短編集

@mikado_yuri

第1話 「猫」

「にゃぁ」


 背中を呼び止められるように、足元から猫の鳴き声が聞こえた。


「えー…かわいいけど、うちじゃ飼えないよ。」


 恐る恐る振り返り、見下ろした先にはまだ幼さが残る小柄な猫がいた。キャラメルみたいな色の茶トラ柄と、琥珀色のつぶらな瞳が愛らしい。だが、その猫はその姿には似合わない態度で私の顔を引きつらせたのだ。


「おい人間、わたしはなぜ生まれたのだ。」


 固唾をのんで目を白黒させる私と、ちょん、と前足をそろえてまっすぐこちらを見つめる子猫。まず言葉を話したことに驚き、次に聞かれた内容に驚いた。


「えっ、今、君しゃべった?」


「わたしは、猫である。名も家も家族もいない。飯はある。」


「あ、ご飯はあるんだ。よかった…じゃなくて。」


 無口な私にしてみれば、事実は小説より奇なり、というより、猫は人間よりおしゃべり…という感じなんですが。

 言葉をしゃべる猫なんて、というより動物なんて見たことも会ったこともない。え、これ私だけに聞こえてるやつ? 誰かに見られたら…


「人間、わたしはなぜ生まれたのだ。」


「え、うーん…猫だし、かわいがってもらうために生まれたんじゃない? 生まれた理由を考えている猫なんて初めて見た…。」


 私の友達にも猫を飼っている人は何人かいる。どの子もかわいいし、どの猫も自由に生きて飼い主を振り回して、幸せそうに見える。

 あまりにも流暢に言葉を話すものだから私も真剣に答えてしまったし、ちょうど人通りの少ない時間だったからひとまず人の目は気にしないことにした。猫になるべく視線を合わせるようにしゃがむと、猫は逆に背を向けて歩き出した。


「おい人間、お前は話ができそうなやつだ。お前の家に行って、ゆっくり話すことにした。」


 まるでにやりと笑うように歯を見せて、猫はまた前を向いて歩き出した。


「家の方向を知っている、ってことは、私のストーカーってこと?」


 オスなのかメスなのかもわからないが、厄介そうな猫に目をつけられたようだ。私の言葉を無視し、小さな体で前へ前へ進む後ろ姿に思わず笑みがこぼれた。



🐾



「ただいまぁ!」


 家についてすぐ猫を通学カバンに入れて、駆け足で二階の自室に向かう。用事もないのに急ぐ私を母が不思議そうな目で見ていたのは言うまでもない。自室に入ったところでようやく母の「おかえり~」という言葉が聞こえた。


「お前、意外と早く動けるんだな。」


ズシ、と音が鳴りそうなほど教科書の詰まったカバンから、猫はピョコと顔を出して嫌味を言い、軽い身のこなしで着地した。床にはカーペットが敷かれているけど、骨が折れるんじゃないかと一瞬焦った。そんな不安もよそに、勝手に私の勉強机の上で毛づくろいを始めたのだった。


「そりゃ、どうも。はぁ、つかれた…」


久しぶりに急いだからか、肩にかけていたカバンを床に降ろし、疲れてその場でへたり込むようにして座った。


「さて本題だが、わたしはなぜ生まれたのだ?」


「…その話、まだ続いてたんだ。私に聞かれてもわからないよ、私も自分が何で生まれたのか、なんて知らないもん。」


「お前は、そのことについて考えたことがない、と?」


「ないね、ない。まったくない。逆に、なんでそんなことが気になるの?」


 猫は一瞬黙り、窓から見える夕焼けを見て一言だけつぶやいた。


「わたしにも、わからないのだ。」


  能天気な私とは正反対な猫の顔は、どこか思いつめているような気がした。水晶玉のような目には確かに美しい橙色の空が反射しているのに、猫の心はどこかもっと遠くを見つめているようで、なんだか私まで悲しい気持ちになる。


「さみしいなら、うちにいるといいよ。」


 とっさに出た言葉だった。深い考えもなく、ただ自分のこのギュッとなった心をどうにかしたくて、頭に浮かんだ言葉をそのまま投げかけたのだ。

 口に出してから頭にはいろいろ浮かんだが、とりあえず猫の反応を待ってみた。


「それも、いいかもしれないな。」


 その言葉も、顔も、声色も、今まで一番穏やかなものだった。振り向いた猫はゆっくりと目を細め、そのまま二回瞬きをした。

 私はその言葉に舞い上がり、同時にうちにしゃべる猫がやってくる!と胸が高鳴った。早速、親を納得させるための言葉を脳みそフル回転させて考える。いや、こういう時こそ感情論で訴えかけるほうがいいのかもしれない、なんて裏をかいてみる。


「じゃ、じゃあ待ってて。まずはお母さんを説得しなきゃ…!!」


 駆け足でドタドタと階段を駆け下りる姿を見送り、猫はまた目を細めた。


「…人間とは、いつの世も愛らしいものだな。なぁ、お前もそう思うだろう?」


 猫は沈みゆく太陽にそう語りかけた。そして、窓から見える景色をまるで慈しむように見下ろし、ずいぶんご機嫌な様子で勉強机に頭をこすりつけるのだった。



🐾



 やはり母親を説得できなかった私は肩を落として部屋に戻ったが、そこに猫はもういなかった。どうやったのかはわからないが、窓が開いていたからそこから逃げたのだろう。飼われるのがやっぱり嫌になったか、ただのきまぐれか、理由はわからないが。それに今でも夢を見ているようで、さっきまで話していたのは本当に猫だったのだろうか、と肝が冷えた。


 「猫に化かされたかなぁ」なんて、独り言が宙に浮く。やっぱり猫は気まぐれだ。人間のことなんか召使いぐらいにしか思ってないんだな、とガッカリもした。

 誰もいなくなった机に近づくと、窓辺から入ってくる風が優しく頬を撫でた。

 

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