K·night

宮本 賢治

第1話

『K·night デスゲーム』


死ね。

そう言ったことはあるかい?

ないってことはないだろ。

いい子ぶるなよ。

こっちは腹割って話そうとしてるんだ。そっちも正直になりなよ。

こっちの思い通りにならないとき、やなときにやなタイミングでやなこと言われたとき、相手に聞こえない声で、吐き捨てるようにボソッて言っちゃうよな。

でも、おれたちナイトは、あんたらの斜め上を行く。

相手を指差し、しっかり、はっきりと言うんだ。

死ね。

エキセントリックだろ。

おれもそう思うよ。

しかも、本当に殺し合うんだ。狂ってるとしか思えない。

でも、そうしないと生き残れないのだから、仕方ない。

相手を殺さなければ、生き残れない。そんな状況になったら、あんたなら、どうする?


キーを叩く。

羅列するアルファベットと数字。どこに何がと思うことなく、指が勝手に動く。

二つのモニター。左に並んだオーダーを見て、右の表に数字を埋めていく。

腰に手を回した。スーツには不似合いな、使い古した革製のベルトパック。スナップボタンを外し、中からフリスクケース缶を取り出す。

ボロボロのベルトパック。フリスク缶がギリギリ入る程度の大きさ。使い込むうちにフリスク缶が馴染んだ。取り出しやすく、入れやすい。道具は馴染んだ物が使いやすい。

缶のフタを開け、フリスクを二粒振り出す。きっちりと二粒。ベストな数だ。おれはいつもきっちりと二粒、フリスクを振り出すことができる。失敗はない。

フリスクを口に放り込み、噛み砕く。ミントの刺激が気分をリフレッシュさせてくれる。

パソコン作業に戻る。

うちの会社は半導体を製造する際に必要な薬液などの高機能材料を製造·販売する化学メーカーだ。

営業から回ってくる発注を受け取り、各工場に生産計画を送る。同時に原料の手配も行う。そして、出来上がった製品の納入の手配をする。それがおれの仕事だ。

半導体業界は繁忙期と閑散期の差が激しい。大抵、桜が散るころ、うちの会社は繁忙期を迎える。今年は特に忙しい。

指が勝手に動く。のめり込む。左から右と視線を移し、ただ指が動く。

周りも見えず、音も聞こえない。

周りを気にすることなく、自分の世界に没頭することができるかい?

イエスと答えた人は要注意だ。

なぜなら、ナイトになる素質があるからだ。

ふと、不快なノイズを感じた。

ノイズに小さな衝撃が加わる。

方向は左だ。

「樫尾さん」

名前を呼ばれ、振り向くと、村上がおれの肩を指で突っついていた。

「電話鳴ってますよ」

上着の内ポケットでスマホがけたたましく着信音を鳴らしていた。言われるまで気づかなかった。

村上、一回り年下の女性社員。よく気がつく、頼りになる同僚だ。

村上に拝む仕草をして、あわてて電話に出た。

得意先からの問い合わせだった。言われのない催促。パソコンの左モニターの発注を照会するが、そんなオーダーはない。おかしい。情報が抜けている。折り返し連絡することを告げ、電話を切った。

「また、ゾーンに入ってましたよ。わたし、樫尾さんの電話番じゃないですからね」

村上が口を尖らせて、自分のキーボードを叩きながら言った。

確かに入っていた。

昔から、集中すると、周りが見えなくなった。そして、周りの音も聞こえなくなった。悪い癖だ。

白くただっ広いオフィスで大きく息を吐いた。

周りから聞こえるのはキーボードを叩く音と、スマホに向かって話す一方的な会話だけだ。

「また、メシ奢るよ」

小声で村上に声をかけた。

「お肉食べたい」

肉の妖精が現れた。

村上がモニターに向かったまま言った。

「京城苑」

村上が行きたがっていた高級焼肉店の名前を告げると、村上はこっちを振り向き、ウインクした。

村上悠香。入社二年目。配属されたとき、隣の部署から若い連中が覗きに来ていた。見た目は清純っぽいが、人懐っこい性格の今どきの子だ。

彼女が入社したときから、デスクが隣同士になった。最初は手取り足取り仕事を教えていた。村上は賢く、勘がいい。今では助けてもらうことも少なくない。

他愛もないおしゃべりから、音楽の趣味が似ていることがわかった。トゥーチェロズって知ってるかい? 二人のチェロ奏者によるデュオだよ。

二本のチェロだけで、マイケル・ジャクソンのスムーズ・クリミナルを演奏している動画を見たことはないかい?

スティングやACDC、ニルヴァーナやはたまたプロディジーまでカバーする選曲のセンスと、卓越したチェロの音色がたまらない。

村上はオリジナルの影武者って曲がお気に入りだ。

おれと村上は学生時代、チェロを弾いていた。といっても、おれは下手の横好き。村上はコンクール常連の強豪校出身なので、腕前は言うまでもなく比べ物にならない。

チェロの音色は人間の声に似ていると言われることがある。人間の声も千差万別。チェロだって、弾く人によって音色は違う。

前に村上が演奏している動画を見せてもらった。はっきり言って、プロかと思った。

彼女のデスクにはチェロを弾く白猫のマスコットが置いてある。

それ、かわいいねって褒めたら、お揃いの黒猫のマスコットをくれた。

仕事もプライベートでも、気さくに話ができる間柄だ。

さっきの得意先からの電話が気になり、営業部の黒川に電話をした。人のことは言えないが、なかなか出ない。苛立ちが募る。留守電に変わり、メッセージを残そうと思ったときに、電話が繋がった。

黒川はしどろもどろだった。

こちらの問いかけに、あの、いえ、そのの連続。自分のミスを隠そうとしている。また、やりやがったな、こいつ。

「どういうことだ」

電話に向かって話すおれの怒気に気付いたのか、村上がこっちを気にしている。

黒川は得意先のオーダーをこちらに伝えるのを忘れていたらしい。ありえないミスだ。

電話を切り、スマホをデスクに投げ捨てた。

「クソっ、死ね」

吐き捨てると、村上が非難の目を向けていた。

「そんなこと言っちゃ、だめですよ」

「言いたくもなるよ」

おれが大きくため息を吐くと、まっすぐこっちを見て村上が言った。

「死ねって、生き物の存在そのものを否定することですよ。樫尾さんがそんなこと言うの、嫌です」

かわいいタヌキ顔の目が釣り上がってる。首から提げた社員証のかわいい顔に戻ってほしい。

「わかったよ、もう、死ねなんて言葉は使わないよ」

村上が柔らかな表情に戻った。やっぱり、女の子は笑顔が一番だ。

「何かトラブルですか?」

村上が問いかけてきた。

「営業の黒川が、お得意さんのオーダーをこっちに流し忘れやがった」

「え、間に合うんですか?」

「やるしかないだろ。工場に直接連絡取って、調整しなきゃな」

村上が自分のスマートウォッチを見て、短い沈黙の後、自分を指差して言った。

「手伝おっか?」

就業時間終了間近、仕事量からして、日付を越えるのは間違いない。タメ口の女神がありがたい申し出をしてきた。

「松阪牛特選A5シャトーブリアン」

おれは呪文のようにそう唱えた。

「のった」

タメ口の女神は、肉の女神でもあった。村上は二年目とは思えないほど仕事ができる。

焼肉くらい、安い物だ。


営業部の黒川。

細身で腰の低い男。

この時は、またあいつのミスに巻き込まれたって思っていただけだった。

黒川の異変には気付けなかった。

だって、そんなもん、わかるわけないだろ。

営業部のオフィスで通話の切れたスマホの画面を見つめる黒川。スマホ画面には樫尾の名前。

黒川が急に痙攣でもしたかのように体をビクつかせた。

黒川の頭の中に軽やかで優しい音色が響く。

周りの人には聞こえない。

チリン、チリン。チリン、チリン。

金属製の手振りベルの音。

一定のリズムでベルは鳴る。

「ブルーセーバー···」

黒川がつぶやいた。

黒川の異変に周りがざわつく。ついに黒川が壊れた。みんな、そう思ったに違いない。

日常生活の中で、ヤバい奴と遭遇した場合は関わり合わないほうがいい。

相手がナイトだった場合、命の保証はできない。


左腕のクロノグラフを見た。あと、五分で日付が変わる。

腕時計は昔からカシオ派だ。

樫尾俊雄

カシオ計算機の創業者である、天才発明家と同姓同名なのが、その理由だ。

いくら繁忙期だとは言えど、この時間に残っている者はいない。ただっ広いオフィスにはおれと村上だけが残っていた。

チーズバーガーの最後の一口をほうばり、氷が溶けて薄くなったスプライトでそれを流し込んだ。

ポテトをつまもうと思ったら、もうなくなっていた。

隣を見ると、村上が疲れた表情でポテトを食べていた。一歩遅かった。

「だから、ナゲットも買おうって言ったのに」

モニターに顔を向けたまま、村上が言った。就業時間外、二人でいるときはタメ口が多い。声のトーンも気を張っていないのが、心地よい。

「こんな夜更けに油っこい物ばっか食べたら、太るぜ、お嬢さん」

「深夜残業のファストフードは ゼロカロリーなの知らないの」

肉の妖精が新説を唱えた。

村上はポテトをモグモグ食べて、それをコーラで流し込んだ。彼女曰く、ダイエットコーラはコーラではないらしい。

「あ〜あ、久しぶりに平和軒のAセット食べたかったな」

平和軒はオフィスから目と鼻の先の町中華の老舗。Aセットはラーメンとチャーハンのセットだ。

「仕方ないだろ、入る直前に女将さんが暖簾しまうの遠目に見えたんだから」

「けど、樫尾さん、常連なんだから、あれ〜も〜終わり?とか言って、しらばっくれて声かけたら、イケたでしょ」

「キミね、老人に時間外労働を強いるものじゃないよ」

「だって、樫尾さんがその気にさせたんじゃん! お腹空いたから、平和軒でAセット食べようって。なのに、直前になって、あ、オシッコとか言って、お手洗いに行くから、ギリアウトになったんじゃん!」

「だって、生理現象は不可抗力だろ」

あ〜言えば、こ〜言う。村上は食べ物の恨みに関してはしつこい娘だ。

「あ〜、ホントに久しぶりに平和軒のラーメン食べたかった。見た目、細麺だけど、手打ちだから、コシがあってプツンプツンって歯応えがあって、コクがあるのにしつこくない鶏ガラスープがよく絡んで···しかも、わたし、絶対にチャーシューとワンタン、トッピングしたもん! 

ほんのりピンクの断面にバランス良く入った脂身のチャーシュー

。スープを吸ったチュルチュル のワンタンを噛むと生姜が香って

あ〜、も〜、死ぬ!!」

娘が喘ぎ出した。

人に死ねって言うなと言っといて、自分は死ぬって言葉を簡単に使う。でたらめだ。

「やめろ!、胃が平和軒を求めてしまう!」

平和軒のラーメンは見た目、昔ながらのオーソドックスな醤油ラーメン。これがまた、うまいんだ。

「ラードが香ばしいチャーハンにしこたま、コショウ振って食べたかったな。それに樫尾さん、最初は我慢するけど、きっと途中で餃子追加するよね。そしたら、大将が中瓶の栓抜いて、嬢ちゃん、こんな遅くまで大変だねって、ビール注いでくれて···」

ビールを注がれ、どもって会釈して、グラスのビールを飲み干し、く〜ったまらんと首を降る一連を村上がエアーで再現している。思わず喉が鳴る。落語家か。

村上がトリップを終え、恨めしそうな顔をして、二個目のハンバーガーにかぶりついた。モグモグと咀嚼して、顔を曇らせる。

「わたし、ピクルス抜いてって言ったのに、あのメガネ! あいつ、いつもオーダーミスするよね」

そう言って、平和軒の代わりに立ち寄った近くの行きつけのバーガーショップの顔見知り、黒縁メガネをかけた太った店員の文句を言い、村上がバーガーからピクルスのスライスを抜いた。

「好き嫌いばっか言って、食べ物残しちゃ、ダメだぞ」

「好き嫌いばっか、言ってません! わたしが食べられないのはピクルスと···」

そこまで言って、村上が急にモジモジし始めた。

ピンときた、ワサビだ。

おれは思わず、自分の左脇腹をさすった。

ちょうど一年ほど前、北陸に日帰り出張で行った出先のランチで、寿司を食べることにした。出張先の富山県の美味しいお店を村上がリサーチしてくれた。三千メートル級の立山連峰の雪解け水が注ぎ込む富山湾は、その海流と特殊な海中地形により多種多彩な魚の住処となっていることから、天然の生け簀と称されているらしい。

鮮度抜群・魚種豊富な富山湾の地魚をネタにした、富山に来た者だけが堪能できる贅沢な寿司。富山湾鮨。

村上は出張の三日前から、早く食べたいとルンルンだった。

白エビ〜、ホタルイカ〜、クロマグロ〜♪

村上は楽しみにしているネタを歌うように口づさんでいた。

前日はノドグロ〜、マイワシ〜、サクラマス〜♫だった。ホントに楽しい子だ。

昼前には目当ての店についたが、観光客がすでに店の前に列をつくっていた。しかし、村上トラベルがしっかりと席をリザーブしてくれていたので、列を抜け店内に入ると、職人を正面にしたカウンター席に通された。

出張先のランチで酒を飲むわけにもいかず、お目当ての富山湾寿司セットを二人前頼んだとき、村上がモジモジしていた。

そうだ、この子、辛いものは好きだけど、鼻がツーンってするからワサビが苦手なんだった。

助け舟を出したつもりで、注文を聞きに来ていた若い女将さんにおれは言った。

「悠香ちゃん、お子ちゃまだから、ワサビ抜きだよね」

すると、村上は顔を真っ赤にしてコクッとうなづいた。かわいい。

注文を終え、突き出しのバイ貝の煮付けをつまもうとしたとき、おれの左脇腹に衝撃が走った。

ノーモーション、ノールック、ゼロレンジからのボディブローだった。息が止まった。肋骨が折れたと思った。

「今度、バカにしたら、殺しますよ」

フリーザが冷たい声で言った。

その日の寿司の味はあまり覚えていない。

村上は怒らせてはいけない。文字通り痛い目に合う。

過去のトラウマの怖気を振るい、とにかく、好き嫌いは良くないと言うと、村上が口答えしてきた。

「樫尾さんも紅生姜食べられないくせに」

おれは生姜は好きだが、紅生姜は食べない。なぜなら、赤いからだ。

「ピクルスなんて、付け合わせなんだから、バーガーと一緒に食べられるだろ。おれも排除できないたこ焼きの紅生姜なら食べるし」

おれがそう言うと、ムッとした表情で村上がピクルスをおれのデスクの上のバーガーの紙袋に置いた。

「じゃ、これも食べて」

ピクルスを見た。化学調味料にまみれたピクルスだけを食べるのは御免だった。

「やだよ」

好き嫌いをとがめられた子どものようになっていたおれの顔を見て、村上はやってやったと得意気な表情を浮かべて、残りのバーガーにかぶりついた。

夜食を食べ終えても、作業は続いた。

眠い、疲れた。

腰のベルトパックに手を回し、フリスク缶のフタを開けた。

「あざます」

村上がモニターに顔を向けたまま、右手を差し出し、お恵みを求めた。

おれはフリスクを村上の右手に降り出した。

三粒。

焼きが回った。疲れてる。コントロールが悪い。

「三粒は多いよ、一個返す」

村上が一粒返してきた。

返却された一粒を載せた手のひらに、おれは缶を降った。二粒が振り出た。

一粒プラス二粒。

仕方なく、おれは三粒を口に放り込んだ。刺激が強過ぎた。ミントがキツい。

デスクを離れ、窓に向かった。気分転換。

窓の外には満月が浮かんでいた。

大気が澄んでるのか、今日の月は白く美しかった。それにいつもよりも大きく感じた。

そうか、朝のニュースで今日はスーパームーンと言っていた。

月の大きさは常に一定ではなく、地球との距離によって変化すると言う。月が地球に近づくタイミングで満月になった場合、通常より大きく、輝きも増すらしい。

古来より月は神秘的な意味を付加されてきた。月は銀色・白で表されることが多い。西洋では月が人間を狂気に引き込むと考えられ、英語で "lunatic"(ルナティック)とは気が狂っていることを表す。

狂気に引き込むほどの美しさか、天空にそびえる神々しい姿を目の当たりにすると、わからないでもない。

「俊雄、サボってないで、早く宿題しなさい!」

ごっこ遊びが始まった。村上がママ口調でたしなめるように言った。

「はい、ママ」

ぼくちゃん口調で答えて、切り換える。

「さっき、外出たときは曇ってて気付かなかったけど、今日は満月がキレイだよ、スーパームーンだってさ」

村上を誘うつもりで言った。

「お月見なんて、風流なことしてる場合じゃないよ···俊雄、早く宿題終わらせちゃいなさい!」

普段の村上だったら、

「え、ホント? わ〜、キレイ。夜景の見えるお店で、キックの強いお酒呑みながら、お月見しようよ」

って、かわいいことを言うはずなのに、女は現実を目の前にすると、途端に現実的になる。ごっこ遊びは継続らしい。

「はい、ママ」

ママが噴火する前に、おれは席へ戻った。

作業に没頭する。


そのころ、営業部ではおなじみの光景が見られた。

黒川を説教するのは、直属の上司である田口主任だ。

営業部で残っているのはその二人だけ。それも陰湿な雰囲気の中、男同士が顔を見合わせている。

おれなら、絶対に耐えられない。それに比べて、村上と二人残って残業なんて、天国みたいなもんだ。

「もう、いい加減にしてくれよ」

年明けに主任に昇級したばかりの田口が言った。田口はおれの三つ下だが、肥満体型に後退した額を見ると、年上にしか見えない。

「申し訳ありません」

黒川は直立から90度腰を曲げて、頭を下げた。

「謝ればすむと思ってるんだろ。本当に謝罪だけが上手くなったな」

田口の嫌味に対して、同じ姿勢で同じセリフを黒川は繰り返した。

「謝っても、きみのミスは消えない。しっかり加算されていくよ」

田口の嫌味は続く。

「うちの会社の創始者は慶応大出身。トップや取締役はみんな慶応OBたちだ。創始者が福沢諭吉と縁があるのだから、それは仕方ない。きみもそれを知ってて、この会社に入ったんだろ? 慶応大出身だから、出世できると」

黒川が頭を上げ、直立に戻った。

「でも、そんなミスばかりじゃ、いくら慶応大出てても、無理だよね。上は学生時代の成績がトップクラスだったきみに期待してるみたいだけど、こんなに仕事ができなかったら、そんなの無理だよ」

慶応大の名前が出てから、少しずつ黒川の顔が変化していった。

「何だ、その顔は不満でもあるのか? な、くれよ、その無駄な学歴。おれや樫尾さんみたいに仕事ができても、慶応出てないと出世しにくいんだよ。な、くれよ」

そのときから、黒川は小さな声でブツブツと何かをつぶやき出した。

「あ、何ブツブツ言ってんだよ。言いたいことがあったら、はっきり言え!」

田口の物言いはもはや恫喝だった。黒川のブツブツがしだいに大きく、声として聞こえる。

「······死ね、死ね、死ね、死ね」

「おまえ、上司に向かって、なんて口のききかただ!」

田口が逆上した。黒川は田口を指差して、叫んだ。

「死ね!!」

黒川が営業部のオフィスから、廊下に出た。

左腕には白いバングル(腕輪)をしたいた。

オフィスにいたはずの田口の姿はどこにもなかった。

「おれはブルーセーバーさえ倒せれば、それでいいんだ。邪魔するやつはみんな、死ねばいい」

黒川がそう言って、口元に笑みを浮かべた。でも、目は一切笑っていない。ただ、まっすぐ前を見ていた。

どこからどう見ても、ヤバい奴だ。


そのころ、おれと村上は作業継続。

フリスクでリフレッシュすること二回。やっと入力が終わった。

入力した数値に目を走らせ、最終確認を行った。何とか納期に間に合いそうだ。

「こっちは終わったよ。そっちはどう?」

「こっちも完了です」

そう言って、村上がリターンキーを押した。

一人だと朝までかかったに違いない。驚異的なスピードで仕事が片付いた。

「ありがとう、助かったよ」

「どういたしまして、お礼はいつでも受けつけてますよ」

あからさまな催促に、はいはいとおどけて返事をしながら、おれは帰り支度を始めた。それを見て、村上も支度を始めた。

「最近、忙しかったから、週末に他のみんなも誘って行こうか、焼肉」

おれの提案に村上の顔が曇る。

「え〜、二人がいい」

余程、松阪牛を独り占めしたいのかそれとも···どちらとも取れる物言いに思わず、笑ってしまった。

その時、おれたち以外誰もいないオフィスに物音がした。営業の黒川が入り口に立っていた。上着も着ず、シャツを腕まくりしている。

「あ、黒川さん、お疲れ様です。黒川さんも残業だったんですか?」

村上の問いかけにも答えず、黒川がゆっくりこちらに近づいてきた。何か様子がおかしい。

いつもヘコヘコと腰が低い黒川が胸を張って歩いている。

「樫尾主任、きさまがナイト·ブルーセーバーだったのか」

いつも自信のなさしか感じられない黒川の声がまるで違った。威圧的な声。しかも意味のわからないことを言っている。

村上がおれに身を隠すように腕を組んできた。

「あの人、何言ってるの? 怖い」

小声で耳打ちしてきた、声が震えている。

村上に後ろに下がるように制し、おれは黒川に向かって足を踏み出した。

「何言ってるんだ、黒川。おまえ、変だぞ」

黒川は細身だ。小突いてやろうと腕を伸ばしたら、逆に胸を小突かれた。大した動きでは無かったのに、車に跳ねられたかのような衝撃に襲われた。

大きく体を吹き飛ばされ、床に転がった。息が止まる。起き上がれない。

村上が声に鳴らない悲鳴を上げた。

「何するんですか!」

非難の声を上げて、村上がスマホを取り出した。警備にコールしている。

「何してるの、早く出て」

村上の願いも虚しく、警備はなかなか出ない。おれはようやく、体を起こした。

黒川の右腕が三十センチくらいの黒い球体に包まれた。次の瞬間、球体は消え、黒川の右腕が、黒いエナメル素材のように変化していた。何かに包まれたとかではなく、皮膚そのものが変化したように見えた。

右腕には刃のない大型のナイフの柄のような物を持っていた。艶の無い黒色の金属製。柄から緑色の光の刃が現れた。鈍い唸りを上げている。まるで、スターウォーズのライトセーバーだ。

黒川の体が消えたと思った瞬間、次の瞬間には村上の目の前に移動していた。ありえない速さ。人間の動きじゃない。

緑色の光刃が村上の右腕を切り落とした。

床に転がった切り落とされた右腕。握られたスマホから警備の声が聞こえる。

「おれの邪魔をするな」

そう言って、黒川が右腕ごとスマホを踏み潰した。

何が起きているのかまるでわからない。理解が追いつかない。

同じように何が起きたか理解できていない村上がこちらに近づいてくる。その顔には表情がない。

「樫尾さん···」

そう言った村上の首が切り落とされた。おれの足元に目を見開いた村上の首が転がった。首を落とされた村上の体が床に倒れた。

その向こうで、黒川がナイフを振り切った姿勢で立っていた。

村上のバラバラな遺体が同時に緑色の炎に包まれた。激しく燃えつきる。燃えつきると同時に炎が消えた。床面にあった血痕も、何もなかったかのように消えている。炎の焦げ跡も無い。

「ブルーセーバー、その青い光刃を見た者はいない。もう、何人殺したんだ?」

黒川がまたわけのわからないことを言い出した。

驚きしかないおれの表情を見た黒川が続けて言った。

「まだ、ナイトとして、覚醒してないのか? メッセージも聞いていないようだな。ザ·ロードが今日のゲームをセッティングした」

わけのわからないのオンパレードだ。一言一句、わけがわからない。

「さっきから、ナイト、ナイトって、ナイトって一体、何のことだ? ザ·ロードって誰だよ?」

「ザ·ロード。神に近い存在···すべてのナイトの創造主だ。ナイトはザ·ロードが選んだ人間の強化形態だ。きさまもザ·ロードに選ばれた一人だ。ナイトの強さはその人間の意識の集中、その度合によるところが大きい。見せてやろう···」

そう言って、黒川が目をつむり、眉間にシワを寄せた。意識を集中させている。黒川の全身が黒い球体に包まれた。漆黒の闇。見たことは無いが、ブラックホールをイメージさせる。球体は恐ろしい速さで回転を始めた。そして、回転しながら、ゴム風船の空気が抜けていくように縮んで行く。球体はピンポン球くらいに小さくなった。

ズンッ

大きな音をたてて、球体が元の大きさに膨張した。

球体の質量に潰されて、床面が大きくへこんだ。

球体がスッと消えた。

黒い人影が現れた。

···いや、影じゃない。黒いエナメル素材のような全身スーツに身を包んだ得体の知れない怪人が立っていた。

黒いヘルメットには鳥のくちばしを思わせるバイザーが顔をすっぽりと隠している。まるでガッチャマンだ。両腕と両脚に薄いプロテクター。股間にはビキニパンツのような物を履いている。プロテクターとビキニパンツは硬質の装甲のように見える。

黒川は細身だったが、今、目の前にいる黒い怪人は少し、ビルドアップしているように見えた。

昔、テレビで見た変身ヒーローを思い出させた。

しかし、記憶の中のチープな着ぐるみの類いとは違い、目の前の怪人は作り物には見えなかった。あまりにも、精巧過ぎた。

間違いない。

黒川は、おれの目の前で変身した。あの怪人は黒川だ。

でたらめ過ぎる。

目の前で繰り広げられる状況、ありえるわけがない。

あまりの出来事の連続にまるで頭がついていかない。おれは自分の頬をつねった。

痛い。

つねり過ぎて、爪が頬に食い込んだ。指には血が付いていた。

夢じゃない。目の前で起きていることはすべて現実だ。

変身した黒川のビキニパンツの左右にナイフの柄がマウントされている。刃先の部分は前方に向かって、斜め前になっていた。

ナイフの柄が抜きやすいように回転し、黒川は二本のナイフを抜いた。柄から緑色の光刃が現れた。

「夜に現れる黒い騎士、ナイト。

満月の夜はより力がみなぎるように感じる」

黒川が二本のナイフを掲げ、天を仰いだ。月が人間を狂気に引き込む。満月が産んだ狂った怪人だ。窓からの月明かりが狂気を助長しているように感じた。

「どうした? おまえも変身しろよ」

そう言って、黒川がこちらに近づいてきた。

おれはずっと床に腰を下ろしたままだ。でも、立ち上がれない。目の前の恐怖が全身を支配していた。

村上のことを考えた。唇を噛む。どうしてこうなったんだ? そして、今、自分が置かれた状況を考えた。

絶体絶命。

自分のことしか考えられなくなった。おれも死ぬのか。死への恐怖が全身を支配する。これまで感じたことのない寒気に襲われた。

死ぬ。

恐怖が全身を満たす。

嫌だ、まだ死にたくない。

その混じり気のない純粋な思いを願う。何も見えなくなった。何も聞こえなくなった。その願い一点にすべての意識が集中する。

その時、おれの視界は真っ黒になった。

空間が圧縮される。体も心も小さく凝縮される。さっきまで感じていた恐怖も消えていく。

凝縮した暗闇が爆発した。

視界が晴れると、おれの姿も変化していた。

くちばしが伸びたヘルメットに、エナメルの黒い皮膚。外見は黒川とさほど変わらない。

体中に力がみなぎる。おれも黒川同様、黒い怪人に変身した。

「やっと会えたな、最強のナイト、ブルーセーバー。きさまはこのナイト·ナイフが倒す。最強の称号はおれのものだ」

黒川が二本のナイフを構えた。今、おれが倒すべき相手、ナイト·ナイフだ。

「さあ、ゲームをはじめよう」

黒川が言った。

おれは自分の腰に目を落とした。左腰にマウントされた艶のない黒く短い筒。

筒が外側にスライドし、180度回転した。

収縮していた筒がわずかに拡張し、折りたたまれていた鍔が開いた。刃のない刀の柄。見た目は西洋の刀剣に近い。

柄を引き抜く。柄から、日本刀のように湾曲した青い光の刃が出現した。

水平にセーバーを振るった。光刃が空を裂き、唸りを上げた。

なぜだろう。

自然に体が動く。やるべきことがわかる。

突然、頭に変なくちばしをつけた黒い怪人に変身した。しかし、初めての気がしない。

死への恐怖がおれを変えた。

ナイトとしての記憶がすべてよみがえったわけじゃない。

でも、自覚できる。

おれが最強のナイト、ブルーセーバーだ。

おれはセーバーを両手で持ち、体の正面で構えた。

黒川は刃渡り40センチはある大型ナイフを順手で持っていた。

「ちょっと狭いな」

そう言って、黒川がオフィスの机を払い除けた、わすがな動作で簡単に机の列は跳ね除けられ、バトルフィールドが出来上がった。

黒川が動いた。真っ正面から迫ってくる。

ナイトの動きは速い。生身の人間の動体視力くらいでは、姿を追うことすら無理だろう。

おれはセーバーを振りかぶり、そのまま振り下ろした。

黒川が二本のナイフを十字にしてセーバーを受けた。

おれは切り返し、黒川の右脚を切りつけた。黒川はそれを右のナイフで受け、左のナイフで突いてきた。体重を乗せた重い突きだ。

おれはセーバーを引き寄せ、柄のグリップエンドから短い光刃を出し、その刃で黒川の顔を切りつけた。黒川がのけぞるように体をかわす、小刀は黒川のバイザーを斬り裂いた。黒川がのけぞった姿勢からバク宙で後退した。

二刀を上手く使って、懐に飛び込んでくるのはわかっていた。おれのセーバーは湾曲した大刀と小刀を出すことが出来る両刃の武器だ。小刀によるカウンターをかわすとはさすがに接近戦に慣れている。

黒川のバイザーの切断面が黒い粒子となって、湯気のように蒸発している。ナイト特有のダメージだ。

おれは構えていたセーバーを下ろした。

「なあ、おれたち何でこんなことしてるんだ?」

率直な疑問を黒川にぶつけた。

「こんなこと···より強い相手を倒す、それしかナイトにはあるまい。ザ·ロードはより強いナイトを求めている。そのためにゲームはマッチングされた」

「相手を倒したその先に何がある? 殺し合いの先にあるものなんて、悲しみしかないだろ」

「悲しみ···」

黒川の肩が震えた。嘲笑しているのだろう。

「人間を超えた力を得て殺し合う。これ以上に楽しいことなんてないだろう。違うか? きさまもナイトであることを楽しめ、ナイトであることを受け入れろ。そうすれば、覚醒する」

「覚醒?」

「そうだ。ナイトであることを受け入れ、ゲームを楽しむようになれば、いずれ覚醒する。覚醒すれば、ザ·ロードからのメッセージも聞こえるようになる」

黒川が左腕を掲げた。手首に白いバングル(腕輪)をしている。

「これが覚醒者の証だ。これをしているナイトは、リセットに巻き込まれることがなくなる」

「リセット?」

おれの疑問に、やれやれ、そんなことも知らないのか、落ちこぼれの生徒に説明する教師のように黒川が答えた。

「ザ·ロードはゲームの後、リセットを行う。フィールドの修復、そして、関わった者の記憶も、何もなかったかのように修正される。だが、覚醒したナイトは記憶を消されることはない。変身だって、苦労せずとも、自由自在だ。変身せずとも、ある程度の能力も使えるしな。夜にしか変身できない制約はあるが、夜はわれわれナイトのゲームフィールドだ。ナイトに敵う者などいない。ナイトこそが夜の支配者だ」

黒川が肩をすくめて、おどけてみせた。ピエロでも気取っているつもりか。狂ったピエロだ。

「さあ、続きをしよう。ウズウズする」

根っから、この最悪のクソゲーにハマっているらしい。戦いの催促をしてきた。

「いろいろレクチャーしてくれてありがとう。礼を言うよ。ま、このクソゲーにおれがハマるわけがないから、またリセットされるんだろうけどな。そのザ·ロード様とやらに」

黒川からおどけた雰囲気が消え去る。さらにおれは続けた。

「もう一つ礼を言っとくよ。思った以上におまえがクズだから、斬り捨てたところで心を痛めないで済みそうだ」

「きさま···」

「相手をきさま呼ばわりする奴は大抵、悪玉だぜ。しかも雑魚が多い」

戦いの中で苛立ちによって、感情を制御できないタイプがいる。黒川を観察したところ、どうやら、そのタイプのようだ。それを利用させてもらおう。

おれは意識を集中させた、自分自身の体を飛ばすイメージを持つ。瞬間で移動するイメージ、その一点に意識を集中させる。

次の瞬間、おれはナイトの目でも追えない速さで移動し、黒川の横をすり抜けた。

「何!」

黒川がパニックを起こしている。キョロキョロと辺りを見回し、すり抜けて後方に移動していたおれをやっと発見した。

おれは右手にセーバーを持ち、振り返った。左手には手に入れたばかりのオモチャを、テニスボールみたいにポンポンと投げては、キャッチする動作を繰り返していた。

「それは!」

おれが遊んでいた白いバングルを見て、黒川が驚いた。

バングルと自分の左手首を交互に見ている。ナイトは意識を集中させると、短距離だが超高速で瞬間移動できる。ただし、スピードに特化しており、パワーが足りないため、攻撃には向いていない。黒川の驚きようからして、あいつはナイトダッシュを知らないらしい。経験が浅いな。

おれは白いバングルをキャッチして、それを左手で握り潰した。手を開き、粉々の残骸を振り撒いた。

残骸は黒い粒子となって、蒸発していく。

「どこのドンキで買ったんだ、この安物」

おれの挑発に黒川が逆上している。顔が見えなくても、肩の震えでわかる。

冷静さを失うとそこにスキが生まれる。ナイトの戦いではそのスキが命取りになる。

黒川がナイフを握ったまま、右手を伸ばす、人差し指でおれを指差し、言った。

「死ね」

ナイトが相手を倒す前の儀式。もう、必殺技を繰り出すつもりか。いいだろう、受けてたとう。

おれはセーバーを左手に持ち替え、黒川に向かって、右手を伸ばした。人差し指で黒川を指差す。

「死ね」

言ってやった。

一瞬、村上の顔が頭に浮かんだ。目を釣り上げて怒っている。

「似合わないぞ、そんな顔」

おれはそっとつぶやいた。

必殺技を発動するためだけに村上が嫌がるセリフを言ったわけじゃない。

それがおれの本心だからだ。

黒川のナイフの光刃が荒々しく出力を上げた。二周りは刃が大きくなり、唸りをあげている。おれのセーバーも同様に出力が上がった。ナイトが必殺技を繰り出す前兆だ。

デスモード。

必殺技を発動するまでの短時間のみ、スピードとパワーが段違いにアップする。繰り出される技は相手を必ず、死に至らしめる。

黒川が二本のナイフを弧を描くように振り回し始めた。でたらめな軌道、でたらめな速さ。描いた弧はやがて黒川の周りに光の球体を作り出した。

おれはセーバーの光刃を一度、納め、柄を腰のマウントに戻した。

居合い斬りをする侍のように柄に右手をかけ、腰を落とした姿勢を取った。

一太刀で両断できる一瞬に意識を集中させる。

光の球体、まるでスキがない。

でも、あの技はただでたらめにナイフを振り回しているだけ、デスモードになり、パワーとスピードが上がっているから、見えにくいだけだ。

目だけで追おうとするから見えないんだ。五感を研ぎ澄ませ、見るのではなく、感じろ。

ナイフの風圧を感じる。向かって、左側のリズムがおかしい。ナイフを振り上げるスピードが速すぎる。力み過ぎてるな、そのせいで振り下ろす動作が遅れている。向かって左側、つまり黒川の右のナイフ。二刀使いではあったが、あいつの構えを思い出す限り、黒川はあきらかに右利きだ。感情的になり、利き腕のナイフに力が入り、太刀筋が乱れている。

スキが見えた。

光の球体がスゴイ速さで、こちらに向かって飛んできた。

デスボールだ。

ピクッとおれの右手が反応した。

今だ。

光の球体に負けない速度でおれは飛び出した。

次の瞬間、おれはセーバーを左下から右上へ振り抜いていた。荒々しく出力が上がっていたセーバーの青い光刃が元に戻っていく。

視界には誰もいない。

おれはセーバーの光刃を納め、マウントに柄を戻した。振り返ると、黒川が両手にナイフを握ったまま、こちらに背を向けて立ち尽くしていた。

黒川の上半身が左肩から右脇腹にかけての大きな切り口に添って、ずれ落ちた。上半身を失っても立ち尽くす下半身と、床に転がった上半身が青い炎に包まれ、燃え上がった。激しく燃え上がると跡形も残らず、全てが消え去った。

デススラッシュ。

ナイト·ブルーセーバーの必殺技だ。

何人のナイトをこの技で斬り裂いたのだろう? 思い出すこともできない。

最強のブルーセーバーを倒すため、次々にナイト達が戦いを仕掛けてくる。

あんたが最強の戦士だとして、次々に刺客が送られきたらどうする?

おれなら、斬り続ける。

まだ、死にたくないからな。

それにしても、ザ·ロードって一体何者だ。

すべてのナイトの創造主···神に近い存在と黒川は言っていた。

神を名乗る奴にろくな者はいない。

そして、ザ·ロードはより強いナイトを求めているとも言っていた。

おれが最強のナイトであり続ければ、いずれ姿を現すだろう。

え、会ってどうするかって?

もちろん、殺すに決まっている。


「じゃ、帰ろ」

声をかけると、村上がうなづいた。帰り支度をして、二人でオフィスを出た。

エレベーターに向かう途中、営業部の前を通るとき、ドアが開き、中から黒川が出てきた。

「あ!」と口には出ないもの、おれと目が合った黒川は、目が見開き、口は「あ!」の形に開いていた。

「樫尾さん、申し訳ありませんでした」

黒川が90度腰を曲げて、頭を下げた。直角だ。分度器があったら測ってみたい。

黒川が顔を上げた。世界一情けない顔をしている。

「今回は身内で何とかなったんだから、セーフだよ。でも、客先を巻き込んだら、始末書だからな、気をつけろよ」

なるべく柔らかな物言いで言ったつもりだが、最後だけ口調が強くなってしまった。

黒川がまた、直角になった。

「おまえもこんな遅くまで残って、大変だったな」

ポンポンと黒川の肩を叩き、エレベーターに向かった。村上が続く。ドアを開き、振り返ると黒川はまだ、直角だった。呼びかける。

「黒川、お疲れさん。明日もがんばろう」

そう言うと、一度直立に戻った黒川がまた直角になった。

村上もつられて、頭を下げていた。直角に頭下げても、見えないぞ、村上。

エレベーターの扉が閉まる。

エレベーターが降下を始めると村上が肘で、おれの脇を突っついてきた。

「大人じゃん」

まぁね。おれはスマホのスケジュール帳を見た。大丈夫そうだ。

「週末、二人で行こうか、焼肉」

村上にそう言うと、彼女は一瞬驚いたように真顔になった。そして、崩れるように顔いっぱいに笑顔が広がった。

「うん、うれしい」

この子の笑顔を見てると、いつもそう思う。

この笑顔をずっと見ていたいと。

しばらく、見つめ合っていると、エレベーターが一階に着いた。扉が開く。

開いた先のエントランス。

真っ白な空間だった。

白い壁、白い床とかの部屋ってわけじゃない。

ただ白い、何もない虚無の空間。

ビル内のワンフロアとは思えない。白い空間が先も見えず、永遠に続いている。

そこにポツンと一人の人影があった。

漆黒の黒いローブに身を包んだ人物。フードを深くかぶり、顔が見えない。

右手に手振りベルを持っている。長い袖に隠れ手元は見えない。艶のない黒色の金属製のベル。優雅さのない無骨な見た目。

ローブの人物はベルを振った。

その見た目とは違い、軽やかで優しい音色が響く。

チリン、チリン。チリン、チリン。一定のリズムでベルは鳴る。

隣にいた村上が黒い粒子となって、湯気のように蒸発していく。

エレベーターの室内も同じように蒸発するように消えていく。

意識が遠のいていく。

視界が真っ白になっていく。

おれはナイトのデスゲームがあるたびにザ·ロードに出会っていた。

ザ·ロードが自ら出向いての記憶操作。

デスアムネジア。

ナイトの戦いなどなかったかのようにパラレルワールドを作り出し、より現実を感じたときに断片的に記憶を消し去る。

お手上げだ。

おかげで、おれの一番大切な記憶が消えていく。

村上の記憶が···


「樫尾さん!」

肩を揺らされ、目を覚ました。顔見知りの警備員だった。左腕のクロノグラフを見ると、日付けを越えた所だった。

「こんなとこで寝てると、風邪引きますよ」

巡回の途中だったのだろう、そう言って、警備員はオフィスを出ていった。

いつの間にか、眠っていた。ずっと夢を見ていたような気がする。軽く、頭が痛い。風邪かな?

いや、違う最近、よくあるやつだ。妙な感覚。

ほとんどの場合、夢なんて覚えていないけど、たまにしっかり覚えているときがある。

そんな鮮烈な夢を見た覚えがあるのに、それを思い出せない。

まるで、頭の中をかき回されて、記憶を消されたみたいだ。

夢を見た。その感覚があるだけで、何も覚えていない。

誰もいないただっ広いオフィス。いつもと変わらず清掃が行き届き、整然としている。汚いのはおれのデスクだけだ。夜食のファストフードを食べた後が散らかっている。

バーガーの紙袋にピクルスのスライスが一枚あった。

おかしいな、そんなの普段は残さないのに。ヒョイとピクルスをつまみ、口にした。口中に酸味と化学調味料の味が広がる。不味い。

思わず、ストローの刺さった紙コップを取り、すすった。

スプライトの香りのする水が不快な味を流してくれる。

でも、生ぬるい。

紙コップを振ってみた。氷が完全に溶けている。

仕方ない。背に腹は代えられない。生ぬるい水をもう一度、すすった。

何気にデスクの上のマスコットを突っいてみた。チェロを弾く黒猫のマスコット。猫が演奏に合わせているように首を振る。お気に入りの黒猫だ。

あれ、これ、誰にもらったんだろう? 思い出せない。

左隣のデスクを見た。机上には何もない無人のデスクだ。あれ、ここ誰かいなかったっけ。考えたけど、わからない。気のせいか。

不意にひとすじの涙が流れた。目を拭った。おれ、何で泣いてるんだ?

あくびが出た。眠いだけだな。帰ろう、きっと疲れてるんだ。

腰のベルトパックに手を伸ばし、フリスク缶を取り出す。

フタを開け、振り出した。

三粒。

コントロールが悪い。

口に放り込み、噛み砕く。刺激が強過ぎた。ミントがキツい。

デスクの上を片付けて、帰り支度をした。オフィスを出るとき、ふと振り返った。

何か、釈然としない。

後頭部を掻いた。そのまま頭頂部に手を持っていき、頭をクシャクシャにした。

何で、こんなに悲しい気持ちになるのだろう?

考えてもわからない。

何か大切なものを失った喪失感が心の奥から湧き上がる。

でも、どうしてもそれが何なのか思い出せない。

イライラが募る。おれは手にしていたカバンを放り投げ、自分のデスクに戻り、キャスター付きのオフィスチェアのアームレストを掴み、力任せに投げ飛ばした。

チェアが転げ回る。

声を上げた。

体の奥底から湧き上がる悲しみ、怒りを吐き出すように叫んだ。

だが、オフィスの静寂がすべてを飲み込んだ。

しばらく呆然とした。

ただっ広いオフィスの静けさに押し潰されそうになった。

何でこんなにイライラするんだ。何でこんなに悲しいんだ。

転げたオフィスチェアを見て、少し冷静になった。

チェアを起こす。良かった、最近の椅子は丈夫だ。

自分のカバンを拾い、パンパンと埃を払う。

出口まで向かい、もう一度オフィスを振り返った。

整然とした静寂のオフィスがあるだけだった。

おれはオフィスを出た。

リセット。

このときはまだ、ザ·ロードに踊らされているだけの自分に気づけなかった。

だって、夜な夜な、自分を中心にしたデスゲームが繰り広げられているなんて、夢にも思わないだろ。

デジャヴ、既視感を感じたことはあるかい?

初めて訪れる場所なのに見覚えがある。初めて会った人なのに会ったことがある気がする。前にもこのシーンを体験したことがあると感じる。

そんな感覚に包まれたことのある人は要注意だ。

リセットに巻き込まれているかもしれない。

ナイトはすぐそこにいる。

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K·night 宮本 賢治 @4030965

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