塩素の涙
僕には恋人がいた。黒くて綺麗なミディアムカットと、透き通るように白い肌が印象的な子だった。いつもノースリーブの白いワンピースを着ていて、そこから細長い手脚がまっすぐのびていた。二重になりきらない瞼を気にしていた。荒れやすい唇を舐めてはまた荒れさせていた。くっきりとした瞳が僕を見つめてくれた。笑うと白い頬が少し桃色を帯びて、照れくさそうな儚さがあった。
その僕の恋人は、ある夏の日に死んだ。
ぷかぷかと、白い肌に白いワンピースを纏ったただの真っ白い塊が、まるでゴミのようにプールに浮かんでいた。水の中を細い髪の毛がゆるゆると漂い揺れていた。気味が悪いくらい白く、寧ろ青ざめた彼女の肌がいやに目立っていた。いつもくっきりしていた彼女の瞳は、生気を失って焦点など無く、濁って気持ちが悪くなるような中途半端な水気でぐじゅぐじゅとしていた。いつも彼女が気にしていた荒れた唇は、皮が剥けたのか、血が乾いてこびりついていた。
今思えば、彼女は人間ではなかったのかもしれない。
彼女が死ぬ半月ほど前、彼女が住んでいた山奥の小屋へ足を運んだことがある。人が立ち入らず鬱蒼とした森林が出迎えてくれる、正直気味の悪い場所だった。その他あるもので特筆するとしたら、何年も前に捨てられたような粗大ゴミが乱雑に、そこかしこで「死体」を晒していたくらいだ。葉っぱたちの隙間からちらつく太陽の光が無性に眩しく、木々が覆い被さった彼女の小屋は、そもそもこの森さえもが、息をしていないようだった。何故彼女がここに住んでいるのか、疑問に思うことはなかったが、僕を不安にさせるにはこの場所は十分すぎるほどであった。
彼女が小屋のドアを開けて顔を出すと、僕が感じていた不安はたちまち消えてしまった。いらっしゃい、と笑う彼女はドアに隠れてその四肢を僕に見せなかった。
「ちょっと待っていて」
彼女がそう言うので、僕はそうすることにした。腰掛けられそうなところを探して辺りを見回すが見当たらず、ドアから数歩置いた小屋の壁へ寄りかかって座った。森の中は静かだった。目につく「死体」は茶色や緑で汚れていて、腐っているように見えた。
ぎい、と心配そうな音を立てて右手にあるドアがあいた。
どさりと鈍い音とと共に「何か」が僕の隣に倒れた。視線を横にやると、そこには彼女が横たわっていた。顔をこちらに向けて、いつものように微笑んでいる。何気無く見やると、いつもワンピースからのびていた白い脚が、途中で途切れていた。膝の辺りで切断された彼女の両脚。僕は一瞬驚きこそしたが、別に何の違和感があったわけではなかった。ああそうだよなあと。当然の事のように受容していた。
その状態のまま、細い両腕を使ってずるずると匍匐前進をする。断面から流れ出る血が小屋の中から外にかけて、二本の掠れた道をつくっていた。うつ伏せだった彼女が腕を伸ばして上体を起こし、せーの、と独語しながら身体を持ち上げて後ろに伸ばしていた両脚を前へ放り出した。雑草の中にぺたんと尻をつき、僕の隣に座った。「死体」に彼女の血が少量飛び散り、赤い模様をつけた。
「待たせてごめんね」
彼女はいつものように笑った。太くて短いまつ毛が白い肌に映える。すべすべして柔らかそうな直の二の腕が僕の腕にパーカー越しで触れた。山中へ向かうからと薄手のパーカーを着てきた僕は、腕を惜しみなく露出している彼女を見て、何だか馬鹿らしい心持ちさえもした。
彼女の脚からはまだ血が出ているようだった。緑の草が赤黒く染まっているのが見えた。痛くないのかなと思ってその旨を彼女に尋ねてみる。すると彼女は笑顔のまま答えた。
「へいき」
その言葉を聞いて、そうか、と僕は納得した。彼女の表情に苦痛は無かったし、不自然な汗をかいているわけでもなければ、変に力が入っているわけでもなかった。肌も、いつもと同じくらいの白さだった。
二人でしばらくそこに座ったまま、他愛もない話をした。話といっても、彼女が二言三言喋って、それに僕がぽつりと言葉を返すだけだ。時々風が吹いて、森の奥で木々が揺れる音だけが僕たちの耳に時々入ってきた。
いくらか時間が経って、真上にあった太陽が背後に陣を展開し始めた頃。何の気なしに彼女の脚を見てみると、膝上辺りで切り落とされていたものが、ふくらはぎの途中まで脚が存在していた。今思えばおかしな話なのだが、その時の僕は、何故かそれを当たり前のことのように感じていた。一度切り落とした脚がじわりじわりと時間をかけて復活している。ありえないことだけど、ありえたこと。僕にとって、彼女にとって、特に扱うようなことでは、その時は、無かった。
だいぶ日が暮れて、ちらつく日向がオレンジ色を帯びてきた。森の中はじっと息を殺して……あるいは死んでいたのかもしれない……二人をそこに座らせている。彼女の脚はすっかり綺麗に元通りになり、つま先まで丸く美しく、また僕の前に姿を現した。それさえも、僕は当たり前のことと受け容れていた。
彼女は雑草にまみれた地面に両の手をつき、今し方元に戻った脚で立ち上がる。それは生まれたての小鹿のようにおぼつかなかったが、僕が助けるには及ばないと感じる、野生的な気配を見た。倣って僕も立ち上がる。
「暗くなる前に、帰った方がいい」
その口調は優しいものだったが、有無を言わせない命令の色を含んでいた。目を細めただけ、という印象を受けたそのときの笑顔は、今でも忘れることができない。僕は、分かった、と彼女の言う通り、帰路についた。山道の途中で振り返ると、彼女が笑って大きく手を振っていた。僕も大きく手を振り返した。
それから数日後、僕はまた彼女の住む小屋を訪れようとした。山道の手前まで来て、僕は立ち止まった。そこから先へ、身体が動かない。僕の身体が山の中へ入ることを拒否したというより、山が僕のことを拒否したようだった。そのまま小一時間ほど粘ってみたが、結局拒絶は続き、僕はその日の来訪を諦めた。
それ以来、僕は何度か来訪を試みたが、毎回例のごとく山中に一歩も立ち入れず、帰宅を選ばざるを得なかった。
その度に、僕は自室のベッドの中で涙した。大の男がみっともなく、えんえんと声をあげて。何が悲しいのかも分からないのに、彼女の元へ辿り着けなかった日は、必ず枕がびしょびしょになるまで泣き散らした。
最後の来訪から半月、僕はやっと山から許しを得て山中に立ち入ることが出来た。森は悲しそうな音を立てて揺れ、涙を流すように葉を落としては、血を流すように腐敗した部位を枯れ落とした。小屋まで来てみたのだが、そこに彼女の気配は無かった。ノックをして中に入ってみるが、同じ。声をかけても返事などあるはずがなく、滅茶苦茶に木製の家具たちが散乱していた。僕は彼女を探すべく、山中をうろついた。変わらず気味の悪い森は、今日はやけに喧しくて、僕を苛立たせた。
奥へ奥へ進んでいくと、一つ大きな建物が見えた。小学校のような白いそれは、「死体」と同じように汚れていた。錆びついた門をゆっくり開けると、この世のものとは思えないほどの金属音で悲鳴を上げ、僕の耳を劈いた。開け放たれた昇降口の扉をくぐり中へ入る。後者の中は空調が効いているのかというほどに涼しく、不気味なぐらい静かだった。何年も前に廃校になって、そのまま放置された場所なのかな、と勝手に思った。
下駄箱の横を通って土足で廊下へ立ち入る。誰も咎めなかった。ひっそり眠っているのを起こさないようにと、僕は一歩一歩を慎重に歩いた。正面には同じように大きな扉があり、敷地の反対側がガラス越しに見えた。僕はまっすぐそっちへ向かい、今度は閉まったままの扉を手で押し開けた。何も言わないのが、かえって変に感じられた。
そこには小さなプールがあった二十五メートルレーンが三つほどの規格。プールサイドまでの石の階段をとんとんと降り、水際に立った時、初めて気が付いた、それが僕の恋人の死体だった。
その不気味とも言える死体を見て、僕は特段何を感じるわけでもなかった。ただ、このプールの中へ放っておくのは可哀想だなあと思い、ここから出してやろうかなと思うだけだった。見回すと、すぐ足元に虫取り網を大きくしたような、そんな丁度いいものが転がっていたので、それで彼女をプールの中からすくいあげた。彼女は驚くくらい軽くて、大して筋肉のない僕でも片手で持っていられるくらいだった。だからといって彼女がとても痩せていたわけではないから、僕は不思議に思った。彼女を網の中に入れたまま僕はとりあえずあの小屋に向かった。時々、おかしな格好のまますくい上げられた彼女を見やったが、それはいつまでも死体だった。
小屋に着いて、僕は乱暴にも網の中の彼女を草の上へ放り出した。びしゃり、わけの分からない音がした。腕も脚も欠いていない彼女はまだ濡れていて、うすら土が肌に吸い付く。砂糖菓子のようだった。白いワンピースが身体に貼りつき肌を透けさせていたが、そこには色気をまったく感じなかった。過ちを一つ犯しても不思議でない状況だったが今の彼女に……生きていたときだってその身体に肉欲を覚えたことなど、そういえばないのだが……到底そんな気は起きなかった。そもそも死姦なんて趣味じゃない。
彼女の死体の横に僕は腰かけ、尻ポケットと雑草が喧嘩する声をちょっと聞きながら、ただ黙りこくっていた。太陽が勝手に沈んでいき、いつの間にやら暗くなる。するとこの森の不気味さは一層増し、彼女が生前「帰った方がいい」と言ったわけが分かったような気がした。
どおん、急に轟音が響く。思わず上を見上げると、夜空に火の花が咲いていた。そこらを流れる川で花火大会が催される日だったなあと思い出す。まるで特等席、木々は僕が見上げた視界には侵略行為を進めていなかった。以前来た時には、ここら全部は葉が覆っていなかったっけなあ、と首を傾げたが、そんなことはどうでもよかった。花火が綺麗だった。僕が座っていた。彼女が死んでいた。死体が冷たかった。
彼女の白い肌と白いワンピースに、花火のぴかぴかした色が映っていた。その様子がまたなんだか美しくて、僕はしばらく彼女の死体を眺めていた。そしていろんなことを考えた。
彼女はどうして死んだのかな。他殺かな、自殺かな、事故死かな。死因はなにかな。彼女は死んだ、けれどどこかに届け出た方がいいのかな。けれど僕は彼女の名前すら知らないや。彼女も僕の名前すら知らないや。今更教えることも出来ないけれど。さあ、彼女に出会ったのはいつだったっけ。どうやって知り合ったっけ。どうして恋人になったんだっけ。彼女は僕のこと、好きでいてくれたのかな、そういえばよくわからないや。僕も彼女のこと、好きでいたのかな、そういえばよくわからないや。
結局、なんだったんだろう。
意味のない虚無感が立ち込める。僕の左目から、一筋涙がこぼれた。花火の色を煌かせた涙は、塩素の味がしたのかもしれない。
掌編・短編まとめ/レーティングあり版 天鵞絨リィン @L_Belord
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