#33 明けない闇夜 その4

 真冬の氷雨が降り注ぐ闇夜の中、傘も靴も無い私は、痛む足を引き摺ってとぼとぼと歩いた。



 苦痛、飢え、寒さ、孤独――様々な責め苦に耐えてきた私だったが、今回のことには流石に心を打ちのめされた。

 このまま家に戻った所で、どうせまた同じ運命が繰り返されるだけ。



 助けてくれる者など誰も居ない。

 救いたいと思っていた家族からこんな仕打ちをされては、もう救おうという気力さえ失われた。



 行く当ても無く、目標さえも失って、幽霊のようにフラフラと彷徨い歩いていると、まるで気付かぬ間に吸い寄せられていたかのように、橋の上に来ていた。

 雨で水嵩みずかさが増した濁流が奏でるザアザアという音が、私には誘いの声のように思えた。



 ――こっちにおいで。

 ――楽になれるよ。

 ――苦しまなくていいよ。



 或いは、あれは死神の声だったのかも知れない。



 その甘い響きで、私は初めてその選択肢に思い至った。

 こんな残酷な人生が続くのなら、終わり無き苦しみが続くのなら、自分も他人も救えないのなら、生きることに一体何の意味があるのか、と。



 躊躇いは無かった。

 未練も無かった。

 恐怖さえも。



 空っぽの私は手摺を乗り越え、綿埃のように飛んだ。



 氷のような冷たさを感じたのは、ほんの一瞬。

 私の意識も視界も、全て闇に呑まれた。



 ただ、安堵だけがあった。






 かくして、絶望に満ちた人生はエンディングを迎えたかに思えた。



「ここは……」



 しかし、目覚めたそこは死後の世界ではなく、病院のベッドの上。



「おお、気が付いたね。もう大丈夫だ」



 意識を取り戻した私に、医師と看護師が優しく言い聞かせ、こうなるまでの経緯を語ってくれた。



 私が川に飛び込んだ瞬間を通りがかった人が目撃して、しかもその人が泳ぎの名人で、橋の近くにあったこの病院に運ばれたという、偶然が重なった『奇跡』が、今のこの結果なのだと。



 真冬の川に身一つで飛び込めば、まず間違い無く溺死か凍死するはずだった。

 だと言うのに、死ねなかった。



「どうして……」



 そんな私に追い打ちを掛けるように、更なる事実が告げられた。



 凍て付き荒れた川の中に飛び込み、私を救った人物――彼は助からなかったのだ。



「あなたが気にすることではありません。子供の頃から、目の前の誰かを救うことに生きる意味を見出していたのです。あの子も本望でしょう……」



 病室にやって来た母親が語るには、彼女の息子は自衛隊志望の高校三年生で、優秀な成績を修め、既に有名大学への進学が決まって恋人まで居たそうだ。



「辛いことも多いでしょうが、どうか諦めないで。あの子の分まで……」



 青年の母親は涙を流し、私の手を握り締めて励ましの言葉を掛けた。

 純粋なその想いは、しかし私の胸を残酷に抉った。



「そん、な……」



 生き地獄に耐え切れず死を選んだ私が助かり、私よりも年若い、光ある未来を歩むはずの者が代わりに永遠の闇に呑まれてしまった。



 何故あの橋を選んでしまったのか。

 何故身投げという方法を選んでしまったのか。

 あの場所でなければ、あの方法でなければ、こんな残酷な結果にはならなかったはずなのに。



 彼は、私が殺してしまったも同然だ。



「――っあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」



 人は何のために生きるのか。

 私は何故生まれてきたのか。



 生まれてきさえしなければ、こんな絶望を味わうことも、無関係の者の命を散らせてその家族を悲しませることも無かったというのに。



 絶望の生から逃れるために死へ踏み出したのに、もがくほどに沈んでいく底無し沼の如く、より深い絶望に堕ちてしまった。



 かと言って、改めて死を選ぶ気にもなれなかった。

 それは私を救った青年の尊い命と、勇敢な行動を無駄にすることになってしまう。



 存在しているだけで、自分も他人も不幸にしてしまう。

 まさしく私は『悪魔の子』だった。



 後日、母がやって来てこう言った。



「あと数日で退院ですってね。出たら真っ先に教主様に土下座しに行くのよ」



 私の世界は何も変わらない。

 依然、地獄のままだった。






 教主も殴られて少しは懲りたのか、あれ以来私を呼ぶことは無かった。

 両親も、また追い詰めると今度こそ私が自殺を完遂させかねないと思ったようで、強硬手段を取ることは無かった。



 だが、それでも彼らが考えを改めることは無く、相変わらず私に苦痛を強いてきた。



 実家を離れ、アパートで一人暮らしを送っていたある日、母が訪ねてきた。



「見合い、ですか……?」



 一人暮らしと言っても、教団の眼が届く場所で、親や教団の干渉は未だ続いていた。



「あなたはずっと『自分さえ良ければいい』という身勝手な考えを抱いていたから、教義に反することばかりして、自分の愚かさや醜さに全く気付けなかったのよ。結婚して家庭を持ち、自分以外に大切な相手を持てば、自然と奉仕の精神が養われるわ」



 母は何も分かっていない。

 誰かに尽くすことが美徳という点には同意するが、それが押し付けになっては只の悪徳であり偽善でしかないということを、私は目の前の人物から身を以て学んだ。



 私はずっと、自分だけでなく家族をも教団から救いたいと願い、私なりに行動に移してきた。



 しかし、今となってはもう諦めている。

 自分一人の身もどうにかできないような半端者が、他人を救おうなど傲慢だったのだ。



 写真の見合い相手は、品の良い整った顔立ちの青年だったが、当然ながら彼も筋金入りの信者であり、しかも母が言うには教団幹部の息子で、この見合い話も教主が直々に斡旋したのだそうだ。



「この前実際に会ってきたわ。あなたの今までの愚かな過ちも全て承知の上で『それなら僕が変えてあげよう』『夫として神の道に導いてあげよう』って自分から言ったのよ? こんなに素晴らしい人がこの世に居たなんて、驚きと感動で涙まで流しちゃったわ」



 教団が決めた相手と、教団開催の合同結婚式で結ばれ、生まれた子を入信させて教団の奴隷にする――両親や祖父母と寸分違わない道を進まされる。



「こんな素敵な縁談、逃したらもう一生来ないわよ? みんなあなたのために言ってるのだから、この人と結婚しなさい。日取りはもう決めておいたから、失礼の無いよう笑顔で応対するのよ。いいわね?」



 両親はそれこそが私の幸福で、そのお膳立てが親心であり正当な愛情であり、自分たちが『天国』へ行く為の功徳くどくになると微塵も疑っていない。



「――私は嫌です」



 それをして喜ぶのは教団だけだというのに。

 私は一層苦しむだけだというのに。



「……何ですって?」

「嫌です、と言いました。あなたたちと同じ人生を歩むくらいなら、死んだ方がマシです」



 私という存在は、この世に生まれ落ちる以前から教団の所有物だった。



「いい加減にしなさい輝夜カグヤッ! 私たちがここまでしてあげてるのに、みんなあなたのためを思って幸せにしてあげようとしてるのに、どうしてそれが分からないの!? 私たち家族は『天国』に行かなくてはならないのよ!」

「分かっていないのはあなたたちの方です。本当に私の幸福を願っているのなら、もう娘とは思わず放って置いて下さい。『天国』にはあなたたちだけで行けばいい。私の人生は私のもの、行き先は自分で決めます。それが『生きる』ということなのだから」



 自分の歩く道は自分で決めてこそ、人間としてあるべき形。

 上位者に指図されるがまま、ただ働かされて搾取されるのは奴隷か家畜の生き方であり、最早それは人間とは呼べない。

 本当に『天国』なる尊い領域があったとしても、意志も思考も誇りも尊厳も棄ててしまった、人に非ざる隷属者がそのような高みへ上れるはずが無い。



「何様のつもり!? そんな勝手な真似が許されると――」

「憶えておいて下さい。また以前のような強硬手段に出れば、私は舌を噛み切って今度こそ死にます。我が子の自殺を止められなかったら、あなたたちは親として失格。きっと『天国』には行けないでしょうね」



 前例があるだけに、ハッタリではなく本気だと伝わったのだろう、母の顔がぐっと歪んだ。

 生まれて初めて、親に勝った気がした。

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