第5話 平和の時代
シャーン――。
明るい鈴の音が、神官たちの中心から聞こえた。ここからの場面が唯一、多少は見栄えのするところだろうか。民衆も音につられ、おしゃべりをやめて注目する。
神官たちがしずしずと動き、儀礼場に広がって整列する。祭壇に向かって跪いたベルの姿が、その隙間から見えるようになる。
ベルは立ち上がり、祭壇に向かって二度の礼拝。そしてまた跪き、動かなくなる。
絶えず紡がれる祈りの唱和が、低くかすかに響いていた。それは儀礼の始めから続いているのだが、外野が騒がしいとかき消されるような音量だ。
それはふと途切れ、最後にベルが顔を上げた。儀礼の終了――。
「きゃああベルちゃーん!!」
いきなりナンナが叫んだので、エアはぎょっとする。けれどその声は全体として、あまり目立つことはなかった。なぜなら民衆もいっせいに叫んだからだ。
たくさんの喝采の声。
その声にベルがびっくりして、振り向いてまた目を丸くする。ロープの向こうに詰めかけた、大勢の民衆の顔、顔、顔。
きっとこの地味な儀礼に、そんなに人が来ていると思わなかったのだろう。黒曜石色の瞳を丸くして、ベルはそのままかたまっている。挨拶ぐらいしろ、とエアは思うけれど、この幼い至上巫女にはまだそういう臨機応変の対応は難しいようだ。
自然に誰かが拍手をして、それは民衆の全体に広がった。勢いを増して、割れんばかりの拍手になる。
ベルはびっくりしたのだろう、あっちを見てこっちを見て。少し恥ずかしそうに、ぺこりとお辞儀をする。
となりで大神官が渋い顔をしているのは、祭壇に尻を向けるな、ということだろうか。後で叱られるかもしれないが、その時は言わなかった。
「ベルさまー!」
「いやあ素晴らしかった! たいそうご立派になられて」
「素敵でしたよー!」
「こっち見て下さいなこっち! きゃーっ!」
大盛り上がりの民衆と、たくさん褒められて嬉しそうなベル。あんな地味な儀礼の何に盛り上がるのか、エアには理解できないけれど。
鳴り止まない拍手と、あふれんばかりの人々の笑顔。
みんなとても幸せそうで。
きっと間近で至上巫女に会えるだけで、彼らには嬉しいのだ。そんなこともエアは一応、知らないわけではなくて。
女神と人々の絆。
もしかすると何百年もの間、この場所で続いてきた光景そのままに……。
「……どう思う? ホントに来るのかな、エンリルって奴」
ふとエアは、隣の同僚に尋ねている。
変わらないような気がしたのだ。
たぶん目の前の光景が、あまりにも平和すぎて。壊れることなんて、考えられない気がしたのだ。
何だかんだ言っても、このままずっと。
この街と人々は、変わらずに続いていくのだと……。
「どうでしょうね」
ラームの応答は平坦だった。根拠のない希望的観測を、彼は言わない。
「実際のところ、神殿は彼が生きている証拠を掴んでいるわけではありません。直近の南部の動きを分析した結果、背後にウリムがいると――それならば旗印がいるはずだと、当たりを付けているだけ」
先入観をもたないほうがいいでしょうね、とラームは言った。
「彼は気弱な性格で、戦向きの人物ではないとされています。仮に生きていたとしても本当の脅威にはならない。それよりも、祭り上げている勢力の方が――」
「? 詳しいんだな、おまえ」
少し引っかかって、エアは同僚を見る。
離宮育ちの世間知らず、よりも一歩踏み込んだ情報だ。そんな話会議では出ていなかったと思うが。
一度あった目を、戸惑うようにラームは逸らした。言ってはみたものの自信がなくなった、とでもいうように。
「まあ……噂です。それも。だいぶ昔……姉上が覚えていて」
「! ああ」
ピンときて、エアはぽんと手を叩く。
「そうか、おまえらウリムにも行ったことがあるのか」
「父はどこへでも行くタイプの商人でしたので……」
苦笑してラームが答える。
そう。
ラームとナンナは各都市を渡り歩く遍歴商人の子供で、〈大戦〉で両親を亡くすまでは、あちこちの土地を移動しながら暮らしていたという。育ちどころか、生まれた場所までよその都市だというからすごい。
でもだからこそ、ナンナはダムキナにないすぐれた剣の技を身につけ、また若くして外交補佐官にまでなっているのだ。
弟の方は魔法の強さで目立っているが、彼も外の世界には詳しい。
「すげえな、俺なんか辺境とここしか知らねえし。どんな所だった? ウリムって」
エアは興味津々で身を乗り出す。敵の土地にまで商売に行くなんて、と言う向きもあるのだろうが、元々よそ者なのもあってエアにそういう感覚はない。
「剣士団だと悪魔に呪われるとかタコに喰われるだとか、くだらない噂ばっかでさ。実際何もわかんねえんだ」
「海があるのは事実ですけど……」
ラームは苦笑する。流石にタコはないだろ、と思ったのかどうか。
それから目を伏せて、こたえを探すように、少し黙った。
「……そうですね」
遠くで民衆の笑い声が弾けて、明るいざわめきが流れてくる。
きらきらと無邪気に光るような、子供たちのはしゃぎ声と。
「きれいなところでしたよ」
エアには少し意外に聞こえる言葉を、静かに口にした。
「オレンジの名産地でしたからね。初夏になると白い花が咲いて、丘という丘が白く染まるんです。……子供が集まってきて、花の下で遊んでいました。日が暮れるまで、飽きもせず」
それは彼の個人的な、記憶の中の情景なのだろう。きっと、遠い昔。幼い頃に目にした、美しい異国の断片……。
けれど違和感を覚えて、エアは眉をひそめる。
別に、話の内容が問題なのではない。ただ何というか……妙に冷めたような、無機的な話し方に聞こえたから。敵国の話だから、といわれたら、それまでなのかもしれないけれど。
語られる美しい情景とは、釣り合わなくて。
「懐かしいね」
ふ、と横から伸びた手が、ラームの髪に触れた。
自分より背の高い弟の頭を、抱え込むようにして。少し微笑んで、ナンナが。
「私たちが最後にいた都市が、ウリムだったんだよね」
はっ、とエアは息をのむ。
それでは、彼らの両親はその街で命を――。
「わ、悪い。俺……」
「いいのいいの。エア君には話したことなかったね、そういえば」
笑いながらナンナが弟の髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜる。姉さん、とラームが抗議したが、もちろん彼女は聞いちゃいない。
ひとしきり勝手にかき混ぜて、ふと空を見上げた。
「……まあ、でも。だからこそ、だよね」
視線の先にあるのは女神の神殿。
この位置からでは近すぎて、その姿を目にすることは出来ないけれど。崖のふちに建つ書庫の附属塔だけ、わずかに見えている。
「これ
誰か小さな子供の声が、はしゃぐように至上巫女のことを呼んでいた。消えないままの笑い声と、明るいざわめきと。
あんなこと、とナンナが口にする光景を、エアは知らない。美しい景色の断片しか言葉にしなかったラームが、本当はそこで何を見たのかも。市街戦のさなかに身を置いた経験のないエアとって、それはきっと、永久にわからないことで。
ただ見上げたその先には、すっきりと明るい青空が広がっていた。
今日はこの光が、地上の全てを照らしているのだろう。
「平和の時代を永遠のものにするために――」
ふ、と視線を戻してナンナが微笑む。
いつの間にかベルはロープの近く、もみくちゃにされない程度の距離で民衆と話していた。警備の神殿兵と下位神官がひとり、そばについてやっているようだ。
女神を宿し勝利を導く、ダムキナの至上巫女。
とはいえその実体は、ワガママで頼りない十歳の子供だ。
「守りましょう私たちで。必ず」
ナンナが言って、彼らの前に手を伸ばす。少年ふたりはちょっと目を見合わせて、苦笑するけれど。逆らえる相手でもなければ、逆らうほどの理由もなかったので。
ふたりの手が順番に、ナンナの手の上に重ねられる。
「……はい」
「おう」
遠くで至上巫女が、あっナンナがいるー! と叫ぶのが聞こえた。そちらを見たナンナが手を振り、幼い至上巫女が嬉しそうに駆けてくる。
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