第2話 礼賛の儀礼
割れんばかりの歓声が響いていた。
沿道を埋めつくすのは、着飾った大勢の顔、顔、顔。青年も老婆も子供たちもみんな、はちきれんばかりの笑顔で手を振っている。
通りの先には広場が見えて、そこまでの道も、広場の中も人で埋めつくされていた。山車が通るためのスペースは、警備の神殿兵たちが空けてくれていたけれど。
「ベルさま!」
「べるさまだー!」
「ベルさま、お待ちしていました!」
「今年もお出ましありがとうございます!」
「相変わらずキュートですわー!」
みんながそうして、笑顔でベルのことを呼んでいた。
その熱気にベルは圧倒されて、まだ決まった儀礼は始まらないから、どう振る舞っても良いのだけれど。少し迷って、小さく手を振ってみる。
とたんに沿道は沸いて、笑い声が弾けた。
「ありがとう!」
「ベルさまありがとうございます!」
「かわいー!」
みんな笑顔で、手を振り返してくれる。
嬉しくなって、ベルは反対側にも手を振ってみる。やや遠くにも、あっちにもこっちにも。ぶんぶん手を振るたびに、笑顔と歓声が弾け、たくさんの手がベルに振り返される。
シャーン、とかろやかな鈴の音が、青い空に響きわたった。
先導する舞巫女の一団が、一斉に腕を高く掲げた。手首の鈴が陽光に輝き、色とりどりのヴェールがふわりと舞う。しなやかに動き、いっせいに円を描く。
山車の上から見ているベルには、それはまるで花が開くように見える。
あざやかに揺れる色彩に、きれいだなあとベルは見とれる。
ふいに歓声が――主に娘たちの声が、キャーッと甲高く盛り上がった。唐突なその勢いに、ベルはちょっとびっくりする。
「エアさま!」
「ラームさまー!」
飛び交う黄色い声に、ふたりが山車の上に出てきたことをベルは知る。
愛らしい幼い至上巫女はもちろん、守護者の少年ふたりもまた、人々の敬愛の対象だった。とくに娘たちの中には熱心なファンがいて、どちらが素敵で格好いいか、日々論争しているとかいないとか……。
ラームはともかく、エアがどんな顔をしているのか知らないが。
張り合うように呼ぶ娘たちの声で、沿道は一時騒がしい。
「ラームさまーっ! これをー!」
ひとりの娘が、山車のすぐそばでそう叫んだけれど、後方からだったので、騒ぎに紛れてベルは気づかなかった。警備の隙をついて飛び出した娘が、花束を掲げてひた走る。
そちら側にいたラームが気づいて、娘の方に身を乗り出した。手を伸ばした瞬間、ふわ、と花束は宙に浮く。
それは危なげなくするりと動いて、ラームの手の中に収まった。
きゃーっと歓声を上げ、娘はその場にうずくまる。よほど嬉しかったらしい。
「……放っといた方が良いんじゃねえの? あぶねえ」
「あのまま走らせる方が危険でしょう。あとで総帥に注意喚起してもらいます」
小声で交わされた会話は護衛らしい真面目な内容だったが、にぎやかな歓声に紛れて、人々に聞こえることはない。ベルにもよく聞こえなかったけれど、気になって少しだけ振り返る。
「なあに?」
「いいえ。お花をもらいましたよ」
微笑み、ラームは彼女の前に花束を差しだす。青い花を一輪するりと抜いて、ゆるく編み込まれたベルの漆黒の髪に挿した。
「わあ」
念願のきれいな色彩に、ベルは嬉しくてぴょんぴょん飛びはねる。そのあいらしいしぐさに人々がまた笑い、かわいい、お似合いですと声を上げる。
「っておまえまたそーいうキザなことを」
「え? 変ですか?」
「……天然って言われねえ? おまえ」
ガラガラと山車は通りを進み、楽士たちの奏でる音はますます盛り上がる。沿道は着飾った人々であふれ、窓もバルコニーも色とりどりの花で賑やかだ。女神への感謝をこめて花を飾ることは、普段から一般的に行われているけれど、五日間の大祭のあいだは特に、この街は花であふれかえる。
ふいに大きめに山車が揺れて、いよいよ止まるかというほど、その速度ががくんと落ちた。広場に建てられた女神の像が、気がつくと大分近くに見えていた。
花の冠を戴いた、美しい女神。
顔を上げ、ベルはまっすぐにそれを見つめる。
踊るように腕を広げ、女神はそこに立っていた。柔らかに微笑む頬、繊細に揺れるような服の襞。今にも動きだしそうな、その姿を彫り出した者はきっと奇跡の技巧の持ち主だったのだろう。
人々はその名を、〈海原の女神〉と呼ぶ。
この
シャン、といっせいに鈴が鳴った。
その音は波のように幾重にも繰り返し、速いリズムであたりに広がっていく。舞巫女たちは広場の全体に、女神像のまわりを取り囲むように散開し、その姿を讃えるようにいっせいに舞い動く。
楽士たちの奏でる音も、合わせるように速さを増していった。やがて完全に停止した山車のまわりで、呼び合い重なり、息詰まる速さで絡みあう。駆けのぼり、いっせいに高くこだまする。それは女神を讃えるファンファーレ。
ふいに全ての音が途絶えた。
舞巫女たちは一斉に地に伏し、微動だにしない。それは女神像に向けてではなく、山車の止まる場所――至上巫女ベルに向かって。
「ダムキナよ、この女神の至宝よ」
導かれるように、するりとベルは言葉を発する。
それは朗々とではなく、すこしたどたどしい少女の声ではあったけれど、しんと静まりかえって物音ひとつない広場には、風に乗ってよく響いた。広場の周縁につめかけた人々もみな、深く頭を垂れていた。
「我、女神の子にして女神の器。母なる女神を身に宿す者、至上巫女ベルの名において捧ぐ――」
いつの頃からか。
ダムキナの人々の間には、女神をその身に降ろすことのできる特別な存在が現れるようになった。その人物は至上巫女、あるいは神子と呼ばれ、大いに崇められた。
なぜなら、ダムキナが危機にある時――。
女神は必ずその身を通して現れ、みずから戦い、この地に勝利をもたらすのだ。それはダムキナの人々こそが、女神の子孫であり、愛する子供たちだから。
至上巫女とは女神そのものであり、その愛の体現者なのだ。
だからこの都市で、至上の存在とされている。
「豊穣の時、恵み栄えしこの時に、我らが愛、母において他に無し。この祈り、この信心、真なる心、無上の高きに捧ぐもの。天なる光、地なる恵み、すべては生み、繁り、紡ぎ、無上の母に帰すものなり」
海原の、と呼ばれる女神だけれど、それははるか南方にある本物の海ではなく、麦の穂波をさすと言われている。実りの春、黄金色に輝く一面の麦の波。
女神とは創造主であり守護神であり、何よりも豊穣を司るめぐみの神なのだ。
女神なしに麦は育たず、山羊の乳は出ず、緑が繁ることもないのだった。
「ゆえに我らはその名を讃え、畏れ、つねに崇め敬うものなり。全ての命は女神に始まり、女神と共にあり、その愛に依りて生くもの。この世のはじめの暗黒より、創造せし偉大なる女神、ふたつの川、高き山、麦のなる地を与えし母に。我ら伏して心を捧ぐ。つねに思い留め、謳い讃え、祈り謝すものなり」
ちゃんと全部言えた! とベルは嬉しくなったけれど、今はぴょんぴょん飛び跳ねていい時ではないので、心の中だけでにんまりする。このあとの言葉はひろく知られた民衆歌の詞と同じで、ベルも大好きな歌だから、何も心配はないのだった。
少女の声はとたんにいきいきと、明るく広場に響きわたる。伏したままの人々もみな、小声で唱和し、祈りは空高くのぼっていく。
一粒の麦から命が生まれ やがてそこに都市があった
都市は大地に広く分かれ やがてそこに神殿があった
褒めよ、称えよ 我らの女神 大いなる地と創造の母よ
絶えざる恵みを手を取り歌え 我ら女神の子供らなれば
この我らの麦と都市とが 世々に栄え続きますように
かくありますように
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