いた良が自身のスマホを取り出してタップし始めた。電話を終えた良が父と姉に伝える。
「先ずは警察に電話しました。交番から田辺巡査が来るそうです。樋口先生にも電話しておきました。白水館にも電話して、伝言を頼みました。何でも四人居られるそうです。」
「四人?あら、電車ではお二人でしたけれど。」
雪世が不思議そうに言った時、玄関の方から足を擦るような足音が聞こえて来た。
「朝っぱらから集まって、いったい何の悪だくみかしらね?」
為五郎の母親、鬼龍院松であった。そのラフな服装から考えると、朝の散歩の帰りらしい。為五郎が顎で鬼哭きの岩を指し示す。示された方向に顔を向けて、松の顔が驚きの表情を現した。
「誰?誰が死んでいるの?」
松も為五郎も女中の服装などは気に掛けてもいないらしい。
「お花だと思います。私があげた服を着ていますので。」
雪世が告げると祖母が別の事を問いかけた。
「警察にはもう?」
「それは僕が。」
声を掛けた良を一瞥してから、松はサッサと自室に向かって歩き去って行く。
女中頭の高田に案内されて、田辺巡査と樋口医院の樋口医師がやって来た。
「ひ、ひぃぃやぁぁぁ!こりゃあ、いったい全体何がどうしてこうなったんでしょうか?」
一番にやって来た田辺巡査が腰を抜かしかけている。
「それを調べるのがあんたら警察の仕事だろうがっ。」
為五郎が一喝すると、田辺巡査は縮こまってしまう。身を縮めたまま田辺巡査は手帳とペンを取り出した。
「ええと、被害者は門前花さんということで宜しいのでしょうか?」
「そうだと思います。」
雪世が答える。
「現場は発見時のままでしょうかね?」
為五郎と雪世が頷いて見せる。樋口医師が死体を見に行こうとするのを、田辺巡査が慌てて引き留める。
「なんですか、こんなところからでは何も分からんじゃないですか?」
その時玄関の方角から、高田が足早に向かって来た。なるべく庭の方を見ないようにしながら主に向かって声を掛ける。
「あ、あのお客様がお見えでございます。」
「お通ししてちょうだい。」
雪世が答え、歩き去る高田を見送る。少し間が空いてドタドタと足を踏み鳴らして、四人の男性がやって来た。
「どうもどうも、警視庁の驚木です。」
恰幅の良い男性で、ポロシャツの腹の部分が妊婦のように膨らんでいる。
「同じく警視庁の工藤です。」
身長は180センチ以上だろう。引き締まった身体は、恐らく俊敏さも兼ね備えているだろう。
「あの~、僕ぅ金玉一ですぅ。」
よれよれの着物によれよれの袴。手にはさらによれよれの帽子を持っている。
「白痴金剛郎と申します。」
真っ白なジャケットに同じ色のポロシャツ、履いているチノパンの色も白い。
「へ?警視庁の驚木さんと言ったら、あの警視庁一の名探偵驚木警部であられますか?」
田辺巡査が眼を剥いて言った。
「それに加えて金玉一さんと白痴さん。今日本の三大名探偵が我が家に集まっておられるのね。」
雪世が驚木に右手を差し出した。応じた驚木は力強く握り返す。
「これも何かのご縁でしょう。たまたま白痴さんと金玉一さんをご接待しておりましたところへ、ご一報を頂戴しました。」
雪世が金玉一と白痴に向き直る。
「お二人とは昨日ご挨拶をさせて頂きました。こちら父の鬼龍院為五郎、弟の良、倒れているのは妹の百世でございます。」
「はあ、その辺りは後ほど出来ましたら、家系図か何か拝借できれば有難いですね。」
金玉一はそう言ってから、何気なく庭を見た。
「ひやぁあああ!」
腰を抜かす金玉一。白痴、驚木、工藤もそこに振り返った。
「ほほぅ、首なし死体か。これは金玉一さんの御専門ではないですか?」
チラッと金玉一を見てから白痴は靴下のまま庭へ降りる。
「先生、お待ちください、慎重に、慎重に。」
驚木が両手を抑えるような格好をして注意を与える。そんなことは気にもせず白痴はスタスタと死体に向かう。
「試し斬り?」
死体の胸の和紙の文字を読みとったらしい白痴は、独り言のように呟いた。
「試し斬り、ですか?」
起き上がった金玉一が、白痴に問いかける。
「ええ、そう書いていますね。これはかなりの達筆だ。」
白痴はしげしげと和紙を見詰めながら、呟くように言葉を発する。
「私はもう下がっても宜しいかな?」
鬼龍院為五郎が驚木警部に向かって問うた。
「ええ、ご自宅にいて頂ければ。」
為五郎に答えてから、驚木警部は樋口医師に向かって問いかけた。
「あなたは?」
「私は医者です。樋口と申します。良君から電話をもらいましてね。鬼龍院家とは付き合いが長いのでね。来てみたのですが、どうやら私は不要なようだ。探偵は見て良くて、医者はダメだなんて。まったく馬鹿にしないで欲しいもんです。」
樋口医師はスタスタと玄関に向かって歩き去って行く。驚木警部は田辺巡査に向き直る。
「君、県警の鑑識は何時になるんだ?」
「さあ、どうでしょうか。何しろこの村で大きな事件など、それこそ150年ぶりの…。」
そこまで言って雪世と目が合い、田辺巡査は目線を落とした。
「どうしたのです?150年というと1875年、明治8年のことですか?」
工藤刑事がスマホで確認しながら確認する。
「ええ、まあ、そうなりますか。」
口籠る田辺巡査に変わり、白痴探偵が口を開く。
「ははあ、何処かで耳覚えがあるとは思っておりましたが…なるほど此方があの鬼龍院さんのお宅でしたか。」
「鬼龍院…?そうか鬼龍院家事件の?」
金玉一探偵が身体を起こし、物問いたげに雪世を見詰める。ため息を吐いた雪世は俯いてから囁くように言葉を紡ぐ。
「その事でしたら、後ほど。今は捜査の方をお願いいたします。」
「そうですな。先ずは状況を確認しましょう。君ね、県警に時間を確認しておいてくれたまえね。」
驚木警部は田辺巡査に告げてから、庭を見下ろし丁寧に見回した。工藤刑事も同じようにしている。
「足跡が残っていますね?」
「ああ、一人分にしてはちょっと深いよな?恐らくは犯人が被害者を運んだ時のものだろう。」
工藤刑事と驚木警部の会話が続く中、金玉一探偵は件の足跡の後を追って行く。
「ははぁ、ここから庭先に降りたのか。」
金玉一が元居た場所と、それほど遠くない縁側から足跡は始まっている。一方の白痴探偵は死体の傷口を丹念に観察している。
「ふむ。かなり鋭い刃でやられているな。背中の方は分からないが、他に傷口は無さそうだ。生きたまま首を切断したのか?なんとまあ惨いことを…。」
「まあ鑑識が来るまで触らん方が良いでしょう。我々はこの家の人たちからお話を聞いておきましょうか。」
驚木警部はそう言ってから雪世に願い出た。
「どこかお部屋をお貸し願えませんか?そこで順番に皆さんからお話をお伺いしたいのです。」
雪世は頷いてから先に立って歩き出す。
客間は洋風になっていて、豪華な応接セットが備え付けられている。テーブルを中心に三人掛けのソファが向かいあっており、テーブルの側面には一人掛けのソファが向かい合っておかれている。下座に当たる三人掛けのソファに驚木警部と工藤刑事が陣取り、一人掛けのソファには白痴探偵と金玉一探偵が陣取った。その周囲には鬼龍院家の住人と雇人が立っている。
「皆さんには順番にお話を伺います。先ずは我々の自己紹介を済ませてしまいましょう。」
驚木警部が立ち上がって口火を切った。
「私は警視庁の驚木です。此方にはたまたま休暇で来ておりました。」
「同じく警視庁の工藤です。」
工藤刑事も立ち上がり、ぺこりと頭を下げる。金玉一探偵、白痴探偵の順番で立ち上がる。
「あの、僕は金玉一です。一応探偵を名乗っております。」
「僕も探偵をやってます。白痴金綱郎と申します。」
金玉一探偵と白痴探偵も自己紹介を済ませた。二人の名前を聞いて何人かがざわつく。
「では皆さんも先ずはお名前だけ教えて下さい。」
驚木警部は主の為五郎に向かって言った。
「鬼龍院為五郎。今は私がこの家の当主だ。」
為五郎は何故か母親の松の方に顔を向けている。
「松でございます。今は隠居生活でございます。」
松が軽く頭を下げて言った。続いて中年の女性が一歩前に出た。
「鬼龍院摩耶です。為五郎の妻です。」
深々と頭を下げて見せる。色香が漂うような女性である。雪世が良に向けて右手のひらを差し出した。姉に促された形で良が口を開いた。
「良です。当家の長男です。」
「雪世です。白痴先生と金玉一先生には昨日ご挨拶を済ませていますわね。鬼龍院家の長女です。」
頭を下げた雪世に、白痴と金玉一が軽く頭を下げ返す。
「知世です。この家の次女でございます。」
細身の女性が頭を下げた。恐らくは10代後半であろう。続いてまだ10代前半と思しき少女が名乗る前に頭を下げた。
「あたし百世です。末っ子やってます。」
あどけない百世の言葉に白痴は僅かに笑みをこぼす。
「高田弥生です。お屋敷に仕えさせて頂いて、もう30年になります。」
年配の女性が慇懃に頭を下げる。白衣の男性がそれに続く。
「私は熊本大吾です。鬼龍院家の料理人になる前は、二つ星のレストランでシェフをしておりました。」
胸を張って言い終えた後、反対に背を丸めた老人がぼそりと言った。
「へぇ、元吉でがす。長崎元吉。お庭番をさせて頂いてます。」
「これで全員ですか?もう他にはおられませんか?」
驚木が尋ねるとそれには摩耶が答えた。
「ええ、たまに手が足りない時は、ご近所にお願いすることはありますけれど。」
「お母様、それとお花が居るじゃありませんか?」
良が言うと母親は怪訝な顔になる。
「居た、でしょう?花は死んでしまったのですから。」
「そいつはまだ分かりませんよ。ちゃんと確認して見ませんとね。」
白痴が親子の会話に口を挟む。
「だって首を斬られていたのでしょう?もう死んでいるんじゃありませんか?」
摩耶が白痴を睨むように見つめる。
「いえ、ちゃんとDNA鑑定をしないと分かりません。肝心の頭がないのですから。」
金玉一が手をひらひらさせて声を上げるが、摩耶に睨まれて俯いてしまう。
「そちらは鑑識が調べた後に分かる事です。とにかく誰であろうとも、この鬼龍院家で人が亡くなっているのは事実です。犠牲者は犬や猫ではないのです。」
驚木が強い口調で言い放つ。場の空気に緊張感が高まった。
「では為五郎さん。あなただけ残って下さい。後はそうですね、高田さんは部屋の外で控えて置いて頂けますか?順番に皆さんをお呼びする際に繋ぎ役になって頂きたい。」
工藤がテキパキと指示を下す。指示に従って為五郎以外の鬼龍院家の関係者が客間から居なくなった。
「さて、鬼龍院さん。今回はご災難でしたね。まあお座り下さい。」
驚木が言い終える前に、為五郎は三人掛けのソファの真ん中にどしんと腰を降ろした。
「あんたに指示されんでも、自分の家だ。遠慮せずに座らせてもらう。」
50代後半だろうか。もしかすると60歳を超しているかもしれない。だがその顔は脂ぎっていて、年齢以上の精力がみなぎっている。
「先ず伺いますが、花さん、門前花さんというのはおいくつで何時からお宅にお勤めでしょうかね?」
工藤の質問に為五郎はそっけなく答える。
「そんなもん、いちいち覚えとりゃせんよ。誰か他の者に聞いてくれ。」
「そうですか。因みにあなたは昨日は何方に居られましたでしょうか?」
工藤はジッと為五郎の目を見て質問する。
「なんだ?この私を疑っているとでもいうのか?」
目を剥く為五郎。僅かに腰を浮かせた。
「貴様、所属は警視庁と言ったな?あそこには知り合いもいる。無礼を言うとただでは済まさんぞ。」
「まあまあ、鬼龍院さん。こういったことは皆さんにお聞きすることですよ。何も貴方にだけお聞きするわけではありません。」
驚木が宥めると、為五郎はまた全体重をソファに預け直した。
「で、昨日は何方に居られました?」
工藤と同じ質問を今度は驚木が繰り返す。
「昨日ね。昨日は家に居りましたな。一度も外へは出ておりません。」
「黒いハンチング帽子。」
それまで黙って会話を聞いていた白痴が、いきなり会話に割り込んで来た。ハッとした顔になった為五郎が白痴に顔を向ける。
「あなたはそれをお持ちでしょう?側面に竜の刺繡が施された。ね?それを被って昨日の4時ころ駅に居られましたよね?」
「アッ⁉」
為五郎の身体がビクンと揺れる。
「ほほう、流石は白痴さん。観察力、記憶力は流石ですね。」
工藤が面白そうに為五郎を見る。
「そんな、黒いハンチングなど誰でも持っているでしょうよ。」
言った為五郎の額に僅かに汗が浮かぶ。
「あれはハンターワールドの限定品ですよね?日本では出回っていない筈だ。」
白痴の言葉で為五郎の額から汗が滴り落ちた。
「…まあ、駅前に煙草を買いに行くくらいはしたかもしれん。」
落ち着か無げに煙草を取り出し、据え置きのガラス製の灰皿を引き寄せた。煙草を咥え火を点ける。大きく吸い込んでから、プーッと長く煙を吐き出した。
「妙ですね。僕が拝見したのは駅の中でした。ここの駅中には売店はありませんでしたよね?」
白痴の目は為五郎のそれを捉えて離さない。一服しただけの煙草を揉み消し、為五郎は立ち上がる。
「まだ終わってはおりませんよ?」
工藤が呼び止めるのも聞かずに、為五郎は部屋を出て行ってしまった。
「まあ正式な事情聴取は地元の警察に任せるとして。いったい何を隠しているんでしょうかな。」
驚木が為五郎が去った扉を見詰めたまま言った。肩を竦めてみせた白痴は金玉一に問いかけた。
「金玉一さん、君はどう感じましたか?」
「はあ、どうにも僕は居丈高な人物は苦手でしてね。ただ何でしょうかね。自信が無いように見受けられましたがね。」
金玉一の答えに白痴も頷いて見せた。
「最初の自己紹介の際に、あの人は母親を妙に気にしていましたね。鬼龍院家では恐らく最近まで母親が当主だったのではないでしょうか。」
「では次は母親にしましょうか?」
驚木が頷くのを待って、工藤が扉に向かう。扉を開けて女中の高田を呼び寄せる。二言程話してから工藤が戻って来た。
客間に入って来た松は、洋装に着替えを済ませている。この年齢にしては若作りの部類に入るだろう。何か話しかけられる前にソファに腰を掛けた。
「さて。何でも聞いて下さいな。あたくしに隠し事はございませんので。」
そこでテーブルの上を見やり、首を振り向けて声を上げる。
「弥生。ここへおいで。」
軽くノックされた扉が開き、高田弥生がおずおずと入って来る。
「はい、御用でしょうか?」
「なんですか、お客様にお茶も出さないで。早く持っていらっしゃいな。」
ピシャリと言い放ち驚木たちに向き直った。
「ですけどあたし、刑事さんに…。」
「言い訳無用。あなた鬼龍院家に来て何年になるの。段取りをお考えなさい。」
振り返りもせずに説教し、驚木に向かって頭を下げた。
「不調法で申し訳ございませんわね。」
高田はくるりと振り向いて部屋を出て行った。
「では質問させて頂きます。あなたは昨日どちらに居られましたか?」
工藤が尋ねると松はすらすらと答える。
「昨日は朝の散歩の後、食事をしてから午前中は公民館で句会がありましてね。その後は映画館に映画を観に行きました。」
「映画ですか?ということは何方まで?」
工藤が確認すると松は誇らしげに答えた。
「こんな田舎でも映画館はありますのよ。鬼龍院家が寄贈しましたの。まあ名画座ですけれどね。」
驚木が驚いて言った。
「それは凄いですね。今は都会でも名画座はどんどん廃業してしまっているのに…。」
「して映画は何をご覧になられたのですか?」
金玉一が横合いから尋ねる。
「“四畳半色欲の果てに”ですわ。ピンク映画の傑作です。」
松がどうどうと題名を告げた。
「あ、はぁ…。」
金玉一は口籠ってしまう。ノックの音が聞こえ、高田がお盆に茶碗と急須乗せて入って来た。高田は少し迷ってから白痴から順番に茶を配り、最後に松の前に茶碗と急須を置いて頭を下げて去って行った。
「いや、これは香りが良いですね。」
驚木がまた驚いている。
「どうぞ召し上がって。」
松が勧めると驚木が早速茶碗に手を伸ばした。金玉一、白痴、工藤もそれに倣う。
「これは美味しいお茶ですね。」
金玉一が感心している。
「御茶所は静岡、狭山、宇治だけじゃございませんのよ。鬼龍院家では無農薬の茶葉を育てておりますの。」
自慢げに言った松が自らも茶碗に右手を伸ばした。
「指をどうされたんですか?」
金玉一が声を掛ける。伸ばした手を引き戻し、左手で隠すように右手に添えた。
「なんでもありません。ちょっと包丁で斬ってしまって。」
「あなたもお料理をされるのですか?料理人がいるのに?」
白痴が尋ねる。松がキッと白痴を睨みつける。
「失礼な。あたくしも女の端くれでございますのよ。料理くらいいたしますわ。」
プイっと白痴から顔を背け、彼女と目が合った金玉一が目を伏せてしまう。
「映画の後はどうされたのですか?」
工藤が質問を続ける。落ち着きを取り戻した松は、工藤に向き直って口を開いた。
「それからは家に帰りました。」
「誰かにお会いになりましたかな?」
驚木が口を挟む。今度は驚木に向き直って松が答える。
「はい、それはもちろん。ですが誰だと言われても困りますわね。あちらではご存じでも、わたくしは存じ上げない方々ですのでね。」
驚木がチラッと工藤を見てから、質問を重ねた。
「まあその辺の確認は県警に任せましょう。因みになんですが、為五郎氏がご当主に成られたのはいつの事でしょうか?」
「10年前からです。夫が亡くなってからは、為五郎が当家の当主です。」
白痴と金田一が顔を見合わせる。さも意外だと言う顔色は一致してる。
「で、お家に戻られてから今朝までは?」
工藤はあくまでもアリバイに拘っている。
「お夕食を頂いて早くに寝てしまいました。まあいつものことですけれど。それで朝4時過ぎからお散歩してましてましたわ。」
松がそこまで答えた時。
「いやぁぁぁぁああああーーーー!」
屋敷の何処かから絶叫が聞こえて来た。真っ先に立ち上がったのは白痴で、工藤、驚木、金玉一が順に続く。松は座ったまま首だけを客間の扉に向けている。
扉を開けて走り出す白痴と工藤。驚木と金玉一もその後を追って行く。
「何処ですか⁈何が起こったというのです?」
先頭を走る白痴が声を張り上げる。
「此方です。縁側からお回りください。」
良の呼ぶ声が聞こえて来る。一行は縁側に向かい、そこから奥に向かって行く。現場保存に勤めていた田辺巡査が、一行を心配そうに見つめている。
「君はそこを動いちゃぁいけないよ。」
最後尾になってしまった驚木が言い置いて、腹を揺らしながら走り去って行く。
一番奥の部屋の前で良と雪世、摩耶が立っている。辿り着いた白痴が襖の開いた部屋の中を覗く。
「こ、これは⁈」
そこに白痴が見たものは、地獄の鬼が描いたかのような絵図であった。
「なんと惨い…。」
追いついた工藤が絶句する。工藤の肩越しに金玉一が部屋の中を覗き見る。
「は、はぁぁっ!」
尻餅をついた金玉一は、そのまま庭に転がり落ちてしまった。驚木は右手を伸ばし金玉一を助け起こし、振り向いて部屋の中を見る。
「う、うわっ‼」
大きな身体を仰け反らせ、どうにか縁側に上がって来た金玉一を、その大きな背中で再び庭に落としてしまう。
8畳ほどの和室には若い女が全裸で横たわっている。互いに相手の足の方に頭部を向けている。もっともそこに頭部は無い。見事に首が斬り落とされ、相手の股の間に首を突っ込んでいる。そして二人の胸の間に、日本刀が一本立っている。恐らくは畳にその先が刺さっているのだろう。刀の柄の部分に和紙が貫かれている。その和紙には黒い筆文字で漢字で六と九が書かれている。部屋中が血だらけだ。天井、壁、畳を飛び散った血が赤く染めている。
「知世と百世ですわ。」
雪世がボソリと呟いた。口元を抑えた良も頷いている。摩耶だけは無反応だ。
「何故お分かりになるのです?」
白痴が尋ねると雪世が白痴に振り向いて告げる。
「一人は肩に火傷の痕がありますでしょ?もう一人は脹脛に火傷の痕がある。幼い頃に父に折檻された痕です。」
ドカドカと足音を踏み鳴らし、為五郎が縁側を歩いて来た。
「なんなんだ良、お前は今日は喧しいなっ!」
いかにも邪魔だと言いたげに、そこに居た金玉一を左手で押し退ける。金玉一は三度庭に落ちた。
「さっきのは僕ではありません、お母さまが…。」
「お父様、知世と百世が…。」
口元を抑えたまま言い訳した良の横で、雪世が父親に告げる。
「知世と百世がどうしたというのだ?」
そこで部屋の中を見た為五郎が大声を上げた。
「アッ‼」
白痴と工藤を左右に押し退けて、ズカズカと部屋の中に入って行く。
「知世っ!百世っ!」
「いけない、鬼龍院さんっ!」
白痴が叫んだ時、畳にべっとりと付いた血で足を滑らせた為五郎が二人の上に倒れ込んだ。
「あっ⁉」
雪世が叫んだ時、為五郎の首筋から血が吹き上がった。
「ぐぅぅぅ…。」
声にならない悲鳴を上げて、首を抑えた為五郎は仰向けになってから痙攣し、やがて動きを止めた。絶命したのだ。すると天井から一枚の紙がひらひらと落ちて来た。為五郎の上に落ち、その胸で止まった。そこに筆文字が並んでいる。
「色欲堕落?」
驚木がその文字を声に出して読んだ。
「お姉様、あの刀は…。」
良が横の雪世に話し掛ける。
「ええ、そうでしょうね。鬼龍院家家宝の鬼殺し仁王丸。間違いないでしょう。」
雪世がジッと部屋の中を見つめて言った。
「工藤君、君はこの場に残ってくれたまえ。誰にもいじらせちゃあいけないぜ。」
驚木が命じて一同に声を掛ける。
「我々がここに居てもしょうがない。先ほどの客間に戻りましょう。」
一同が客間に戻りかけた時、松と高田、熊本と長崎もやって来た。先頭に立った驚木が両手で彼らを制あい声を掛ける。
「客間へ参りましょう。皆さんは見ない方が宜しい。」
客間に戻った一行は驚木の指示で席順を決める。摩耶と良、雪世が同じソファに座り、松が一人掛けのソファに座る。白痴、金玉一が三人掛けのソファに座り、身体の大きい驚木が一人掛けのソファに腰を降ろした。雇人は松の後ろで立っている。
「さて。もちろんこれは正規の事情聴取ではありません。本来はお一人ずつお聞きするものです。ですがね。予想外の展開となっております。今この家に居るのは我々捜査関係者と皆さんで全てです。それは間違いございませんね?」
鬼龍院家の人々が頷いた。白痴が雪世に向かって声を掛けた。
「先ずは雪世さん。明治8年に起こったという鬼龍院家事件について、教えて頂けないでしょうかね。」
雪世が頷いた瞬間、松が口を開いた。
「そのお話はいいじゃございませんの。そんな昔話。今回の件とは関係がございませんでしょう?」
「いや、それは伺ってみませんと、何とも言えないのではないでしょうか?」
そう言った金玉一を松が睨んだが、金玉一は優しい視線でそれに答えた。
「お婆様、宜しいではありませんか。あの事件は当時大々的に報道されたのだし、何冊か本にもなっているではありませんか。」
雪世が祖母を制し、とつとつと話し出した。
「明治8年、8月の15日。当時の鬼龍院家当主、鬼龍院十郎が起こした事件です。十郎の友人だった榊繁造氏とその妻珠代さん、自身の妻ヨネ、横居なつめさんを殺害したのです。順番で言うと横居さん、ヨネ、榊氏と榊夫人です。」
「確か嫉妬心からだったと記憶しておりますが?」
白痴が口を挟んだ。
「ええ、そのようです。榊氏と妻のヨネの関係を疑っていたのだそうです。実際には十郎の思い込みだったという結論になっています。嫉妬心の強い十郎について、ヨネは榊夫妻に相談していたらしいのです。思い込みで疑われた榊夫妻は飛んだとばっちりだったという訳です。」
雪世がそう言った時、横から良が口を出した。
「それを言うなら横居さんの方が、よっぽどとばっちりじゃないですか。彼女はただ道を歩いていただけなんですからね。」
「え?すると全くの無関係だったわけですか?」
金玉一が不思議そうに尋ねる。良は頷いて再び口を開いた。
「その時十郎が言ったとされているのが、“試し斬り”という言葉なのです。そして使われた凶器が先ほどの日本刀、鬼殺し仁王丸なのです。」
「え?何で凶器がこの家にあるのです?おかしいではありませんか。」
驚木が驚いている。
「当時の鬼龍院家は、国政にも口を出せたほどの大家だったそうです。県警の幹部など頭が上がらなかった筈です。鬼龍院家が先祖代々伝わる宝刀を手放す訳はないのです。被害者とも金の力で強引に和解したと聞いています。」
「フン。」
摩耶が興味無さそうに鼻を鳴らす。驚木が眉を八の字にして摩耶に尋ねる。
「奥さん、奥さんは今娘さんとご主人をほぼ同時に亡くされたわけですが…失礼ながらあまり悲しまれているようにはお見受けできませんな?」
金玉一がそっと摩耶の顔を盗み見る。白痴は悠然と摩耶の顔を見詰めている。
「あたし後妻なんですの。知世も百世もあたしの血を分けた肉親では御座いませんし、ましてや主人とは、ねぇ?」
言葉を濁す彼女に松が冷たい目を向ける。
「あなたは為五郎の遺産でも狙っておいでなのだろうけれど…鬼龍院家の財産はおいそれと嫁ごときには渡しませんよ。わたくしの目の黒い内はね。」
「フン、あんた独りが息巻いたって、法定相続人にこのあたしだって入ってるんだ。」
小ばかにしたような目を松に向けた摩耶に、松が勝ち誇ったように言葉を放つ。
「為五郎はちゃんと遺言書を残しています。それくらい常識でしょ?」
「何言ってんの?遺留分権利者には例え遺言書があろうとも、最低限の相続割合は確保されんのよ。それくらい常識でしょ?」
今度は顎を上げた摩耶が、見下ろすように松を見る。
「いやはやお二人共気がお早い。まだそんな話をする段階ではないでしょうに。」
驚木が宥めるように言ってから、摩耶に向かってまた問うた。
「奥さん、あなたは本当に金だけで嫁いだのですか?為五郎氏には愛情の欠片も無かったと?」
苦い顔をした摩耶は、ソファの背もたれに身を沈めて言った。
「そりゃあたしだって最初の内は、あの人を愛していましたよ。ですがねぇ、あの人は絶倫すぎて、相手があたしだけじゃ足りなかったんですよ。」
「お母さま、それ以上はお話にならないように。」
雪世が鋭い声で告げる。また鼻を鳴らし摩耶が黙り込んだ。
「あのぅ、僕、ちょっと行って来たいところが有るのですが…。」
金玉一が場違いなことを言い出した。
「そんな、あなた、まだ何も解決しておらんのですぞ?」
咎めるように言った驚木に、詫びるように右手で拝んで見せる。
「良さん、このお家の家系図があればお借りしたい。それとこの村の郷土史のようなものは何処かで見れませんか?」
金玉一は良の顔を覗き込むようにして尋ねる。
「ええ、それでしたら役場に行けばあると思いますよ。僕、ご一緒しましょうか?」
「いえ、あなたは不味い。あなたはこの家に居て貰わないと。」
白痴が慌てたように良の申し出を否定した。
「大丈夫ですよ。地図をお借りできれば、僕一人で行ってきます。」
金田一は頭を下げて客間を出て行く。
「じゃ僕は家系図と地図を出して来ましょう。」
良もその後を追って行った。
「何を考えておられるのか。あの人はいつもああだ。」
ため息を吐いた驚木はさっきの質問へと戻ろうと図る。
「雪世さん、今がどういう状況か良くお判りでしょう?我々には守秘義務がある。ね、信用して教えていただけませんか?」
雪世は俯いて黙っている。
「警部さん、そりゃちょっと酷ってもんですよ。何しろこの雪世さんも、話の輪の中のお人なんですから。」
謎めいたことを言った摩耶が、そのまま松を睨みつける。
「もちろん此方のお母様もね。ねぇ、お母様。あなた昨日は何処に行っていたと、警部さんや探偵さんに申し上げたんですか?」
松の顔は真っすぐに前を見詰めたままだ。だがその額にじっとりと珠のような汗が浮かぶ。
「句会と映画を観に行ってらしたんですよね?違うのでしょうか?」
白痴が両手を胸の前で組み合わせて尋ねる。
「映画?映画ですって?実の息子と乳繰り合うのが、映画になるんですか?ハッ、こりゃアカデミー賞は総取りね。」
ケラケラと笑いながら、摩耶が松と雪世の顔を交互に指さした。
「あんたも、あんたも、知世も百世も、鬼龍院の一族になった女はみんな為五郎の慰み者。あの人が抱きたいときに抱き、呼ばれれば行かなくては家を追い出され路頭に迷う。最近は一番若い百世にご執心だったから、こっちは楽だったけれど。お母様も昨日は久しぶりに呼ばれて、嬉しかったんじゃございませんの?」
松の額から幾筋もの汗が滴り落ちる。だが汗が目に入ろうとも、ただひたすら前を見続けている。もうその思考自体が停止してしまったかのようだ。
良が客間に帰って来た。その場のただならぬ空気に、その身を固めてしまう。
「お姉様、何かあったのですか?」
祖母の異常な姿と、姉の真っ青な顔色に気付きどちらか迷ってから姉に声を掛けた。
「あんたも知っておいでだろう?あの人は隠し立てなどしなかった。為五郎と家族の女たちとの関係こそ、それこそ色欲堕落って言葉がお似合いじゃないか?」
ハッとした顔に成った良はよろよろとソファにもたれ掛る。
「ああ、そのことは言わぬが華なのに…。」
「まさかそんなことが…?」
驚木の顔は驚き一色に包まれている。
「いや、海外ではある話の様ですよ。日本もグローバル化したってことではないでしょうか?」
今この部屋の中で、白痴だけが冷静さを保っている。その後はしばらく沈黙が続いた、誰一人口を開く者は無かった。
「只今戻りました。」
よれよれの帽子を手にして、金玉一が戻って来た。その場の異様な沈黙も気に留めてはいないらしい。
「ありましたありました。欲しかった物がありました。」
戦利品のように大切そうに、懐からいくつか取り出して見せる。
「お借りした家系図と地図。そしてこれが郷土史で、こっちはまだいいか。」
郷土史の後半辺りを開き皆に向けて見せる。
「ここ、ここにホラ、鬼殺し仁王丸について記述があります。室町時代に刀鍛冶の宗光が一年かけて作り上げたとあります。その目的はその頃京都に出現していたと言う鬼、鬼龍という名の鬼を封じる為に作られたとある。その刀でもって実際に鬼龍を成敗したのが、足加賀観音太郎。鬼を退治したことで当時の将軍から鬼龍院の名前を頂戴したと記載されています。」
得意気に話し続ける金玉一を驚木が制する。
「金玉一さん。そんな昔話、今は宜しいのでは?」
「驚木さん、これからが重要なんです。これからが怪奇なのです。」
言ってゴクリと唾を飲み込んで、金玉一が先を続ける。
「鬼は自身を斬った刀に、自らの魂を宿した。その刀を宝刀とした鬼龍院家はその後何十年かに一度問題を起こしています。安土桃山時代には、異教徒とされた大参寺の焼き討ちの際、仁王丸が最も多くの人の血を吸ったとされています。江戸時代には一揆を起こした村人を百人斬りしたという。普通の刀なら何人か斬れば血と脂で斬れなくなる。そんな刀が今回の凶器に使われたわけですよ。」
一気に巻くし立てた金玉一に対し、白痴が声を掛ける。
「金玉一君。君、まさか鬼の呪いというのじゃぁ、あるまいね?それじゃあんまり妄想が過ぎやしないかい?」
「いえいえ白痴さん。僕はこれでどうして自分をまともだと思っておりますよ。」
そこで金玉一は、鬼龍院家の人々の顔を一人一人見て回る。
「これは申し上げにくいんですが、為五郎氏の性欲は異常だったんじゃありませんか?」
ハッとした驚木と白痴が顔を見合わせる。
「郷土史に記述があります。鬼龍院家を名乗るようになってから、当主の性欲は異常になったとある。中でも60年から80年に一度、飛び抜けた異常者が現れている。江戸時代まではその記述があるのですが、それ以降はありません。何某かの忖度があったことが伺われないでしょうか?」
金玉一はその場に居る全員を見回した。
「ある意味でですが、鬼の力を得た鬼龍院家は経済的には隆盛を誇るも、その内情はグチャグチャだったはずだ。為五郎氏は異常な性欲の持ち主ではありませんでしたか?」
誰に聞くともなく聞いた金玉一に、松が一人だけ頷いている。その瞳は涙に濡れている。
「あの子は確かに異常でした。6歳の頃から勃起してましたし、それを収める為にわたくしが手で施したのが8歳の頃。口でしたのが10歳の頃。実際にまぐわったのが12歳の歳でした。最初からわたくしは行かされました。行く、行く、行くって何度も絶叫してしまいました。」
松は初めて摩耶に向け申し訳なさそうな表情になり、直ぐにそれを引っ込めて金玉一に向き直る。
「鬼龍院家では代々それが掟だったのです。他人のあなたにとやかく言われる筋合いはございません。」
キッパリとした口調に、ハッキリとした拒絶の意志が込められている。
「とやかくだなんて。」
たじろいだ金玉一に代わり、白痴が口を挟む。
「あなたは掟と仰るが、それは文章として残っているのですか?それとも口伝えなのでしょうか?」
「…それは…その、文章などは残っておりません。」
言い難そうに松が答える。
「では口伝えで?それは誰からなのですか?」
追い打ちを掛けるように白痴が質問を重ねる。松は一転して沈黙してしまった。自分が行っている事の矛盾に気付いたのかもしれない。雪世が静かに話し出した。
「お婆様の仰ることには矛盾があります。それを今の鬼龍院家に伝えた人は居りません。」
文章で残っていないことを伝えた人物も存在しない。どうやらそういうことらしい。
「お父様は恐らく遺伝的に引き継いだのではないでしょうか?隔世遺伝、恐らくはそういうモノなのではないかと思います。」
再び口を閉ざした雪世の肩に、良がそっと手を添えた。
「鬼畜の家、か。」
呟いた白痴を松と雪世がキッと睨む。首をすくめた白痴は左手を上げて腕時計を見た。
「そろそろ県警も到着するでしょう。」
「その前にあたくし、為五郎達の死に様を見てもよろしいかしら?」
松が唐突に呟いた。顔を見合わせた驚木と白痴と金玉一。
「まあ、宜しいでしょう。もう二度と見ることはないでしょうからな。」
驚木を先頭に松、白痴の二人が客間を出て行く。少し迷っていた金玉一も、僅かに遅れて客間を出て行った。残された親子三人は、ただ黙って虚空を見詰めている。
「ああ、何と惨い。」
開け放たれた襖の向こうを確認し、松は呆然と佇んでいる。スッと前に出ようとした松を、工藤刑事が慌てて止める。
「駄目ですよ。中に入られては。」
その工藤の左手の指に、松がいきなり齧りついた。
「あ、イタッ!」
指を抑え蹲る工藤。驚木が伸ばした手を振り切って、松が血まみれの部屋に入って行く。それを追おうとした白痴の左腕を、金玉一の右腕が捉えた。振り向いた白痴に金玉一が首を振って見せる。
松が口を開いたまま絶命している為五郎の口の中に、自らの指を入れている。
「そら、為五郎。あんなに好きだった母さまの指ですよ。この間みたいに思い切り噛んでご覧。」
首から流した血もどす黒く乾いている。その我が子の口の中に指を突っ込んで、もう一度噛めと願う母親。まさに鬼畜の家。驚木が大きな声を上げた。
「あっ!」
「為五郎――――!」
引き抜いた日本刀で、止める間もなく松が己の首筋にその刃を当てた。こちらを振り返り腕にグッと力を込める。首から血を迸らせた松の目が白目に反転して、畳の上の崩れ落ちた。
「また一人死人が出てしまった…。」
工藤が呆然と独り言を言った。ハッとした顔になった金玉一が、声を張り上げる。
「ハッ?しまったぁーー!」
大慌てで縁側を走って行く金玉一。白痴と驚木がそれに続く。
客間に驚木が戻った時、白痴と金玉一が呆然と中で佇んでいた。
「白痴さん、金玉一さんもどうしましたか?」
白痴の肩越しに中を見た驚木も、二人と同じように立ち尽くしてしまう。客間のテーブルにもたれ掛るように、摩耶が倒れている。その背中から毒々しい赤い色の血が流れ出ている。そしてその奥で、雪世を後ろから抱きしめた良が、日本刀の小刀を手にして雪世の首に当てている。
「君、良君、そんなことは止めたまえ。」
驚木が右手を伸ばして近づいて行く。
「来るなっ!」
良が驚木に向けてけん制する。
「君が犯人なのかい?」
白痴が静かに良に尋ねる。金玉一はジッと良の顔を見詰めている。
「ぼ、僕は、この鬼龍院家の血を絶やしたかったのです。呪われた血を、僕の代で終わらせたかった。」
声を振り絞る良。雪世の顔は冷静そのものに見える。
「僕がこの家のねじれ、白痴さん曰くの鬼畜に気付いたのは、17歳の頃でした。お婆様とお父様が開かずの間から出て来るのを見かけたのです。お二人とも身体から湯気が出ていて。」
そこで口籠った良は、思い切ったように次の言葉を絞り出した。
「実の母親との秘め事だけなら許せもしました。ですが父は娘にも手を出していたのです。ある日、雪世姉様のお部屋から出て来たお父様をみた時、僕の中で熱い何かが沸き起こりました。それが怒りの炎であると気が付いたのは、19歳の頃のことです。」
唇を噛んだ良の唇から、血が滴り落ちる。
「あなたはお姉様の雪世さんを、愛していらしたのではないですか?」
口を挟んだ金玉一に、良は首を振って見せる。
「分かりません。分からないのです。お婆様の時も、知世の時も百世の時にも感じなかった感情が、僕の中で渦巻いて止まらなくなった。でも僕達は血の繋がった姉弟です。そんなことは有り得ない。有り得ないじゃないですかっ!」
良は頭を下げて下を見る。その隙に驚木が二歩前に進んだが、気づいた良が顔を上げて睨みつける。驚木はその動きを止めざるを得なかった。雪世が口を開く。
「良、あなたはそう思ってくれていたのですね。それだけであたしの人生は幸せだったと思えます。ありがとうね、良。」
驚いた顔の良に安堵の色が浮かぶ。
「雪世姉様?」
「私もあなたと同じ気持ちでした。背徳の家に生まれた者の宿命と思って居りました。」
雪世は良の日本刀を持つ手を取って、前に大きく突き出した。手首を返しその刃先を、自分の身体に向けさせる。
「いいのよ、良。あなたの思う通りになさいなさい。」
一瞬目を閉じた良が、腕に力を込める。日本刀の刃先が、ズブズブと雪世の胸に吸い込まれて行く。
「お止しなさいっ!」
驚木の制止も届かず、雪世を貫いた刃先はその奥に居た良の鳩尾も刺し貫いた。ドッと倒れる雪世と良。慌てて飛びついた驚木が二人の脈を確認する。白痴と金玉一に振り返り、首を振って見せる。
玄関の方から間の抜けた声が聞こえて来た。
「県警の方から参りました。あの、何方か居られませんか?」
「後は県警の捜査に任せましょう。」
客間で驚木が大儀そうに口を開く。工藤も頷いている。
「そもそも今回は休暇中の出来事です。私と驚木警部で白痴先生と金玉一先生をご接待しようと、秘湯で知られるこの地に来て頂いたのが、それが結局は不幸の始まりでした。先生方には本当に申し訳ありませんでした。」
工藤が白痴と金玉一に深々と頭を下げる。
「それにしても今回はお二人の探偵論には、侃々諤々、有意義な時間だったんじゃありませんか?」
驚木が揶揄うように言うと、白痴も金玉一も顔を顰めて見せる
「ああ、あの金玉一先生は犯人に思い入れが強く、犯人が想いを遂げてから解決されているという白痴先生の御指摘ですね。」
工藤が言うと慌てた様子で驚木が口を挟む。
「君、一方的に言っちゃあいかんよ。金玉一先生の白痴さんは女子供の手を借りて、事件を解決に導くのはいかがなものかってご意見もあったじゃあないか。」
更に顔を歪める白痴と金玉一。
「さあ。こんなことになってはしまいましたが、一応の解決も見たことですし、我々は東京に戻りましょう。」
「次の電車まではまだ時間がありますね?僕、ちょっと寄りたい所があるのですがね。」
金玉一が立ち上がった。別段止める理由もない一同は、頷いて金玉一を見送る。
帰りの電車ギリギリになって、金玉一が電車に飛び乗った。切符を確認し席に向かう。椅子を回転させ四人掛けの形にした席で驚きと工藤、白痴が談笑していた。
「ああ、金玉一さん。間に合って良かった良かった。」
驚木が大げさな身振りで、金玉一を招き入れる。工藤が金玉一に金色に光る缶ビールを手渡した。
「おお、ヱビスですか。ぼかぁ、いいことがあった日じゃ無いと、こいつを空けないんですがね。」
怪訝な顔になった工藤が金玉一に声を掛ける。
「金玉一先生、いいことはあったじゃあありませんか。犯人は鬼龍院良、為五郎は事故死、松は自殺ってことで落ち着くでしょう?」
金玉一はそれには答えず、プルタブを引いて缶ビールを空けた。前に差し出し、驚木、白痴、工藤の順番で缶同士を当てる。
「僕ね。あの村で一軒だけの病院、樋口病院に行っていたのです。そこで分かったのですが…。」
口籠る金玉一にするめを勧めながら、驚木が先を促した。
「あの病院でどうやら取り違えが有ったらしいのです。」
「取り違え、ですか?」
工藤が訝しむも、白痴は冷静な顔で金玉一の話を聞いている。
「ええ、樋口病院というのはあの家の子供の出産を、全て請け負っていたのですね。」
「それで?」
驚木が相槌を打った
「鬼龍院良君は実はあの家の子供では無いのです。彼の本当の姓は横居と言います。あの鬼龍院家事件で唯一無関係で殺されてしまった、横居家の末裔なのです。」
金玉一のあまりにも奇想天外な発言に、驚木と工藤は言葉を無くしてしまった。白痴だけがニコニコとその話に耳を傾けている。
「するとなんですか?鬼龍院良はあの家の実子ではなく、鬼龍院事件の被害者の子孫であると?」
頷いた金玉一に、驚木も工藤も背もたれに全体重を浴びせかける。
「有り得ない。」
驚木が一言だけ呟いた。
「どうでしょうか。子供の取り違えなんて、少し前まで都会の大きな病院でもあったことでは無いですか?あのド田舎の病院で、故意であろうと事故であろうと起こった可能性は否定できない。」
白痴が両手のひらを胸の前で組んで言った。頷いた金玉一は話を進める。
「それにあの女中頭の高田弥生、彼女もどうやら横居家の親戚筋らしいのです。樋口先生が話しておられました。」
「すると彼女も共犯者と言う事でしょうか?」
尋ねた工藤に金玉一は首を横に振って答える。
「分かりません。ただ病院で子供を交換したのは、彼女では無いのかと僕は疑っているのです。」
ヱビスを一口飲んでからフッと息を吐いて金玉一は続けた。
「ですがもういいのではないでしょうか?主犯の良君は亡くなったのです。これ以上犯罪者を増やす必要はあるのでしょうか?」
「君は甘いね。僕なら犯罪に関わった者は一掃するがね。」
白痴がため息を吐きながら、ビールを一口飲んだ。
「だが雪世さんと良君の気持ちは純粋なものだったのだ。それで良いのかも知れませんね。」
白痴が遠い目をして言った。
「ですがすると鬼龍院家の血は、まだ途絶えてはいないと言う事でしょうか?」
工藤が疑問を投げかける。驚木が驚いて工藤に尋ねる。
「それはどういう?」
「お分かりになりませんか?驚木さん。取り違えると言うことは、登場人物は少なくとも二人必要になる。本物の鬼龍院家の血筋の人間は、まだ途絶えてはいないのですよ。」
白痴がつまらなそうに言って、そっと金玉一の顔を見やる。金玉一は俯いて言った。
「良君は鬼龍院家の血を絶やそうとした。それは自分でも意識していない、横居家の復讐だったのかもしれません。ですが恐らくは横居の姓を名乗る、良君と同い年の人間が何処かに居るはずです。彼がそれを意識しているのかどうか。いずれにせよ良君の命がけの復讐は、失敗に終わったということです。」
「金玉一さんは、今回は犯罪者の想いを遂げることは叶いませんでしたね?」
揶揄うように言った白痴を、金玉一は下から睨め上げる。
「そう言う白痴さんも女子供がいないと、どうやら本領発揮とはいかないようですね?」
険悪なムードに成った場を、驚木が何とかフォローしようとする。
「まあまあまあ、東京に帰ったら、どうです?お多幸さんでおでんでも?」
「お?それはいいですな。僕、あそこのおでんは大好物ですよ。」
「それは僕も同じです。おでんで美味いビールを頂きますか?」
金玉一も白痴も笑顔になって賛同する。驚木の横で工藤がホッと胸を撫でおろす。
「お休みの所申し訳ありません。切符を拝見。」
駅員がやって来て、四人の切符を確認していく。剪定鋏のような鋏で切符の角を切り落として行く。
「はい。大丈夫です。」
踵を返した駅員の胸に名札がある。そこに“横”の文字だけが見えたように思ったのは、工藤の勘違いだったろうか。
鬼龍院家の一族―The evils' house― 犬神日明 @futtotto
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