自分の席の、外の世界

CHOPI

自分の席の、外の世界

「またアイツ、本読んでんだけど」

「邪魔だよなー。俺ら話してんのわかってんだろうし、席くらい移動してくれても良くない?」

 そんな声が聞こえてきて、ふぅっ、とため息をついた。手元にある文庫本から目線を上げると同時に、たくさんの情報が目から、耳から入ってくる。この瞬間が、私は好きだ。自分がどれだけ物語の世界に引き込まれていたかを実感する瞬間から。同時にこの瞬間が、私は嫌いだ。どうしようもないこの世界に戻ってこないといけない瞬間だから。


 ふと視線を机の上のスマホに向ける。時間を確認すると、12:30を示していた。そのまま物語へ意識を戻そうとしたけれど、どうしても周りの音に邪魔されて、そこで集中力が切れた。だから席を立つことにした。文庫本とスマホ、それとお昼ごはんのカロリーメイト。それらを持つと、教室から静かに廊下へ出る。たったそれだけなのに、心のどこかで負けた気がするのは、後ろから聞こえた『やっとどいたわー』なんて声のせいだろうか。


 行き先なんて無かった。あるはずもない。小説や漫画の中の学校にいる生徒って、なんでみんな行き先とか居場所があるんだろうって羨ましくなる。対して現実の私は、自席以外本当に居場所なんてない。特にこの、昼休憩なんて一番居場所が無くなる。だからこそ物語の世界に飛び込むのに、今日は飛び込み切れていなかったんだろうか。


 あても無く、人気の少ないところを目指してとりあえず歩くことにした。この時間、校庭は部活の昼連がある生徒で埋め尽くされるし、中庭はやたらと騒がしい生徒が占領する。図書室はあまりに静かすぎて呼吸がしづらいし(たぶん私が利用に慣れていないせいなんだけど)、屋上なんて開放されているのはそれこそ物語の中だけだ。


 廊下を歩いてたどり着いた、階段の踊り場。さて、上に行くか下に行くか。どちらもあまり変わらないような気がして、なんとなく上を目指した。下の方から聞こえてくる声の方が多い気がして、それを避けたかった。ただそれだけの理由。


 無心に階段を上っていくと、思いの外すぐに行き止まりにぶつかった。目の前には他の階より少し狭い踊り場があって、その先に屋上に続く扉。それを見て、『あぁ、最上階まで来たのか』なんて、他人事のように思った。一番上まで上り切って踊り場に立ち、数歩歩いて目の前の扉のドアノブに手をかけて回してみる。当たり前だけど、そこはやっぱりカギが閉まっていた。すぐに諦めて扉を背に踊り場を見回すと、使われていない机やイスが両端にまとめて置かれていて、それらには薄っすらと埃まで積もっていた。いや、普段どんだけ人来ないんだ。そう思ったらひどく安心して、大きく息を吐きながら踊り場から階段へ足を下ろすようにして腰掛けた。


 座ってスマホをつけてみると12:36と表示される。昼休憩は12:10まで。まだ時間に余裕がある。カロリーメイトの箱を押し開け中身を取り出し、中の袋を開けて1本出して口にくわえる。続きを読もうと文庫本を開こうとして、だけどそこでカロリーメイトを触った油分が一瞬気になって、だからスカートの上でパッパッと払った。こういうところがガサツだと怒られるけど、まぁ誰も見てないし。なんて、ひとり誰に言うわけでも無い言い訳をしてみる。


 そっと本を開いて視線を文章へと滑らせる。他の階に比べれば少し暗い踊り場だったけど、本を読むには充分な明るさが屋上へ続く扉の窓から入り込んでいた。聞こえてくる生徒の声がいつもより小さく感じるのは、校庭や中庭からの距離がいつもに比べて遠いからかもしれない。数行読めば、目の前に広がるのは物語の世界。そこにいるのは私と物語の登場人物だけ。物語の世界に、引き込まれて、引きずられて――……


「え、珍し。先客いる」


 また、現実へ引き戻された。本から目線を上げると、階段の下の知らない男子生徒と目が合った。あ、すいません、と言おうとして、それが無理なことに気がつく。カロリーメイトを口にくわえたままだった。

「2年生?」

 そのまま話しかけられて、慌てて頭を縦に振った。視界に入った上履きの学年カラーが3年生を示していて、だからちょっと、いや結構焦った。しおりを挟んで本を閉じ、くわえていたカロリーメイトを指先でつかんで口から外して、一口かじっていた分は急いで咀嚼し飲み込んだ。そうしてようやく「すみません、退きます」と声を発せた。

「え、いや良いよ別に退かなくて。オレもここにいるけど、音楽聞いてるだけだし、気にしないで」

 そういうとその先輩は本当に何も気にしていません、って感じでスマホを取り出して耳にイヤホンをつけて、そのままくるっとこちらに背を向けたかと思うと、私の数段下に座って音楽を聴き始めた。今退くと、逆になんか変な感じになるような気がして、だから私はもう一度その場で本を開いた。


 数行、数ページ――…… 一瞬にして広がる目の前の物語に浸っていると、遠くから聞こえた予鈴のチャイム音。それに一気に意識が引き戻されて、たくさんの情報が目から、耳から入ってくる。……いつもなら。でも今日は違った。ガヤガヤと聞こえる声がいつもより遠い。視界に入る情報はたくさんの机とイス。それから……


「ここ、静かで良いだろ」

 立ち上がりながらこちらを振り返った名前も知らない先輩が、どこか自慢げに口の端を上げながら言う。

「はい、とても」

 思わず出た本音。教室の自席にいるよりも、雑音も情報も少なくて、居心地が良いと思ってしまった。

「ここ、意外とマジで人来ないから。穴場なんだよな」

 先輩は、首をぐるりと回すように周りを見回しながら、続けて言った。

「嫌じゃなければ、明日もここ来て良いから」

 そこで言葉を切ったかと思うと、先輩の視線がもう一度私へ向く。

「ま、もれなくオレも居るんだけどさ」

 ニコッ、なんてオノマトペが付きそうな笑顔を見せたかと思うと、くるっと振り返ってそのまま『じゃーねー』と言いながら右手をひらひらとさせ、先輩は階段を下りて行った。少し呆けていた私は慌ててスマホと文庫本と食べ残しのカロリーメイトを抱えて階段を下りる。


 ――……現実世界の出来事で呆けてしまったのは、この日が初めての事だった。

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