第4話 ウリム

 それはふた月ほど前のこと。


 大平原エディンの南方にある三つの都市が、共同で兵を挙げた。ウヌグ、ウンマ、ニブル。その進軍はナンナたち外交チームの活躍ですみやかに察知され、ダナ平原で迎え撃った。女神の力を存分に発揮できる、有利な状況に持ち込めたこともあり、ほぼ一瞬で戦い自体は終わったのだが。


 この侵攻の裏側について、神殿の有力者たちの意見は一致している。


 黒幕はウリム。


 ここからはるか南、大平原エディンの端に位置する海港都市だ。昔から女神を敵視し、己が利を求め、大平原エディンを混乱に陥れる悪魔の都市――。


 もっとも六年前の〈大戦〉で、ダムキナはかの都市を討ち滅ぼした。ウリムの王族は全滅し、いまは派遣されたダムキナの代官が当地を治めている。

 ただ――。


「ちょっとやっぱり、嫌な感じはするよな」


 エアがぼそっと呟く。ナンナが頷き、めずらしく鋭い視線をエアに返す。


「ウリムの残存勢力の反乱は今までもあったけど、南部での話でしょ。でも今回のダナ平原は、北部よりの中部――。明らかに直接、ダムキナを狙ってきてる」


 赤みがかった瞳をすっと細めて、ナンナがささやく。


「あの〈大いなる夜〉みたいに、ね」


 大いなる夜。

 女神の降臨を祝してそのように呼ばれるが、その内実は、屈辱の夜とでもいうべきものだ。なんの前触れもなく、ダムキナの都市本体が突如ウリムの攻撃を受け、ろくな反撃の構えもとれぬままに多大な犠牲が出た――。


 あわや陥落というところで、当時四歳の幼女ティアマトに女神が降臨したのだ。


 ダムキナは辛くも敵を追い払い、体勢を立て直し次第すぐにウリムを攻め落とした。かつてなく深く民を傷つけられた女神の怒りが、長年の宿敵をもあっけなく打ち破った形だ。その後ウリム側についた都市をつぎつぎと降伏させ、ふたたび大平原エディンを平定したのが翌年のこと。


 この〈大いなる夜〉に始まる一連の戦いを、今では〈大戦〉と呼んでいる。正確には六年前から五年前にかけてのできごとだ。


 ちなみにそれ以前の時期、女神の依り代は地上にいなかった。先代の至上巫女の死から五十年近く、女神の助けを必要としない平和の時代が続いていたのだ。

 けれどその平和はなんの前触れもなく破られた――。


「実際こちらに何ひとつ悟らせず、ダムキナの友好都市も周辺領域をも越えて、神殿の直近まで大軍を進めるって、ちょっと普通じゃ考えられない。でも事実、ウリムはそれをやってのけた」


 深く考え込むように、低い声音でナンナが呟く。


「それが今回は、あっけなく私たちに見つかってさ。まあ警戒態勢が違うからと言えばそれまでだけど……。あんな半端な侵攻で諦めるとは、どうもね」

「それにあれだけの人数動かすってことは、相応の目的があるよな。やっぱ」

「例のね」


 ナンナが声を潜める。言葉を選んでいるが、これは民衆には秘密の情報なのだ。


 ダムキナがウリムを攻め落とした時、ウリムの王族はのこらず滅ぼされた。王妃や王女、まだ幼児に過ぎなかった末の子に至るまで。表向き、それは完全に成功したことになっている。


 けれど本当は一人だけ、確かに死んだという裏付けが取れていない人物がいた。

 第二王妃の長子であり、ウリムの三番目の王子――エンリル。


 病弱だった第二王妃が早くに亡くなり、離宮で育った世間知らずの王子。もっぱらそのように言われてはいるものの。


「あんま情報ないんだっけ、奴に関しては」

「当時子供だったからね。上の二人に比べたら全然」


 肩をすくめ、ナンナは視線を遠くの空へと向ける。


「でも、たとえどんな腰抜けでも……。生きているなら来るでしょ。絶対」


 王となるべき者がいるなら、都市はまだ滅びていない。

 大平原エディンでは、それは一般的な考え方だ。


 そしてもしエンリルが生きているなら、現在十五歳。ウリム奪還に動き出しても、おかしくない年齢だ。


「ウリムは怪しげな呪術を使うといいます」


 視線は至上巫女のいる儀礼の場に向けたまま、静かにラームが口を挟む。

 何気ないように見えても、彼は決して、警戒を怠ることがない。


「女神の魔法に敵うものとは思えませんが――。油断すべきではないでしょう」

「裏で邪神を崇めているとかってやつ? マジなんかあれ」

「さあ……。そこまでは分かりませんが」

「〈大戦〉の記録でも実際、幾つか残ってはいるの。不審死とか、不気味な死者に襲われたとか……ね」


 バカバカしくは聞こえるんだけど、と難しい顔でナンナが言う。

 当時は色々と混乱していたので、ハッキリしない事実も多いのだった。襲撃された者たちが幻覚を見た、というだけならいいのだが。


「いずれにせよ、僕らは僕らの役目を果たすまでです」


 儀礼場の方を見たまま、淡々とラームが言葉を続ける。


「ダムキナには今は女神がいます。その事実さえあればこの街は――、ッ!」


 ふいにその視線が、跳ねるように民衆の側に動いた。同時に軽く右手を持ち上げる。目立たないが魔法の構え――。


「?」


 民衆の最前列にいた子供が、きょとんと目を丸くした。地面に向かって落ちかけたはずの水飴が、ひょいと彼の手の中に戻ってきたからだ。


 子供は不思議そうにきょろきょろ辺りを見回すけれど、離れた場所にいる守護魔法士の仕業だとは気づかなかったらしい。まあいっかとばかりに、また嬉しそうに水飴を頬張りはじめた。


「ってイキナリ何すんだコラ!?」

「真顔で突然魔法使わないでちょーだいっっ!!」

「す、すみません」


 両側から勢いよく詰め寄られて、ラームが困ったように首をすくめる。エアなどは剣を抜きかけていた。かなりびっくりしたらしい。


「まあ、ともかく」


 気を取り直すように、コホンとナンナが咳払いする。


「たとえ敵が本当に呪術を使うとしても、私たちには女神の魔法がある。そしてベルちゃんがいる。ダムキナが負けることは絶対にない」


 女神の魔法――。


 それは女神の子孫であるダムキナの民だけに与えられる、特別の加護であり恩寵だった。強弱の差はあるが、全員が例外なく持って生まれる〈力〉。


 実際に戦闘向きの強い〈力〉をもつ者は一握りで、『魔法士』と呼ばれる彼らは、強力で多彩な魔法を操ることができる。それ以外の大半は、簡単な魔法をひとつ使える程度。蝋燭の火をつけたり、小指の先ほどものを浮かせたり、といったささやかなものだ。


 しかしいくら一握りといえど、魔法士の戦闘力は桁違いで。普通に考えれば、魔法を持たない他都市の民に勝ち目はない。


「だけど、〈大いなる夜〉の例もある。それに先のダナ平原での戦いで、数ではどうにもならないことを敵は思い知ったでしょう。だとすれば……つぎに狙われるのはベルちゃん個人、なんてこともある」


 赤みがかった瞳がふっと上方、すぐそばの崖をあおぎ見るように動く。


 その崖は小高い丘の一部で、丘の上には神殿がある。ダムキナの心臓にして至宝――女神を祀る大神殿が。

 多くの神官と巫女たちが、そしてベルが暮らす場所。


「そしてもし奴らが狙うなら、ベルちゃんが神殿を出ている、まさに今――ってこと。しかもあの子自身は、魔法が使えないわけだし」


 女神の降臨を受けた者は、その時点で魔法を失うのが通例だった。ベルなどはそもそも、一般的に魔法が扱えるようになる七、八歳を迎える前に依り代となっているので、自分で魔法を使った経験はない。

 もちろん依り代に手出しなどすれば、女神が黙っているとは思えないが……。


「くれぐれも油断はしないでよね? ここは結界の外なんだから、ね」

「結界? なんだそれ」


 不思議そうにエアが聞き返す。

 姉弟も一瞬、不思議そうにエアを見返した。いったい何を言ったのだろう、と。

 そしてナンナが吠えた。


「なんだそれじゃないでしょ!? 護衛失格!!」

「ったって魔法とかマジでわかんねえんだって! 俺!」

「ダムキナの人間なら常識でしょー!?」

「いや俺ここの人間じゃねえし! そもそも!!」

「私だって生まれはここじゃないもんね!」

「指南役はここの人間だろ!? ちょっとは〈力〉あるし!!」

ね」


 すっ、といきなり静かになって、ナンナが目を細める。


 女神の〈力〉はダムキナの全員にあるが、その強さにはかなり個人差がある。そして特に、血筋によって決まるわけでもないらしい。

 最強と呼ばれるラームに対し、ナンナの魔法は最弱レベル――ちょっと、そよ風を起こすだけ。


 女性ながらナンナが剣の技を磨いてきたのは、ひとえに強大な力をもつ弟と比べられるのが悔しかったから――というのは、神殿では公然の秘密である。


「……ええと、もしかしてエアは聞いたことがないですか? 女神の結界のこと」


 フォローするように、やんわりとラームが口を挟んでくれる。

 エアは少し考えて、


「聞き覚えはある気がする」

「気がするじゃないでしょーっ!?」


 ……正直に答えすぎたかもしれない。


 ラームは苦笑したが、そのままあっさり話を進めた。ナンナの気迫に全く動じないあたりは、さすが弟というべきか。


「いにしえからある、神殿の守りのことですよ。女神みずからが創られた――」


 かいつまんでラームが説明してくれたところによると。


 丘の上の神殿は、太古の昔に女神自身が創った、強固な結界によって守られている。どんな攻撃も決して通さず、悪意ある者を通さない。敬虔な女神の信徒なら、何の問題もなく通過することができる。


 まれにそのことを知らない他都市のこそ泥が神殿のお宝に手を出そうとして、結界の外でのびていたりするらしい。


 かの〈大いなる夜〉のときにも、神殿だけは一切の手出しを受けなかった。


「だからティアマトは滅多に神殿から出ませんし、外に出る時は必ず僕ら護衛が付く。そういう決まりになっているんです」

「あーなるほど……。昔聞いたかもしれん、それ」

「ちょっとエア君そろそろお仕置きが必要かしらあ?」


 平坦に言って、ナンナが半目ですごむ。エアはちょっと後ずさった――悔しいが、昔からコテンパンにされてきた条件反射だ。

 この街に来た頃のエアに、剣術を叩きこんだのは他でもないナンナだった。

 いまでこそ力でエアが上回るが、技の練度は未だに勝てない。


「い、いやその……。ほら、そろそろあいつ出てくるんじゃねえの」

「えっほんとだ!!」


 コロッと表情を変え、ナンナはロープにしがみつく。エアはほっと胸をなで下ろした――さすがにこんな公衆の面前で、叩きのめされると思ったわけではないけれど。


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