訪問者

海先星奈

訪問者

 ある春先の夜のことだ。そのくらいの時期、星の光が霞んでいるのを確かめてから、机の前の窓を少し開けると、途端に冷たい風が室内に染み入ってくる。春先と秋口の、季節の変わり目とでも言うべき数日間の夜には、いつも似たような風が部屋に入り込む。確かに冷たくはあるが、不思議と身を貫くようなものではない。急に冷やされ始めた空気が偶然ふわりと入り込んだかのような風だ。数年この部屋に住んでいても一向に代わり映えのしない穏やかな風が吹くこの数日間を、私は一年の中でも一等に気に入っていた。だからか、いつの間にやら、暖かい紅茶を用意して隙間風のように少し開いた窓から入り込む空気を楽しみながら読書をするのが、馴染んだ時間の使い方になっていた。

 その日もいつもと同じように、近所の図書館で借りてきた『今昔物語集』を開くと、最初に現れたのは恋に目が眩んだ男の話だった。護衛として仕えていた家の姫君を攫い、夫婦として過ごすものの、その姫君は心細さ故に亡くなってしまい、それを知った男もまた姫君を思うが故に亡くなってしまう話である。たとえ相手が身近な従者であっても、女性は異性に心を許してはならないという教訓で締め括られていた。

 一通り話に目を通したのをもう一度ぱらぱらと確認してから、栞を挟んで本を閉じた。紅茶を一口飲んで、ため息をつく。短編の場合、一編を読むごとに、一度本を閉じてしばらく物思いにふけるのが私の読書の仕方だった。何の気無しに窓の方に目を向けると、やはりそこにはマンションの敷地内の植え込みが見えるばかりで特に気になる様なものは何もない。何もないからこそ、入ってくる空気が余計に冬らしい、寒々しいものに感じた。

 どれだけ愛していても、女一人のために添い伏して死に至るなんてことがあり得るのだろうか。どれだけ愛する人が亡くなっても、明日を生きるために活動してしまうのが人間という生き物だろうに。男が外に出ている四日か五日の間に、心細さと悲しみに暮れるうちに亡くなってしまった姫君も同様だが、男の方も死に至るまでには何かがあったのだろう。何が彼らの死因だというのか。

 姫君の方は、自殺だったのかもしれない。姫君は退屈と孤独に苛まれていた。退屈と憂鬱しか目に映らない状況で、過去の楽しく幸せな日常ばかりを思い出すというのは、十分にきっかけになり得る。世間の人が探し求めるような大きなきっかけではないが、退屈と小さな苦しみの連続と、ほんの少しの微笑ましい過去の記憶というのはそれだけで人間に致死量の苦しみを与えることができると誰かの文にあった気がする。

 一方で、男の方はどうか。男の方は自殺しようにも連れてきていた二人の従者が止める可能性がある。飢え死ににしてもこれは同様で、従者が何としてでも食べさせるだろう。ショック死の可能性も文を読むからにあまり想像できない線だろう。男は一体なぜ死んだのか。

 妄想とはいえ、あるところまででぷっつりと考えが行き詰まった頃、窓の向こう側から誰かの声が聞こえてくるのに気が付いた。

「栞、栞」

栞というのは自分の名前だった。声は随分と下の方から聞こえてきた。おそらく、三階の窓に向かって一階の場所から語りかけているのだろう。

「栞、聞こえているか」

何度も自分の名前を呼ぶその声は、やはり他の誰かではなく自分に語りかけているようだった。疑って聞き耳を立てているうちに、それはとても聞き覚えのある声の気がした。しかしその声の持ち主はもう亡くなっていた。ここにいるはずのない人物の声がすることに怯え怯え声を投げかけてみた。肯定すれば嘘つきの不審者だし、否定すれば他所様に声を掛けているかただの不審者かだ。

「渉さんですか」

「そうだよ」

「それは嘘です。渉さんは去年亡くなったはずです。あなたはどなたなんですか」

「その渉なんだ。信じてくれ。あの世から君に会いにきたんだ」

「そんなこと」

そんなことがあるはずがない。だが、聞けば聞くほど昨年亡くなった恋人と同じ声で同じ話し方をしている。大嘘つきの不審者だとはいえ、こんなに似ることが偶然にもあるだろうか。

「栞、君はあり得ないと思っているだろうけれど、これは現実なんだ。今、君の部屋の窓は開いているね。どうかもう少しだけ開けて、渉さん、入ってきてください、と言うんだ。そうすれば僕と君はもう一度会うことができる」

ぴゅうと強い風が吹いたのだろう。遠くで木が揺れて葉ががざがざと音を立てているのが聞こえた。別に変なことでもないはずなのに、何故だか変な風だと思った。

「あなたが渉さんだとして、それを私に示す方法はございますか」

「君と僕しか知らない話はできる」

「ではそれをお聞かせください」

「僕と君とは、結婚をご両親に反対されていたね。だから、去年のこれくらいの時期に僕は花屋でひな祭りに家に飾る用の花束を買って、君の目の前で桃の花を抜き取って、ご両親の許しが得られなくても結婚してしまおう、と申し込んだ」

 それは事実だった。それに、他の誰にも伝えたことのない事だった。

 渉さんは一企業の社長を務めており多忙なお兄さんに直接依頼される形で、家事を代行する職についており、しっかりとした契約のもとで給与をもらって生活を送っていた。両親はそんな彼に向かって、一企業でろくに働くこともできない低学歴の怪しい、顔だけの男だと言い払い、結婚を決して認めようとはしなかった。

 あまりにも認めようとしないものだから、もう結婚は諦めるべきなのかもしれないとまで思っていたある夜、彼はひな祭り用の桃の花と菜の花とが入った花束を買って帰ってきた。驚く間もなく、彼はその中から一本の桃の花を抜き取り、私に向けてこう言った。

「栞。本当なら、君と僕、双方の両親の許しを得て、祝福を受けて結婚したかったんだ。でも、君の両親からはどうしても許しを得られそうにない。僕が仕事を変えれば良いのかもしれないが、そう簡単に変えれるものでもないし、兄さんを支えてやりたい気持ちも本物だ。兄さんはあまり他人を信用する人ではないからこそ、心から信頼できる家族の僕に家事を任せてくれている。僕もそれに応えたいんだ。だから仕事を変えようとは思えない。

 それでも僕は君と結婚したい。君以外なんて考えたこともない。君が、両親の許しが得られずとも僕の手を取ってくれるなら、結婚してくれないだろうか」

 その言葉に対して、迷う事なく是と応えて花を受け取った。緊張した彼も、結婚の夢を諦めずに住んだ私も、泣きそうな顔で笑いあって眠る時までずっと手を離さなかった。それは今日と違って風が強い日のことだった。

 その一週間後に事故で渉さんは亡くなった。今日のような風が穏やかで静かな夜だった。随分暗くなっても帰ってこない彼を待っていた私は、彼のお兄さんからの連絡でようやく彼の死を知らされた。曰く、運転手のご老人が発作を起こし、運転手を失った車が近くを歩いていた彼を轢いたのだとか。

 衝撃に呆けている間にあらゆることが過ぎ去っていった。葬式に出た気もするし、渉さんの両親、お兄さんに慰められた記憶もある。ただ、そのどれもを薄ぼんやりとしか覚えていなかった。茫然自失のまま、ただ生きるために生きていた。そんなのだったから、およそ一年経った今でも私は、彼のお兄さんにすら彼から結婚の申し出があったことを言えないままだった。だから、窓の外の話は渉さんと私しか知るはずがない。

 そうなると、この世にいるはずがない渉さんがこの窓の向こうにいるのだと信じられるはずがない反面、信じざるを得なくなってきた。

彼は、渉さんだ。

いや。そんなはずはない。

そんなはずはないが、彼は渉さんなのだ。

あの日のように、風が強く吹いている。

「栞、これで僕が渉だとわかっただろう。僕は君に会いたくてここにきたんだ。どうか僕を部屋に入れてくれ」

「渉さん、私はあなたがここにいるはずがないと知っているのに。知っているのに、あなたがそこにいると思ってしまいます。この一年、あなたはどうなさっていたのです。どうして一年も私の前に姿を現してくれなかったのです」

「僕はずっと君の傍にいたんだ。栞の方が僕に気付かなかったんだ」

「じゃあ、あなたが亡くなった後に両親があなたに何て言ったのかも聞いていたのですか」

震える声で八つ当たりをするように問いかけると、彼は一瞬口を閉ざした。

「知っているよ。それに栞が怒って、縁を切ってやると飛び出したことも」

 それもまた事実だった。先程から強い風が吹き込んでくるからもう紅茶はすっかり温くなっている。一口だけ口に含み、ゆっくりと飲みこんだ。今までで一番不味い茶だった。

「やっぱり、あなたは渉さんなんですね」

 両親が亡くなった渉さんのことを、死んで当然の人間だと罵り、それに対して私が耐えかねて縁を切ってやると実家を飛び出したことは両親の他には知っているはずがないのだから。両親が誰かにこんなことを話すはずがない。幽霊として彼がずっと私についてきていたのでなければ、知りようのないことだった。

 幽霊を部屋に招き入れることに抵抗は多少あった。だが、彼は渉さんなのだ。私に結婚の申し入れをした、たった一人の人。ならば、もう一度だけでも会いたい。夢でも幽霊でも不審者でも、もう一度だけあの人に会えるのならば、それでも構わない。

 そっと音を立てずに椅子から立ち上がり、開いていた窓をもう少しだけ開けた。

「渉さん、入ってきてください」

「ありがとう、栞」

彼の言葉はすぐ後ろから聞こえた。どうやって移動したのかもわからないが、振り返って見ると一年前のあの日のままの彼がそこにいた。

「渉さん」

「栞、やっともう一度話せた」

彼が緩く広げた腕の中に急いで飛び込んだ。彼の体は生きてる頃とは違ってとても冷たかったが、やわやわとした抱き方はまさしく彼のものだった。

「冷たいです」

「もう死んでるからね。寂しかったよ」

「私もです」

「僕はずっと見てたのに、君は気付かないから」

彼がさらりと笑う。もう見ることもないと思っていた笑い方だった。思わず呼吸を止める。そうでもしないと、みっともなく泣いてしまう。渉さんを見上げていた顔を伏せて、ぐりぐりと唇をすり合わせて堪えた。

「栞。今でも僕に気持ちはあるかい。」

「一年も私のことを見続けていたのに、そんなことも知らないのですか」

顔を上げずにすげなく答えた。私の声は頼りなく震えていた。

「そうだね。人の気持ちだけは見ているだけじゃわからない」

彼の声も震えていた。きっと私と同じような顔をしているのだろう。

「何一つ変わりません。もう会えないということが渉さんを愛さない理由にはなりませんでした」

「嬉しい。僕の気持ちも変わらなかった。もう二度と触れられないからって君を好きじゃなくなることも目移りすることもなかった」

「嬉しいです」

震える手で渉さんに縋り付く。ゆっくりと伝えた気持ちがゆっくりと返ってくる。彼との会話はいつもゆっくりで、優しい言葉と愛に満ちていた。

 しばらく、少しの隙間も入り込めないほど抱きしめあっていた。渉さんの体は冷たいから、もう私の体はさっき飲んだ紅茶より冷え込んでいるに違いなかった。背中にずっと当たっている風の冷たさが温く感じるほどだ。あまりにも寒いので少しだけ離れたいと伝えるために、彼の背中に回していた手でぽんぽんと叩いた。

「渉さん、少し寒いです」

「そうか。生きてる人には僕はつめたすぎるね」

緩んだ腕の中で少しだけ後ろに下がって彼の顔を見上げると、眉を八の字型にして困った顔をしていた。本当に言いたいことを言っても叱られないか迷っている幼い子供のような顔だ。

「どうなさったんですか」

「ねえ、栞。今でも僕に気持ちがあるなら、今この窓から飛び降りて一緒に死んでくれないか」

 彼の言葉に背筋が凍った。彼の腕の中にいるのに、それには似つかわしくないほど背筋がぴんと張った。生存の本能を持つ生者にとって、それはあまりに恐ろしい提案だった。それと同時に、彼はこれを伝えるために、結婚の申し込みを受けたあの日から六日、事故で死んだあの日の一日前の今日になって、姿を現し声をかけてきたのだと悟った。渉さんの声は、泣きそうな子供が涙を我慢しようとしても堪え切れていない時のようだった。

「寂しいんだ。君の傍にいても気付いてもらえない、誰も僕のことを見ない。一人は寂しい」

「渉さん」

「お願いだ、お願いだよ。君とさえ一緒にいられるのなら、どこでだって良いんだ。地獄だって天国だって、生きていたって死んでいたっていい」

「渉さん」

後ろでカーテンが風に吹かれて揺れているのか、動いて擦れる音がする。

「君じゃなきゃだめなんだ。君じゃなきゃ誰だって一緒なんだ」

「渉さん」

 三度目に彼の名を呼んだ時、外からの突風に吹かれて内側に膨らんだであろうカーテンがぼっと音を立てた。困ったような顔をしていた渉さんは涙をぼろぼろとこぼして懇願していた。もはや堪えることさえ忘れたかのように泣いていた。

 それを見て、生前から渉さんが繊細な人であったことを思い出した。

そうだ、渉さんは優しくて、言葉遣いも柔らかくて、一心不乱に私を愛してくれる人で、時々寂しがりやな人だった。そんな寂しがりやな人が、一年も耐えがたい孤独の中、狂わないで私の傍にいてくれた。私は彼の弱さを誰よりも知っている人間の一人だった。

 それに気付いた時、我慢していた涙が堪え切れずに溢れ出てきた。本能的に断ろうとしていた自分を心の底から恥ずかしく思った。一度は離れたはずの体が先程よりも強い力で締め上げられたが、強い力で締め上げているくせに、その手は弱々しく震えていた。優しく私の背中を撫でる手は、悲しみに暮れ始めた自分を慰めるように上下に動いている。

 涙でぐちゃぐちゃの顔を彼に向けた。思った通り、彼の端正な顔立ちも似たような表情をしていた。

「渉さん、本当に一緒に飛び降りてくれますか」

「うん。ごめん」

くしゃくしゃな顔で彼はうっすらと笑った。泣きそうな顔で笑ったあの日とは逆に、笑いそうな顔で泣いていた。謝罪の言葉は聞いていないふりをした。

 抱擁を解き、冷め切った紅茶を一気に飲み干した。先ほどとは違い、薄いものの少しはましな味がした。カップを机の端に寄せ、私が机に乗り上げて窓枠に腰掛けると、彼も隣に座って私をまた抱きしめてくれた。恐怖を一緒に抱えるかのようにいつもよりずっと優しい抱擁だったからか、冷え切ったはずの彼の体温が少しだけ暖かく感じた。

「栞。ごめんね」

「渉さん、謝るなんてだめですよ」

「そうだね」

くすくすと笑いあいながらそれまでより強く抱き合って、背中をそらした。


 翌朝、雨の降る中でその遺体は発見された。頭から落ちたからか、即死だったその女性の遺体は、まるで何かに抱きついているかのような姿勢で固まっていた。家族とほぼ絶縁状態にあった彼女がなぜ死を選んだのかは実際のところよくわかっていない。ただ、恋人を追いかけるようにして、ちょうど一年後の命日に亡くなったのだと考えられて、この件を調べる者はいなくなった。

生きていたいのなら、死者に心を許していちゃダメなんだなあ、と誰かがつぶやいた。

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