地と空の狭間で息をした
全身に感じる不可解な違和感と目の前の闇。車輪が砂と石を踏みつける音と草履と地が擦れる音が聴こえた。何処に向かっているのだろう。私はてっきりあの血生臭い蔵の中で終えることのない一生を過ごすのかと思っていたが、どうやら違うらしい。動き出してどれくらい経ったのだろうか。粗い道が私を揺らす度に刺さった槍が傷口を擦り、ポタポタと血が滴り、強烈な痛みを感じた。その都度私はまだ生きてしまっていることを実感し一々絶望するのだ。最後に空を見たのは何時だろうか。最後に人間と話したのは何時だろうか。足の先まで蔦っていた生温い液体の感触が消えたと同時にまた新たに一筋なぞった。そして暫くして揺れが止まった。すると一気に空気の質が変わり、今までの鉄の臭いが充満していた空間には土と雨の匂いが広がった。少し心が晴れた。私は深くため息をつき目的地に着いたのかと尋ねた。その声に答えられることはなかった。連れてきた者達が男か女かは今はもう分かることはないが岩肌のようにごつごつとした手で両腕を大袈裟なほど力強く握られたその接着部には長年感じたことのなかった生き物同士の温もりを感じた。風に吹かれた木々に生い茂る葉の揺れる音と蝉の鳴き声、項に感じる刺すような熱。何となく外気温で分かってはいたが今は夏の田舎にいるらしい。その後足元が悪い勾配を歩かされた後に木で出来ているのであろう新たな住居に案内されたのだ。案内などそんな可愛いものでは当然なかったのだが、多少の乱雑な扱いは私にとって取るに足らぬものであった。ぎしっと木の板が軋む音がした。今にも底が抜けるのではないかと懸念する程私の足は床を曲げた。そして私はまた蔵のように磔にされ、太ももに温かい液体がかかったと思うと男どもの嗤い声が聞こえた。私にはそれが心身ともに沁みたのであった。またこの生活か、生活と云ってよいものなのだろうか。埃と鉄とかけられた液体の異臭から気を背けたく、どうせ叶わないと分かっていたが流石にこのくらいの慈悲はあるだろうと自己中心的な希望を抱いた。どうか目の釘だけは抜いてくれ、こうも釘の裏だけを見続けるのは耐え難いのだ。これから永遠とも云える日々をここで暮らすのだろう、だからせめて日と月だけは見せておくれと男どもに懇願した。だが男どもはそれをさも当然のように断った。私にとっては予定通りだった。とても嫌な予定通りだった。これらに人間の慈悲などあるはずがなかったな、とこの耐え難い現実をどうにか納得するために自ら遠回りした。そして乱れた足音が遠ざかっていった。私はとっくの昔になっていた孤独というものをこの時初めて分かったのだった。もう誰も私を憐れんではくれないのだな、憎んではくれないのだな、とこの世から隔離されたような言語化できない孤独感。鳥と蝉の鳴き声と風の音が私がこの世に残っているのだと正す存在となっていた。それから幾程経っただろう。蝉の声が聞こえなくなり熱が冷え大雨が暴風が通り過ぎたと思ったら肌を刺すような寒さがやってきた。そしてその刺した事を謝る様に心地の良い温もりが私を包んだのだった。そしてまた、蝉の声が私に夏を知らせに来たのだった。自分達はあと少しで死ねるのだと私に当て付けかのように叫び散らかす。それに私は形容し難い憤りを感じたのだ。お前達の云う通り私はお前達のように地から這い出ることができぬのだ。さぞ滑稽だろう。私は嗤った。大きな声で嗤った。蝉の声が聞こえぬようずっとずっと大きな声で。死に焦がれるも泣くことしかできぬ私を横目に何百もの蝉が死んでいった。
暫く経った。およそ三百回目の夏が来ようとしていた。私は妙に落ち着かなかった。これまで感じたことのない気配だ。すると、ベキっと何かが折れた音とともに私は腰を折り目に前屈していた。何となく察しがついた。磔に使われていた木が腐って折れたのだ。背から後頭部にかけてとてつもない重みを感じた。そして続くように足元の金物が木から剥がれ落ちた。腹と胸、足に刺さった槍が重みでさらに深く進んだと同時に先程のものよりも軽い音を発し槍の柄が折れた。私は先ず立とうと試みたが背中のものが邪魔で立てなかった。そこで私は足のように腕の金物も無理やり剝がせないかと考えた。だが一向に取れる気配がしなかった。私は仕方のないなと思い手首から先を千切った。そこで私はふと我に返った。私は何故今までこの方法を思いつかなかったのだろう。随分思考を放棄していたなと反省をしつつも当たり前のように生え変わった手で目の釘を抜き取った。そして幾年ぶりの世界を見た。蜘蛛の巣と鼠の死体と雨漏りの跡に私は胸を躍らせた。しかし私は冷静になった。いけない、先ずはこの遺物を抜かなければと思ったのだ。胸と腹と足には腐ってボロボロになった槍の柄の断面が見えていた。そして私は胸と腹と何故か視界にも入っていなかった腕のそれも抜き取った。大変身軽になったと私は一息ついて体を伸ばした。次に足のそれを抜き取ったのだが、なんだか違和感を覚えた。どうやら腐った木の一部が体内に残っていたようで私は胴体と腕のを綺麗に取れていた事が意外と器用な事だったと自覚した。面倒だなと溜息をつき残ったものを取り出そうとした時、先程まであった傷がもうない事に気が付いた。煩わしいなと舌打ちをした。どうせなら異物を体外に排出するくらいの事を体自身が勝手にやってくれれば好いのにと憤慨した。私は仕方なく後ろに落ちていた赤茶色に錆び付いた槍の刃で足を付け根から切り取ることにした。中々切り取りにくく一息つこうと手を止めると傷が癒えてしまうので心底面倒であった。気づけば辺りは暗くなっていた。視界も悪く切り取りにくくなってしまったので私は少し傷をつけた後に力づくで引き千切った。漸く不快な違和感を除く事ができたので私はかけ足で外へと向かった。その途中で床が抜けたのだがそんなことが気にもせず這いつくばり獣の如く外へと向かった。建付けの悪い扉の様な物を開けるとそこは山の中だった。数多の木々と伸びきった雑草に獣道が若干見えるくらいに開けていた。そして上を向いた。そこには煌めく星々と大きな望月が私を出迎えてくれた。手を伸ばした。ずっと焦がれていた空を掴みたくて、背伸びをして少しでも近づこうとした。肘と肩が外れそうになった。だが、そんなことは些細な事だった。右頬に一筋の涙が蔦った。笑みが溢れた。嗚呼友よ君達はそこにいるんだな。私も少し近づけた気がするよ。自由になれた気がするよ。私は笑った。腹を抱えて笑った。心地の好い風が吹いていた。こんなことを云う日が来るとは思わなかったが、あえて君達にはここで伝えよう。生きていて好かった。
そうして私は幾年ぶりに目を閉じて明日の事を考えながら深い息を一息ついて眠りについたのであった。
地の牢獄 @wasuregusa
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