心変わり

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 荒岩は、午前3時頃、無人のコンビニを背に、築40年を超える古びたアパートへの帰路を辿っていた。彼の意識は現実を離れ、最近発売されたゲームの攻略へと没入していた。次に倒すべきボスの姿を思い浮かべ、そのための最適な装備構成を熱心に思案している。左手のビニール袋が微かな音を立てて揺れる。袋には完全栄養パンが二つとエナジードリンク一本。ここ最近はこの組み合わせばかり口にしている。


 コンビニから歩くこと約4分、闇の中にぼんやりと浮かび上がる荒岩のアパートが視界に入る。

 アパートは二階建てで、まっすぐ延びる廊下に沿って六つの部屋が等間隔に並んでいた。全体の半分ほどの部屋からは、人の気配も生活の痕跡もないから、おそらくそれらは空室なのだろうが、誰一人として顔を合わせたことのない荒岩にとっては、どの部屋に誰が住んでいようが、あるいは住んでいまいが知る由もなく、関心を持つことさえなかった。

 荒岩の部屋は、二階の奥から二番目だ。階段を上るたび、錆びた鉄の軋む音が静寂を破っては、波紋のように消えていった。


 荒岩が部屋の扉を開けると、いつもの薄暗さと淀んだ空気が彼を迎え入れた。最後にカーテンを開けたのがいつなのかもわからない。窓際には埃が層を成している。

 そんな雑然とした暗がりの中、古びたパソコンの画面だけが青白い光を放ち存在感を主張している。

 荒岩はその光をたよりに、散乱するゴミや洗濯物を慎重によけながらいつもの場所へと向かった。

 腰を下ろすと、袋からエナジードリンクを取り出し勢いよくプルタブを引いた。小さな破裂音とともに漂う甘い香りが、荒岩の感覚を覚醒させる。


 荒岩の一日はこの時間から始まる。

 基本的に一日中パソコンの前に座り続け、画面越しに新たな強敵と闘い続けるのが彼の最近の日課だった。

 運動はおろか、夜中に家とコンビニの往復する以外に動いていない荒岩の肌は真っ白で、顔には無造作に数センチ程伸びた髭が生え散らかしている。髪は肩につきそうなほど伸びている。細い腕や足に対し、不釣り合いに腹周りに肉をまとっている。

 その姿は、彼の生活習慣そのものを物語っていた。


 荒岩もずっとこんな生活を送っていたわけではない。新卒で大手証券会社の事務職として働き始めた頃、彼は仕事に手ごたえを感じ、順調といえる日々を過ごしていた。特段コミュニケーションに苦労することのなく、同僚たちとも必要以上に親密になることはなかったがそれなりに良好な関係を築いていた。


 しかしそれも長くは続かなかった。すべてが変わったのは、

 ""の施工された年のことだった。事務系の業務がAIに取って代わられ、その波の抗う術もなく、荒岩も退職を余儀なくされた。大学では経営学部に所属していた荒岩は、簿記などは多少かじってはいた。けれどAIを前にしては、そんな知識はまるで役に立たない。

 ほかに特筆すべき能力もなかった荒岩には、そこで生き残る道はもう残されていなかったのだ。


 職を失った荒岩は、"国保制"の恩恵を受けながら新たな職を探すことを余儀なくされた。そこで荒岩はプログラミングを学び、SEとして転職しようと考えていた。自動化が進む中、皮肉にもその自動化を推進するためのSEの仕事は人手が不足していたからだ。

 高校時代の成績はそこそこで、大学受験でも大きな苦労なく有名大学に合格した経験があった荒岩は、SEの勉強もたやすいと楽観視していた。

 そうこして三年の月日が流れた。荒岩の生活はいつの間にか怠惰そのものへと墜ちていた。プログラミングの勉強に真剣に向き合う姿勢などもはや影も形もなく、もはや努力の気配すら漂わない。


 それもそのはず、荒岩の生活からは交友関係はもちろん、外で人と会話を交わす機会さえほとんど失われていた。鏡に映る自分の姿を気にすることもなくなり、見栄を張る理由も消え失せていた。物欲も湧かず、欲しいものも思いつかない。お金を使う場面が限りなく減った荒岩にとって、わざわざ外界に身を乗り出し、新しい職場で新たな人間関係を築くという試練は、考えるだけで気が遠くなるような重荷だった。

 すでに人との関わり方さえも忘れかけている荒岩には、それは受け入れがたい苦行にほかならないのだ。"国保制"によって毎月振り込まれる収入だけで十分だった。

 荒岩にとって、それ以上を求める理由はどこにも存在していなかった。

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 そんな毎日を繰り返していた荒岩の心に、ある日、大きな変化が訪れた。

 長い間、孤独という名の静寂に身を委ねてきた。それは彼にとって、水の中をゆらゆらと漂うように心地よく、重さや不安を感じることなどなかった。


しかしあるとき、荒岩心を包み込んでいたはずの静けさが、徐々に彼を締め付けるようになり、次第に呼吸を妨げるような重苦しさを伴い始めた。

 誰にも干渉されないひとりきりの暮らしは、荒岩にとって当たり前のものになっていたはずだったのに。

最近は、その透明な静寂が重く感じる瞬間が増えていった。


 道行く男女の笑い声――以前は自分とは無縁で、遠い世界のものだと思っていた。興味を抱くことなどなかったはずなのに、今ではその響きがやけに眩しい。

突然のことのようにも思えたが、実際には最初から薄々気づいていながら、ずっと目を逸らしていただけだったのかもしれない。


 人と触れ合い、温もりを感じたい――

 そんな感情が少し前から荒岩の中でじわじわと湧きはじめ、とうとう溢れ出した。


 他愛のない会話で笑い合い、ふとした瞬間に心が揺さぶられる日々。

 パートナーを持ったことのない荒岩にとって、そのイメージはまだ輪郭が曖昧で、具体的な形を成しているわけではない。

 それでも、その不確かな中に隠された強い渇望だけは、確かに彼の中で存在感を増していた。


 荒岩は気づいていた――自分がそれを、そんな温かな日常を、これまでのどんな欲望とも異なる切実さで、心の奥底から求め始めていることを。


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数珠 山鷲霊衣 @yamawashi

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