あいつとだけはあり得ない!

@kobemi

第1話 晶、恋文朗読の刑に処される。

「はぁ…」

広い講義室の最後部付近。三人掛けの椅子の右端に身を沈めていた浦木晶うらきあきらの漏らした吐息は、周囲の人々の話声に無事、かき消された。

彼女の隣で晶の側に詰めるようにして席に着いていた、鮎川泉あゆかわいずみは、そのことにほっと胸を撫で下ろす半面、晶がまた彼女のしていることを誰かによって咎められ、内省する機会を失ったことを歯がゆくも思った。本来その役目は、他でもない自分が務めなければならないものと、泉は了解していた。晶がいつか自分自身の欲望に負けて、罪を犯すようなことになる前に、私が止めなければならない…。泉は最近、その決意を固めてばかりいた。だが、実際に友人思いの泉が彼女の考えを実行に移せたためしはなかった。なぜか。

「はぁ…」

また一つ、晶がそれは深いため息を零した。さらりと流れる光沢を放つ黒い髪。目鼻立ちのはっきりとした、端整な顔立ち。横顔を見ている分には良い目の保養になる。だが、泉は知っていた。彼女がその整った容姿を帳消しにし得るほどの、重大な欠陥を抱えていることを。

「おっと」

ぽつりと、机の上に何かが垂れた。いかんいかんと、ティッシュを取り出して、晶がせっせとそれを拭う。そして、また別にもう一枚、ティッシュを取り出して口元にも当てた。途端にじわりじわりと大きな染みが広がって、薄いティッシュの一枚程度では手に負えないものになっていく。晶はそれでも体裁を気遣うだけの最後の理性はまだかろうじて持ち合わせていたらしく、邪魔しないでよとでも言いたげに今度はハンカチを取り出して、乱暴に口元を拭った。

泉は、毎度のことながら慄然としていた。が、すぐさま持ち前の冷静さを取り戻した。背中に冷たいものが這うような心地という形容はこういう場合に用いられるものなのだなと、この光景を見るのもn回目になんなんとしている泉は、そんな呑気なことを思うことのできるほどの豪胆さを身につけていた。そうでなくては、とてもじゃないが、晶のそばで授業を受けようなどとは思えない。

「やっぱさすがに、よだれはどうかと思う」

軽蔑の念をこれでもかと込めて、泉は信じられないという顔をしてみせた。

「ちょっと黙って。私は今集中してるのよ」

ぴしりと左手の掌を泉の方に差し向けて、晶は泉の次なる追及の手を制したつもりでいる。泉の冷たい視線を受けても、彼女は眉筋一つ動かさない。ついでに言えば、彼女の長い睫毛に縁取られた瞳は、まるでその機能を失くしてしまったみたいに、さっきから一度たりともまばたきというものをしていなかった。

血走った双眸は、凝っと一点だけを狙い竦めている。彼女の視線の先にあるのは、花柄のワンピースを身に纏った小柄な女子の後ろ姿だった。泉と晶の掛けている列から四、五列前の席に座るその女の子の名前を、当然のことながら二人は知らなかった。

「はぁ…」

三度目の嘆息。熱っぽい吐息は、聴く人が聴けば情欲をかき立てられもしたかもしれない。だが、恍惚としただらけきった表情を浮かべる吐息の主の姿を見れば、その幻想は忽ちかき消されるだろうことは想像に難くない。

変態だ。

泉は自身の性格はどんなかと尋ねられれば、変に虚栄心を張ることもなく、温厚と答えることのできる優しい心の持ち主だった。だからこそ、その泉に情け容赦のかける余地なしと断罪されて、変態という不名誉極まりない称号を、泉の心の中のこととはいえ付されようとしている晶が、どんなに手の施しようのない変態であるかが窺え知れるというものだった。

「はぁ…なんて綺麗な黒髪…。黒曜石の輝きのよう…。吸い込まれちゃいそうだわ…」

吸い込まれてしまえ。

それが目の前で、後から見つかれば黒歴史として葬られること間違いなしの、中学生の綴るレベルのポエムを頼んでもないのに聞かされている泉の率直な感想だった。

「あの子の近くの空気を心ゆくまで味わい尽くしたい…。きっとはちゃめちゃにいい匂いがするに違いないわ…。想像するだけで、ちょっと!もう!まずいかも…」

両方の腕をぶんぶんと振って、かなりキワどいスレスレの発言をする晶。見てられないとばかりに泉は、ずきずきと痛みだした頭を押さえて、なんとも悲痛げに表情を歪ませている他なかった。

「もし、もしもよ。あんたがそれを本当にやろうとしてみなさいよ。あんたの着てるパーカーのフード引っ掴んででも止めるわ。首が締まろうがなんだろうが力は緩めないから」

ああ、私はどうして頭の割れるような痛みを堪えてまでこんなやつのお守りをしているんだろう…。ふつふつと湧く疑問が頭の中をぐるぐると駆け巡るような感覚に苛まれながらも、泉は彼女の頭痛の元凶に向かって、低く脅しの言葉をかけた。

「ん?それには及ばないわ。あの子の両隣はちゃっかり埋められっちゃってるんだもの。まったく…ろくにデートのお誘いだってできやしないんだから」

きょとんとした顔で泉の方を振り向いて、口を尖らせた晶はぶつぶつと文句の言葉を並べ立てた。

そこには常日頃から彼女が悪行に走ろうとするのを、何がなんでも食い止めなければと腐心している泉のことを労い、感謝する気持ちなど、微塵も感じられない。

「もちろん、あの両隣の子達だって、十二分にかわいいくて、美人さんよ?でもね。やっぱり私は、あくまでも一途な気持ちであの花柄ワンピースの君の一人にだけ、私の熱い思いを注ぐことに決めたわ」

ようやくのことで、あの女の子の後ろ姿を網膜に焼き付ける作業を一時中断することを許された自身の瞳から、ほろりほろりと流れ出す苦労の後を拭いながら、晶は世界中のどこを探しても彼女以外には到底理解し得ないだろうトンデモ理論を揚々と力説してみせた。一途ってあんた、この教室に入る前まで、別の女の子の話してたじゃない、私が頼んでもいないっていうのに。この十分かそこらの間でころりと意中の相手を替えてしまうような女のどこに一途な要素があるというのだろうか。泉は一瞬、かっとなってそういう反駁の言葉を口にしかけたけれど、また性懲りもなく一心不乱に花柄ワンピースの女の子を眺める作業に戻ってしまった晶のひどく神妙な面持ちでいるのを認めて、彼女の前ではどんな言葉も焼け石に水、霧散してしまうことを悟って、すぐさま口をつぐんだ。

これだ。泉が浦木晶という女の変態まがい、もとい変態そのものの尋常ならざる行為に目をつぶらざるを得ないでいるのは、彼女の一度この女の子と決めた相手に対して尋常ならざる真剣さでがむしゃらに向かっていくこの狂気が、泉の彼女のことを注意し、たしなめようとする気力を減退させ、ひどい時には間近でいる泉の身をすくませることすらあるからだった。

こいつには勝てない…。太刀打ちのしようがない…。泉はもう口をぱくぱくさせるばかりで、最後には閉口した。もうなるだけ晶のことを視界に入れないようにしようと、体全体を自分から見て左側に傾けて、講義室の全体を望むような体勢にした。これで清々した。もう金輪際、浦木晶の一挙手一投足に関して細心の注意を払い、気を揉みに揉むようなバカなまねをするのはよそう。もし晶がどうかして、警察のお世話になるようなことになったとしても、それは私のせいではなくて、そうなるべくしてなったことで、そういう運命だったのだと結論付けてしまえばそれで済む話じゃないか。

泉は、我ながら良い落としどころを見つけることができたと満足して、隣に座る晶のことを完全に彼女の意識下から追い出した。

平和。平穏。ここ最近の泉の生活にはあり得なかった穏やかな時間だけが、彼女のことを優しく包みこんで、彼女の良き理解者、話し相手となってくれた。いや、もはや言葉なんて無粋なものなど必要ない。進んでいるのかどうかすら怪しいと思えてくるほどに、のろのろとした進み方をする時間は、彼女の心を解きほぐし、溶解し、最後には一体化していく。私の思考は彼の思考で、彼の願いは私の願い。どこぞのガキ大将とは好対照なすてきな詩が、遅々として進む時の中にいる泉の心にふと浮かんだ。

「え」

ううむ、眩しい。

「え、なんかあいつめっちゃこっち見てるんだけど」

なんなんだこの光は、うっとうしいことこの上ない。

「うわ、近づいてきた…」

うぅ…。目を刺すような激しい閃光が襲ってきて、泉は彼女の意識を、思考を放棄したどこまでも気楽で、伸び伸びとしていられた世界から強制的に連れ帰らされた。

「ちょちょ、ちょっと…!」

声のうるさい方を見やれば、晶が誰だか知らない女に両手を握られていた。いや、捕まえられていたという方がより正確かもしれない。ついにこの時が来てしまったか…。泉は晶の両手を掴んでいる女のことを、ずっと以前から晶のことをマークしていた捜査官か何かに違いないと、盛大な勘違いをしていた。実際はその真逆という方が穏当で、つまりは類は友を呼ぶ案件なのだった。

「やっぱり!ちゃんだよね!」

なにがなにやらと混乱して、これでもかと丸くした目をぱちくりさせるばかりの晶の両方の瞳を、まるでその中に何かあるみたいにじっくりと見つめた後、名も知らぬ女は破顔した。どうやら女の頭の中では何かしらの解決が見られたようだった。

「あ。えーと、どちら様?」

「えー!覚えてないとは言わせないよぉ!」

何がなにやら、泉の方もただただ茫然とするばかりだった。それはもちろん、目の前で友人が名も知らぬ女に両手を掴まれ(いつの間にか彼女たちの指は絡み合うようになっていた)、全く以って嚙み合い出す気配を見せない、平行線の会話を展開し出したことも、彼女の当惑を手伝ったのは確かだったけれど、一番に驚嘆し泉に度肝を抜かれる思いをさせたのは、そのことではなかった。

あの晶が、無類の女好きで通っているはずのあの晶が、女の子と(それも結構かわいい)と両手を絡み合わせているというのに、一つの興奮の色も見せずに、ただひたすらに怯え切っているという事実が、泉の困惑を加速させた。これは一体どういうことなんだ?

「ゆいだよ!みなと・ゆい!」

見知らぬおんーもとい、得体の知れない女、自称みなと・ゆいは、虚空に漢字はこうねとすらすらとひょろ長い指で彼女の名前の漢字を書き起こし始めた。

ようやく拘束を解かれた晶は、両方の手に不調はないかどうかの確認をした後、結衣(女の解説によると、彼女のフルネームを漢字で書くと、湊結衣みなとゆいになるそうだ)の方を見向きもしないで、「いやぁ、無理ですね。思い出せそうにないです…。人違いじゃないですか?」と、曖昧な苦笑いを浮かべて、極めて他人行儀な口ぶりでそう言った。その笑い方にはどこかぎこちない、必死に結衣の追及を逃れようとするようなところが見られたように、泉には思えてならなかった。心理学の講義で先生の言っていた言葉を借りるなら、晶は今、明らかにというものを見せたのに違いなかった。それでも、往生際の悪いことに、晶は身をよじって壁側の方を向いてまで、自身の焦りで引きつった顔を見られまいと、結衣と泉の二人に動揺を悟られまいとする。

「な、なによそれ!」

どんっ、と机の上に両手をついて、結衣はほどんど叫ぶような勢いだった。彼女の頬はさっと朱色に染まって、どれだけ彼女が晶の不埒な態度に苛立っているかが、泉には自分のことのようによく理解できた。そしてそれは晶にとっても同じことだったらしく、ほとんど泣き出しそうな顔をしていた決壊寸前の結衣のことをちらりと仰ぎ見て、ばつが悪そうに目を伏せた。

「わかった…。じゃあこれならどう?」

これ以上どれだけ言葉を重ねたとしても、晶が自分の言うことを認めてくれる見込みはない。そう判断したのだろう、結衣は本当はこんなことしたくなかったんだけどね…、となにやら不穏なことを口にして、提げていたトートバッグをごそごそとやり出した。

そんな風に女の子のこととっかえひっかえして、いつか誰かに刺されちゃっても知らないわよ。いつだったか晶にした自身の忠告の言葉を思い出しながら、泉はたとえ結衣がバッグの中から刃渡り十センチの包丁を取り出すようなことがあったとしても決して驚くことはないなと、そんなような悠長なことを考えていた。

「そ、それって…」

「そ。これでも私のこと思い出せないなんて言える?」

幸運なことに、泉の想像した最悪の事態は現実のものとはならなかった。が、震える瞳で結衣の取り出したものを認めた晶は、結衣がナイフでも包丁でも取り出して自分のことをぶすりとやってくれた方がどんなによかったか知れないと、そんな押し寄せてくる厭世的な気持ちに体をきりもみされるような気分でいた。

「結衣へ。ずっと前から好きでした。もしあなたも私と同じ気持ちだったら、付き合ってください…」

取り出した年季の入ったピンク色の便箋に目を落としながら、結衣はとつとつとそれを読み上げた。恋文を公衆の面前で、しかも差出人の居合わせている場でそれを読み上げるというのは、残酷極まりなく、唾棄すべき行為に他ならない。今まで晶の犯してきた数々の変態行為の罪の重さを差し引いたとしても、ラブレターの本文朗読なんていう刑罰はあまりにも重すぎる。泉は心の底から隣の晶の心を案じた。掛値なしに、彼女の精神の瓦解していく音が聞こえてくるような気がした。恐る恐る右隣りの彼女の方へと視線を向けると、ぎょっとするほどに顔面を蒼白にした晶がいた。天を仰ぐようにして口をあんぐりと開けた彼女からは、およそ生気というものは感じられそうもなかった。

「中学生の時にこの愛の告白を受けてからずっと、返事を出せずにいたけれど、今、ここで言わせてもらうね…」

そんな魂の抜けたようになっている晶のことなど歯牙にもかけず、結衣はあくまでもたおやかな微笑を浮かべた。

「はい…。よろしくお願いします…」

気恥ずかしそうに、体をもじもじとくねらせて、両方の頬をさっきとはまた別の朱色に染め上げた結衣は、もはや死体同然となってしまった晶の手をそっと持ち上げて、四年越しで愛の告白に対する返事をしたのだった。



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