第3話

 ボフン、とかかとが地面に沈んだ。


 空から落ちてきた勢いを打ち消すように踏ん張ると、ぶよぶよとした草地からジワリと水がしみ出してくる。つま先が冷たくなると同時に感じる、確かな陸地の踏み心地。待ちわびた感触に、テオドールは大きなため息にも歓声にも聞こえる叫びを上げた。


「っだぁ~! 着いたァ!」

「ん。おつかれさま、テオ」


 腰に回していた手を離し、隣に降り立つアガーテ。その小さな手が、ぐったり脱力して丸くなった背中をポンポンと叩いてくれる。


 ふと、前方で何かがバシャンッと水を鳴らした。ここまで風に乗って降りてきた大きな葉が、長い空の旅を終えて水面に落ちたのだろう。気付いた途端、ゾッと鳥肌が立つ。


「あ、あぶねぇ……もう少しで沼に落ちるとこだったな……」

「でも、ちゃんと狙い通り陸地に着いたな。上出来じゃないか」


 体を起こし、眼前の闇に目をこらす。そこにあるはずの葉も沼地も、月が雲に隠れた夜空の下、ただ黒一色に染まっていた。


 西風に流されてきた二人が降り立ったのは、旧市街の東に広がる湖沼地帯。毒を持つ水生植物が生息する、毒沼地帯である。何としても、沼に落ちないよう着地しなければならなかった。


 だが、燃えるような夕焼けだった空はすっかり暮れて、辺りは真っ暗になっている。こうなると、上空から見下ろす景色はどこもかしこも闇の色をしていて、沼の水面とその中に浮かぶわずかな草地はほとんど見分けがつかない。


 そんな状況での着地は、本当に骨が折れた。葉の傾きを調整していた腕も、重心を動かしていた背中も腰も、じんわりとした痛みを訴えている。腰にしがみついていたアガーテは、さぞ最悪の乗り心地だっただろう。


 そう思ったテオドールは、大きな葉に取り付けたフックと金具を回収しつつ、隣に声をかける。


「先生、散々振り回しちまったけど、大丈夫か?」

「平気。なかなかスリリングだったね」


 やけ弾んだ言葉。

 暗くて顔までは見えない。が、頭に浮かんだのは、無邪気に目を輝かせているアガーテの姿で。


「……先生さぁ、こういうの結構好きだよな」

「うん。またやろうね」

「しばらくは勘弁してくれ……」


 声色ににじみ出る疲れを隠さず言えば、ふふ、と小さな笑いだけが返ってくる。勘弁してくれる気は無いらしい。


 とはいえ、今回は仕方なかったな、と思う。


 想定外だったのだ。


 当初は、湖沼地帯に入る手前で地上に降り、徒歩で抜けるつもりだった。だが、上空の風は予想よりも強く、予想よりもずっと東、沼地の真ん中で着地することになってしまった。


 まぁ、そのおかげで、移動の手間は省けたのだが。


 酷使した体を伸ばしたりほぐしたりしながら、辺りを見回す。


 夜闇の中にぼんやりと浮かぶ、まばらに生える木々や、ところどころに残る三角屋根の黒いシルエット。恐らくは沼であろう、底無しの穴のようにも見える落ちくぼんだ暗がり。


 それらを越えた先には、草木が茂り崩れかけた石造りの家々に灯る、小さなオレンジ色の明かりがあった。人の暮らしの気配がする温かな光は、ユラユラと揺れる黒い湖面に映り込んで、星空よりも強く輝いて見える。


 テオドールは思わず、背中にある麻袋へ左手を伸ばし、その膨らみをもう一度確かめた。


 あれが、目指す街。依頼主が暮らす、湖沼に取り残された集落だ。


 その時、ふと隣から密のような甘い匂いがして、辺りが淡い黄緑色の光に照らされる。


「じゃーん」


 暗闇の中に浮かび上がる、アガーテの自慢げな顔。


 見れば、その手が提げている透明なガラスウリの小瓶の中、土や苔と一緒に詰められた小さな紫色の花が光を放っていた。発光キノコから抽出した反応液を与えると葉やめしべが光る特性を利用した、アガーテお手製、ファイアベルの花の手提げランタンである。


「流石。準備がいいな、先生」

「でしょ」


 頼りないほど淡い、だが確かな明かり。それで足元を照らしたアガーテが、一歩、二歩、と草地を踏みしめる。そうして底が抜けることなく歩けるのを確かめると、こちらを振り返って言った。


「よし。じゃあ、行こうか」

「おう。早く届けてねぇとな」


 足を踏み出す度、波立つ水面のように揺れる草地の上を、踏み外すことのないよう慎重に進んでいく。


 不意に、吹き抜けた冷たい夜風が外套を揺らした。


 風に乗って鼻へやってくる、どこか果実にも似た、覚えのある匂い。胸の奥を叩くような、その強烈さといったら――。


「……テオ、どうしかした?」


 名前を呼ばれ、反射的に前を向く。先を歩いていたアガーテが、不思議そうにこちらを見ている。


 そこでようやく、自分が立ち止まり、視線をさまよわせていたことに気が付いた。


「あぁ、なんか、匂いが……」


 目を閉じる。もう一度、大きく鼻から空気を吸う。


 これは、毒沼の匂い。正確には、ここ一帯を毒沼へと変えた水生植物、ヨザキフヨウの粘液が発する匂いだ。この湖沼地帯を訪れる度に鼻をかすめていた、嗅ぎ慣れた匂いである。


 ――そうだ。前に来た時は、鼻をかすめる程度だった。


「……匂いが、濃いような気がする。毒の匂いが、すっげぇする」


 指先で鼻の下を触りながら答える。


 途端、アガーテが少しだけ目を見開き、キョロキョロと周囲を見回した。そうしたって夜に染まった景色しか見えないのだから、きっと辺りの匂いを嗅いでいるのだろう。


 しばらくそうした後、アガーテは小さく肩を落とし、どこか遠くへ視線を飛ばしたまま言った。


「そう。……やっぱり、テオは鼻がいいね。なら、何かが……今までに無かった何かが起きてるんだ。気をつけて行こう」

「……おう」


 つられて、テオドールもアガーテの視線の先を追いかける。だがやはり、そこにあるのは闇ばかりで、何も見えやしない。


 うなずき合った二人は、一層慎重さの増した足取りで沼地を進んでいった。

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2024年12月3日 18:00

プラントパンクの庭師たち ~緑豊かに滅んだ世界の冒険譚 二階堂友星 @niboshimoku

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