地の牢獄
@wasuregusa
終わり
あなたはとても可哀想な人ねと誰かが言った。
何回もの夏が過ぎた。蝉の鳴き始めから鳴き終わるまでを幾千聴き続けただろうか。耳にこびり付いたその終わりに、私は蛍の如く焦がれていた。
人生で初めてできた親友が死んだ。死に際に君は可哀想な人間だと彼は呟いた。
そうだなぁ、と私は声にもならぬ声で床に臥せった皺だらけの友に云った。
二人目の友人ができた。彼は言葉に品がなく、だらしのない男であった。だが彼は不思議と人を寄せ付ける人間味があったのだ。人と深く関わることを避けていた自分にとって彼はとても煩わしい存在であったが何故かそこに不快感はなく、むしろ喜びに近いものが確かにあった。私はそんな彼に魅せられ、いつの間にか二人でいることが多くなった。そんな彼が死んだ。お前はずっと子供のようだ、体だけでなく心もだと死ぬその直前まで彼は私に云っていた。そうだなぁ、と私は力のない彼の手を握りながら呟いた。以後百年、私は友を作らないでいた。
時代が進んだ。多くの人が生まれた。そして死んでいった。血を流した。涙を枯らした。子供が泣いた。女が叫んだ。幾千万もの死を持つ人間に私は手を振った。
ある日どこかのお偉いさんが私の噂を聞きつけてきた。死を知らない人の形をした人ならざる者がいる。そいつを食えば人魚の肉のように永遠の命を授かるのだと。私は大げさな縄に繋がれ、知らぬ間にできていた大きな城に連れられた。その中は無駄に装飾が施された、だだっ広い部屋の奥に似合わない髭を生やした如何にも偉そうな男が偉そうに床に座っていた。その男の目の前には大きな白い布らしきものが敷かれていた。そこへ伏せるように云われた私は素直に従った。その刹那、味わったことのない痛みを感じた。私は叫んだ。かつての女や子供の血を吐き出すような叫び。ああぁ痛い痛い痛い痛い助けてくれと声が勝手に出た。友の名前を呼んだ。私に可哀想だと云った彼らを求めた。嗚呼そうか、君たちが云っていたのはこういうことなのだなと初めて分かった。泣き叫び続け、両足の先に異様な軽さを感じた時、今まで感じていた尋常ではない痛みが無くなった。それと同時に男の前には見覚えのある白く、裸足にしては指先からかかとまで綺麗に整ったその肉塊があった。これが噂の肉かと男は云った。そして小さな刃物で肉の塊から一口大を切り取り口に放り込んだ。口から滴る唾液と血液の間から男の不気味な白い歯が見えていた。男は嗤った。これで死を捨てたと嗤い転げていた。私の眼にはその光景にただただ醜く憎く写っていた。その時、ふと先程まで感じていたものと同じものを感じた。馴染みのある感覚だ。覚えている重さだ。私は恐る恐る視線をやった。そこには男が貪っていた肉と同じものが生えていた。すると他の男どもが云った。いくらでも生えてくるのなら自分たちも食いたいと。そこからは血と嗤い声だけだった。私の叫びなど誰も聞いちゃいなかった。死にたいと願った。殺してくれとせがんだ。絶望した。それから私は幾程の時を過ごしただろう。薄暗い蔵のようなものに閉じ込められ拘束され、時々足を持っていかれては早く生やせと急かされた。体の下に置かれていた桶には切られる度に流れ落ちる血液が溜まっていた。何やら私の血を飲めば万病が癒えるらしい。私はもう生きることを諦めた。だがこの世はそれを許してはくれないらしい。蔵の隙間から見える日が昇っては落ち、その度に闇に差し込む月が毎日のように姿を変えては時々いなくなり、そして時々これでもかと存在を示すのだ。こんな日々を私はどれだけ過ごしただろう。
ある日、いつものように私を切り取りに来た男がやってきた。いつの間にか顔の皺も増えいた。そんな男が顔を真っ赤にして怒鳴った。何でもあの髭の似合わない偉そうな男が死んだそうだ。私は嗤った。大声で嗤ったのだ。胸の内がすっと軽くなった。あの醜い男が死んだのか、そうかと無邪気な子供のように喜々とした。貴様の肉を食ったのに殿は死んだではないかこの嘘つきがと男は唾を飛ばしながら怒号を発すると刀を抜いて私の鎖骨辺りから脇腹にめがけて大きく振るった。男の刀と着物や顔に血が飛び散った。そして薄紅色の肉と黄色い脂肪の層が見えたかと思うとその下から見たことがない様々な袋が現れた。そして血まみれの男が赤く染まった刀を私の下っ腹を横に素早くなぞった。すると縄のようなものが腹からドロッと飛び出し、私の腕には今までにない軽さを感じた。ここまですれば私もやっと死ねるのだと安堵した。この軽さは空へ飛び立つ時のそれなのだな、嗚呼友よ今そちらに行くぞと百年以上ぶりの再会に心が高ぶった。だがそのとき脇や首、頭や腕に違和感を感じた。いつの間にか集まっていた男どもに槍で突き刺されていたのだ。こんなことをせずとも私は貴方達の望むままに死んでしまいますよと子をあやす母親のように云った。そんな眉間に皺を寄せているのか寄せていないのだか分からない男どもを横目に今までの人生を回想していたが、嫌な感覚がした。それは手首の方だ。知っている感覚だ。何年も味わい続けていた地に引っ張られる感覚。何時ぶりだろうかこのような心持は。生きることに希望を見いだせず、ただただ日と月を見続けていたあの時に感じていたこの黒く悍ましい気持ちの悪い、異臭を放つ沼のような絶望。私の切り開かれた体はまるで生まれたてのように奇妙に綺麗だったのだ。化け物だと誰かが云った。早く殺せと誰かが云った。槍が腹から背にかけて突き刺さった。すまないね友よ、私はどうやらそっちには逝けないらしいのだ、地が私を離してくれないのだ、嗚呼そうか、ここがそうだったのか、地の牢獄に閉じ込められた私は元よりそっちに逝けるはずがなかったのか、そうかそうか。私は緩んだ口元に涙のしょっぱさを覚え、合計13本目の槍が刺さった後に空を見ることをやめた。
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